第43章 遠い国からの音
七月のロウアー・スローターは、午後の光が長かった。
美夏が、二十二歳になる日だった。
石の壁が、はちみつ色に光を吸っていた。垣根のばらは、盛りを過ぎかけていた。アイ川のほうから、水と草の匂いが届いていた。
音楽院で、三年が過ぎていた。
オーケストラでファーストヴァイオリンを弾いた日も、四人で弾いた日も、一人で舞台に立った日もあった。
長い休みのたびに、美夏はこの村へ帰ってきた。帰れば、ルイと弾いた。村の教会。近くの町の小さなホール。人が入る日もあれば、二人だけの日もあった。
はじめのころは、合わせる前に話した。ここはこう、そこはもう少し。
その言葉が、いつのまにか要らなくなっていた。
ルイの冷蔵庫のなかは、美夏が何度言っても変わらなかった。ヴァイオリンケースを置く場所は、決まっていた。窓のそばの、ヴィオラケースの隣だった。
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その夜は、実家の食卓だった。
理沙が料理を並べた。陽翔がサラダを作った。夏生が、ワインを開けた。ルイも来ていた。
夏生が、美夏のグラスにも注いだ。
「みーちゃん、おめでとう」
理沙が言った。
グラスが、軽く鳴った。
夏生が、先に食べはじめた。
「夏生、最近つかまらないな」
ルイが言った。
「飲みにも行けない」
「言えよ、行くよ」
「言ってる」
夏生は、肩をすくめた。
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途中で、夏生の電話が鳴った。
夏生は、画面を見てから出た。
「はい。……ああ、それ、こっちで見てる」
短く話して、切った。
「ごはん中よ」
理沙が言った。
「終わった」
陽翔が、顔を上げた。
「何だった」
「例の件」
「ああ」
陽翔は、サラダを取り分けた。
理沙が、陽翔のグラスに水を足した。
「ママ、旅の連載増えたんだって?」
美夏が聞いた。
「そうなの。二本」
「大変じゃない?」
「はるくんが一緒に行ってくれるから、書けるのよ」
理沙が言った。
陽翔は、何も言わずにパンをちぎった。
「来月、どこだっけ」
陽翔が言った。
「ヨークシャー」
「何日?」
「三日」
陽翔は、少し考えた。
「四日にしよう」
「まだ、宿も取ってないのに?」
「一日多いほうがいい」
理沙は、笑った。
美夏は、グラスに口をつけた。
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食後に、理沙が小さなケーキを出した。
ろうそくが、立ててあった。
「まだ立てるの?」
「立てるわよ」
美夏は、笑って吹き消した。
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何日か、あとだった。
美夏は、ヴァイオリンを持ってルイの家へ行った。
玄関に、小さなヴァイオリンケースが三つ並んでいた。
なかから、音がしていた。子どもの音だった。
美夏は、そっと入った。
部屋には、子どもが三人いた。一人が弾いていて、あとの二人は床に座っていた。
ルイは、譜面台のそばに立っていた。
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弾いていた男の子が、途中で止まった。
「少し急いだ」
ルイが言った。
「次の音に、急がなくていい」
男の子が、弓を構え直した。
もう一度、弾いた。
「そこ、いいよ」
次は、女の子だった。楽器が、小さかった。
構えたところで、ルイが言った。
「弾く前に、一回だけ聴いてみて」
女の子が、顔を上げた。
「なにを?」
「この場所の音」
女の子は、しばらく黙っていた。
この家は、天井が高かった。
それから、弓を動かした。
音が、天井のほうへのぼっていった。
「かえってきた」
女の子が言った。
ルイが、頷いた。
「もういっかい」
「どうぞ」
美夏は、壁のそばに立っていた。
同じことを、ルイから聞いた記憶があった。
もっと小さいころに、村の教会で。
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レッスンが終わった。
子どもたちが、楽器を片づけはじめた。
「みーちゃん、また先生と弾いて」
「聴きたい」
「二人のやつ」
三人が、口々に言った。
ルイは、美夏のほうを見た。
「みーちゃん、今日はどうする?」
美夏は、少し笑った。
「いいよ」
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子どもたちが、座った。椅子に座った子もいれば、床に座った子もいた。一人は、椅子の上で足を揺らしていた。
美夏は、ヴァイオリンを出した。ルイが、ヴィオラを構えた。
小さな公演で、二人がよく弾く曲だった。短くて、軽い曲だった。
ヴィオラが、先に入った。
美夏が、その隣に入った。
はじめは、足が動いていた。床の子が、体を揺らしていた。
少しずつ、静かになった。
曲は、短かった。
最後の音が、天井のほうへ消えた。
拍手より先に、声が来た。
「もう一回!」
美夏は、笑った。
弓を下ろしても、その声がしばらく耳に残っていた。
この子たちに聴いてもらうのが、好きだ。
このごろは、特にそう思った。
「今日は、ここまで」
ルイが言った。
「えー」
女の子が、口をとがらせた。
「また今度」
