第42章 変わったもの、変わらないもの
七月のロウアー・スローターは、午後の光が長かった。
美夏が十九歳になって、何日かが過ぎていた。
石の壁が、はちみつ色に光を吸っていた。垣根に、ばらが咲きはじめていた。道の脇に、白と淡い赤が、こぼれるように咲いていた。アイ川のほうから、水と草の匂いが届いていた。
村のはずれに、その家はあった。
石造りの、古い家だった。ルイは、冬から、この村で家を探してきた。陽翔に言われたとおり、湿気と暖房、それから床を確かめながら、何軒も見て歩いた。
この家は、はじめのころから、候補に残っていた。
冬に一度、なかも見た。今日は、鍵を借りてきていた。
夏生が、家の前で足を止めた。
「ここか」
「うん」
夏生は、外壁を上から下まで見た。それから、ルイのほうを見た。
「入るか」
-----
鍵を回すと、扉は少し重かった。
なかは、ひんやりとしていた。
窓から入る光が、床に落ちていた。木の床だった。夏生は、上がってすぐ、床を軽く踏んだ。それから、壁に手を当てた。
「湿気は、悪くないな」
窓を開けた。空気が動いた。
ルイは、部屋の真ん中に立って、天井を見上げていた。天井は、高かった。
夏生は、暖房の位置を見て、水まわりのほうへ歩いていった。台所、それから奥へ。生活する側から、順に見ていった。
ルイは、部屋の広さを歩いて確かめていた。
-----
ルイが、ヴィオラケースを床に置いた。
「少し、鳴らしていいって、言ってもらってる」
夏生が、奥から戻ってきた。
ルイは、ヴィオラを出した。弓を持って、肩に構えた。
一音、鳴らした。
低い音が、部屋に広がった。
弓を、もう一度動かした。短い旋律を、置いた。
音が、部屋に残った。高い天井のほうへ、ゆっくりと消えていった。
夏生は、動かずに、それを聞いていた。
音が消えてから、言った。
「悪くないな」
夏生は、天井のほうを見た。
「天井が高いからだろ」
ルイは、ヴィオラを肩から下ろした。
-----
ルイが、ヴィオラをケースに戻した。
夏生は、台所に入っていった。
蛇口をひねって、水を出した。しばらく出したままにして、また止めた。棚を開けて、閉めた。
ルイは、台所の入口に立っていた。
「キッチン、ちゃんと見たか」
「見たよ」
夏生が、振り返った。
「お前、料理ほとんどしないだろ」
「しないだけで、できないわけじゃない」
「何作れる?」
ルイは、少し黙った。
「……卵」
「料理名で答えろ」
ルイが、笑った。
夏生は、また棚を開けた。それから、何気ない声で言った。
「みーちゃん、最近、母さんに料理習ってるぞ」
ルイが、夏生を見た。
「ロンドンじゃ、今度は寮じゃなくて、一人暮らしだからな」
「今日も、はるくんと母さんと、ロンドンだ。鍋とか食器とか、買いに」
夏生は、棚を閉めた。
「まあ、俺の料理でも育ってるからな」
「それは、知ってる」
夏生は、それ以上言わなかった。
-----
二人は、部屋のほうへ戻った。
夏生が、開けたままの窓のそばに立った。風が、入っていた。
「聞こえるな」
ルイが、窓のほうへ来た。
少し遠くから、川の音がしていた。川沿いの家で聞くよりも、細く、遠かった。
「うん」
ルイは、それだけ言った。
----
鍵を閉めて、二人は建物を出た。
道の脇で、ばらが揺れていた。
ルイが言った。
「どう思う」
夏生は、そっけなく言った。
「お前が住むんだろ」
ルイは、何も言わなかった。
道の先に、ほかの家の煙突が見えていた。
夏生が、口を開いた。
「俺なら、ここにする」
ルイが振り返ると、その家は、午後の光のなかに、静かに立っていた。
しばらく、それを見ていた。
-----
二人は家に戻った。
なかは、静かだった。三人は、まだロンドンから帰っていなかった。
夏生が、上着を脱いで、台所に入った。
冷蔵庫を開けて、なかを見た。
「腹減った?」
ルイは、リビングの入口に立っていた。
「うん」
夏生は、野菜をいくつか取り出し、洗った。
-----
ルイが、台所の入口まで来た。
「何すればいい?」