子どもたちが、外へ出ていった。声が、道の先へ遠ざかっていった。
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夏が終わって、美夏はロンドンへ戻った。
最終学年だった。
秋になると、卒業のあとの話が美夏のまわりでも出るようになった。
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◇
その日は、雨だった。
先生の部屋に呼ばれた。
オーディションの日程を渡された。ヨーロッパの、いくつかの楽団だった。四人で組まないか、という誘いもあった。
「あなたなら、どれでも通ると思う」
先生は、そう言った。
わたしは、頷いた。
たぶん、そのとおりなのだろう。それだけの努力はしてきたと思う。
先生が、書類を置いた。
「それで」
わたしを見た。
「あなたは、どこで弾きたいの」
少し、遅れた。
言葉が、すぐには出てこなかった。
「……考えます」
先生は、それ以上聞かなかった。
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部屋を出て、廊下を歩いた。両側の練習室から、音が漏れていた。
弾くことは、好きだった。音楽家として生きていくことは、決めていた。
迷っているのは、できるかどうかではなかった。
どこで弾きたいか。
どんな演奏家になりたいか。
聞かれるたびに、答えが少し遅れた。
窓の外の通りを、傘がいくつも流れていった。
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その週の終わりに、村へ帰った。二日だけだった。
るいとの家は、あたたかかった。
戸棚から、カップを二つ出した。コーヒーを淹れて、テーブルに置いた。
「学校は、どう」
るいとが聞いた。
「オーディションの話が出てる」
「うん」
「楽団のと、室内楽と」
「うん」
るいとは、コーヒーを一口飲んだ。
「みーちゃんが、楽しんで弾けるのが一番だと思うよ」
ギムナジウム卒業の日から、るいとは一度も聞かない。音楽院を出たらどうするのか。気持ちは変わっていないか。
わたしは、カップを置いた。
「るいと」
「ん」
言いかけて、やめた。
「……ううん」
先に、決めたいことがあった。
それを決めてから、自分の言葉で言いたかった。
窓のそばのヴァイオリンケースに、薄藤色の房が下がっていた。
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十二月に入った日だった。
ルーカスから、メッセージが来た。
「日本で、いくつか編曲した。ヴァイオリンとヴィオラ用。美夏がくれた曲も入れた」
少し間があって、続きが来た。
「二人で弾いてみて、どう感じたか教えてほしい。楽譜、送るね」
何日かして、小包が届いた。
開けると、楽譜が入っていた。丁寧に手書きされた、薄い束だった。表紙に、ルーカスの字で題が書いてあった。日本の童謡を、ヴァイオリンとヴィオラのために編んだものだった。
データでも送れたはずだった。でも、ルーカスらしいと思った。
一枚ずつ、めくった。知らない曲が多かった。旋律は、どれも短かった。
束の後ろのほうに、あの曲があった。
「ゆりかごのうた」だった。
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わたしは、そのページを開いたままにした。
ヴィオラのパートは、簡素だった。旋律の下に、必要な音だけが置かれていた。飾りは、ひとつもなかった。
あのとき、合奏室のピアノで弾いた、左手だった。
ルーカスは、それをヴィオラに渡していた。
しばらく、その譜面を見ていた。
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クリスマスの休みに、村へ帰った。
鞄に、その楽譜を入れていた。
るいとの家の扉を叩いた。
「みーちゃん」
わたしは、なかに入って、楽譜をテーブルに置いた。
「ルーカスから来た」
るいとが、めくった。
「ゆりかごのうた」のところで、手が止まった。
るいとは、しばらくそこを見ていた。
あの夜、るいとも、あの部屋にいた。少し離れたところから、ママとわたしの背中を見ていた。
るいとが、顔を上げた。
「弾こうか」
わたしは、頷いた。
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譜面台を、二つ立てた。
わたしは、ヴァイオリンを構えた。るいとが、ヴィオラを構えた。
ヴィオラが、先に入った。
低いところから、音が置かれた。急がなかった。
わたしは、その上に旋律を乗せた。
ママが歌っていた旋律だった。
るいとの音は、ずっと下にいた。
あのとき、わたしがピアノの左手で置いた音を、今はるいとが弾いていた。
旋律が、前に出た。
高い天井から、音が響いてきた。
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最後の音が、消えた。
わたしは、譜面を見ていた。
弾き終わったばかりの、その一枚。
あの子たちの顔が、浮かんだ。
「もう一回」と言った、あの顔。
「……これ」
声が、出た。
るいとが、こっちを見た。
わたしは、譜面から目を上げた。
「あの子たちに、聴かせたい」
「うん」
るいとは、わたしを見ていた。
暖炉で、薪がはぜた。