夏生が、にんじんを渡した。
「細かく。玉ねぎと同じくらいで」
「わかった」
ルイは、にんじんに包丁を入れた。切り口が、揃わなかった。大きいのと、小さいのが、混じった。
夏生が、それを見た。
「火の入りが変わるんだよ」
ルイは、もう一度、包丁を入れた。
夏生が、手を出した。
「……いい。皿出して」
ルイは、包丁を置いた。
戸棚を開けた。
白い皿が、重なっていた。上から二枚、取り出した。
カトラリーの引き出しを開けた。
「食器の場所、ずっと変わらないんだな」
「母さんが動かさないんだよ」
二枚の皿を、テーブルに並べた。カトラリーを、その脇に置いた。水のグラスを、二つ。
夏生が、フライパンを火にかけた。油の音がした。玉ねぎとにんじんが、色を変えていった。そこへ、挽き肉を入れた。ほぐれたところで、スパイスの瓶をいくつか取って、順に振り入れた。
「あの家」
夏生が、背中で言った。
「川、遠かったな」
ルイは、グラスに水を注いでいた。
「でも、聞こえた」
夏生は、フライパンを揺すった。
「そうだな」
-----
料理ができた。
夏生が、炊飯器を開けた。朝の残りが、まだ保温されていた。しゃもじで軽くほぐして、二枚の皿に盛った。その脇に、フライパンのものをよそった。
ルイの皿にも、同じだけ。
テーブルに置いた。
「食えよ」
二人で、食べた。
窓の外は、まだ明るかった。七月のロウアー・スローターは、日が長い。
食器の音がした。外で、鳥が鳴いた。
ルイが、口を開いた。
「たぶん、あそこにする」
夏生は、水を飲んだ。
「そっか」
「はるくんにも、一回見てもらえよ」
「うん」
ルイは、皿に目を落とした。
「そうする」
-----
夏が過ぎていった。
ルイは、最後の公演を終えた。
ウィーンのアパートを引き払った。
スタジオを返す日、ルイは最後に一度、部屋のなかを見た。ピアノの蓋は、閉じてあった。
ドアを閉めて、鍵をかけた。
荷物を、ロウアー・スローターの家へ移した。
家具が入った。テーブルと、椅子。ベッド。本棚。
譜面台が、窓のそばに置かれた。
ヴィオラケースの定位置が、できた。
台所は、設備は揃っていた。使われているものは、少なかった。
-----
九月になって、美夏は、ロンドンへ移った。
音楽院は、大通りに面した古い石の建物だった。門を入ると、車の音が少し遠くなった。
廊下の両側の練習室から、音が漏れていた。すれ違う学生の多くが、美夏より年上だった。すでに舞台に立っている人もいた。扉の向こうから聞こえてくるどの音も、通り過ぎるのが惜しかった。
大きなホールがあった。授業のない時間に入ってみると、知らない学生が一人で弾いていた。客席の後ろに立って、しばらく聴いた。音がいろいろな場所から戻ってきて、体の芯まで共鳴した。
-----
ロンドンでは、アパートで一人暮らしだった。
小さな部屋だった。窓が、ひとつ。美夏は、ヴァイオリンケースを壁のそばに置いた。
買い物をした。洗濯をした。食事を、自分で作った。
夏のあいだに理沙から教わった料理を、いろいろ試してみた。うまくいかない日もあった。味が、濃すぎたり、薄すぎたり。焦がした日もあった。
部屋では、ヴァイオリンを構えて、弓を使わずに指だけを動かした。練習室は、早く行かないと取れなかった。美夏は、朝の早い時間に家を出るようになった。
ルイとはメッセージや電話で繋がっていた。
-----
音楽院が始まって、数週間が過ぎた。
最初のまとまった休みに、ルイがロンドンまで来た。美夏の荷物を車に積んで、二人でロウアー・スローターへ帰った。
村へ着いたのは、夕方だった。木々が、色を変えはじめていた。七月に白かった道の脇のばらは、もう終わっていた。光が、夏のときより低かった。アイ川の音は、変わらなかった。
実家の扉を開けると、なかから、あたたかい空気がした。
「ただいま」
理沙が、廊下に出てきた。
「おかえり」
陽翔が、リビングから顔を上げた。夏生も、いた。
「ルイ、運転お疲れ」
「ん」
-----
五人で、食卓を囲んだ。
理沙が作った料理と、陽翔のサラダと、パン。いつもの食卓だった。
美夏が、少し、話した。新しい先生のこと。音楽院で聞いた音のこと。一人暮らしのこと。
理沙が、聞いた。
「ちゃんと食べてる?」
「作ってるよ」
美夏は、パンをちぎった。
「たまに、焦がすけど」
「火、強すぎるんだよ」
夏生が言った。
「さすが、料理上手」
理沙が言った。
「この前のキーマカレーも、うまかった」
ルイが言った。
「うるさいな」
夏生は、皿に目を戻した。
-----
夜が更けて、ルイが立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ」
美夏が、顔を上げた。
「明日、朝ごはん作りに行っていい?」
ルイが、美夏を見た。
「うん」
-----
翌朝、美夏はルイの家へ向かった。
朝のロウアー・スローターは、光が澄んでいた。
実家を出て、少し歩く。今まで何度も通った村だった。石の道も、垣根も、川の音も、知っていた。
でも、向かう先が、ひとつ増えていた。
-----
ルイの家は、村のはずれにあった。
石造りの、古い家。前に一度、なかを見たことがあった。ルイが暮らしはじめてから来るのは、はじめてだった。
扉を叩くと、ルイが出てきた。
「みーちゃん」
なかに入ると、ヴィオラケースが、窓のそばにあった。譜面台が、その隣に立っていた。家具は、少なかった。テーブルと、椅子がふたつ。本棚。
るいとらしい、と美夏は思った。
持ってきたヴァイオリンケースを、ルイのヴィオラケースの隣に置いた。
-----
実家から、食材を少し分けてもらってきた。卵と、パンと、トマト。理沙から持たされた紙の包みも、あった。
台所に立って、冷蔵庫を開けた。
なかには、ほとんど何も入っていなかった。パンが、少し。チーズ。飲みかけの牛乳。それだけだった。
美夏は、振り返った。
「るいと、ちゃんと食べてる?」
ルイは、テーブルのそばに立っていた。
「食べてるよ」
「これで?」
「外でも食べる」
ルイは、悪びれなかった。
美夏は、冷蔵庫を閉めた。
-----
ルイが、台所に入ってきた。
「何か、する?」
美夏は、卵を割っていた。
「じゃあ、お皿お願い」
ルイは、戸棚を開けた。
白い皿を、二枚出した。
-----
できたのは、簡単な朝ごはんだった。
卵を焼いて、パンを切って、トマトを添えた。理沙の包みには、ハムが入っていた。それも、皿に載せた。
卵は、少し焼きすぎた。
二人で、テーブルに着いた。
ルイが、食べた。
「おいしい」
美夏は、ルイを見た。
「ほんと?」
「うん」
ルイは、パンを口に運んだ。
この料理は、ロンドンで、自分のために覚えたものだった。
ルイが、もう一口、卵を食べた。
「ほんとに、おいしい?」
「うん」
美夏は、少し笑った。
-----
食後のコーヒーのあと、美夏がヴァイオリンを出した。
「少し、聞いて」
ルイは、微笑んだ。
まだ、途中だった。手が、覚えきっていないところもあった。
それを、聞いてほしかった。
-----
美夏は、弓を構えた。
弾きはじめた。
ロンドンの練習室で、何度も繰り返してきた旋律。まだ、自分のものになりきっていなかった。
ルイは、聴いていた。
弾き終えると、ルイが言った。
「入っていい?」
美夏は、頷いた。
ルイが、ヴィオラを出した。
美夏は、はじめから、弾いた。
ヴィオラが、入った。
美夏の音の、隣に。
-----
途中で、美夏は弓を止めた。
「そこ、もう少し、薄くして」
自分の欲しい音を、言った。
「後ろの、低いところ。もう少しだけ」
ルイは、頷いた。
「最初から、もう一度」
ヴィオラが、さっきより薄くなった。美夏の音の、後ろに、静かに沈んだ。
旋律が、前へ出た。
『わたしがロンドンで見つけてきた音と、るいとの音が、同じ部屋のなかで重なっている』
美夏は、目を閉じた。
-----
最後の音が、消えた。
二人とも、すぐには、動かなかった。
朝から、窓は開けてあった。
ここでは、静かになって、はじめて気づくくらいの遠さで、アイ川の音が続いていた。




