↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/49

第41章 渡っていく音

初夏のウィーンは、朝から光が高かった。


 合奏室の窓は、開けてあった。中庭の木が緑を濃くして、風が入るたびに、葉の音が低く鳴った。


 ピアノ科とヴァイオリン科の、最後の合奏授業だった。


 課題は、もう何度も合わせてきたものだった。指示も、確認も、少なくて済んだ。美夏(みなつ)は、その時間が早く過ぎていくように感じた。この時間は、もう来ない。


 授業が終わると、生徒たちは、少しずつ楽器を片づけていった。あちこちで、短い挨拶が交わされていた。またいつかね、と誰かが言った。ケースの留め具が鳴り、ドアが開いて、また閉まった。話し声が、廊下の先へ遠ざかっていった。


 気づくと、部屋には、ルーカスと美夏だけが残っていた。


 ルーカスは、ピアノの蓋を閉めるところだった。


「ルーカス」


 美夏が呼んだ。


「聴いてほしい曲があるの」


 ルーカスが顔を上げた。


 美夏は、ヴァイオリンをケースに戻した。


 ルーカスが、その手もとを見ていた。


 美夏は、ピアノのほうへ来た。手には、一枚の紙があった。


 ルーカスが、場所を空けて、蓋を開けた。


 美夏は、それをピアノの上に置いて、座った。


 美夏の指が、鍵盤の上でいちど止まった。


 それから、弾き始めた。


 右手が、旋律を置いた。ゆっくりだった。左手は、その下に低い音をいくつか添えるだけだった。必要な音だけを、置いていった。


 その旋律は、あの夜、理沙が弾いたものだった。美夏は、その隣で低い音を添えた。今は、その両方を美夏が奏でていた。


 旋律は、まっすぐだった。


 美夏は、最後まで、一人で弾いた。


 弾き終えると、最後の音が、開いた窓のほうへゆっくりと消えていった。


 ルーカスが、少し笑った。


「美夏、意外とうまいじゃん」


 美夏が、鍵盤から手を上げた。


「意外って、何?」


「今まで、弾かなかったよね」


「弾きたい曲が、なかったから」


 美夏は、少し笑った。ルーカスも笑った。


 それから、ルーカスは、譜面のほうを見た。


「なに、この曲」


 美夏は、鍵盤に目を落としたまま、答えた。


「『ゆりかごのうた』」


 いちど、言葉を置いた。


「日本の」


 美夏の指が、膝の上でいちど動いた。


「小さいころ、ママが……にぃにと私に、歌ってくれたの」


 それ以上は、言わなかった。


 美夏は、ピアノの上に置いていた紙を取った。


 手で書いた楽譜だった。自分が弾くために、書いたものだった。


「これ」


 ルーカスに、差し出した。


「日本に、持っていって」


 ルーカスが、それを受け取った。譜面に、目を落とした。


「向こうで、弾いて」


 美夏は、それだけ言った。


 ルーカスは、しばらく譜面を見ていた。


「……もらっていいの?」


「うん」


 ルーカスは、それを折らずに、自分の譜面のあいだに挟んだ。


「ありがとう」


 短い言葉だった。


 美夏は、頷いた。


 開いた窓の外で、中庭の木が、葉を揺らしていた。


-----


 その週の、別の日だった。


 楽団の練習場は、天井が高かった。午後のリハーサルが終わって、団員が一人、また一人と、譜面を片づけていた。譜面台を畳む音。ケースの留め具の音。低い話し声。それらが、少しずつ、少なくなっていった。


 ルイは、ヴィオラをケースに戻していた。


 エマが、譜面を抱えてそばを通りかかった。


「エマ」


 ルイが呼んだ。


 エマが、足を止めた。


「なに?」


 ルイは、ケースの蓋をゆっくり閉じた。


「次の公演を最後に、楽団を離れようと思ってる」


 エマは、すぐには何も言わなかった。譜面を、抱え直した。


「そう」


 それだけだった。驚いた声では、なかった。


「どこに行くの?」


 エマが聞いた。軽い声だった。


 ルイは、少し間を置いた。


「ロウアー・スローターに」


 練習場の高い窓から、初夏の午後の光が床の上に長く伸びていた。


「家は、まだ決まってない」


 エマは、譜面を抱えたままルイを見ていた。それから、少し笑った。


「ルイ、音楽院の頃」


 エマが言った。


「火曜の午前の授業が終わると、いつも急いで出ていったでしょう」


 ルイが、エマを見た。


「あのころ、あなたは、ロウアー・スローターに行ってた」


 いちど、言葉を置いた。


「今度は」


 エマは、ルイを見た。


「行くんじゃなくて、帰るのね」


 ルイは、すぐには答えなかった。


 行く、と思っていた。けれど、いつのまにか、あの村は、帰る場所になっていた。


「……うん」


 ルイは、低く言った。


「そうなのかもしれない」


 エマは、それ以上理由を聞かなかった。抱えていた譜面を、近くの椅子に置いた。


「あのとき、声をかけてよかった」


 軽い声だった。


「もう一度、一緒に弾けたでしょう」


 ルイが、少し笑った。


「エマのおかげだ」


「あなたの音だもの」


 いちど、言葉を置いた。


「しまっておくには、惜しかった」


 練習場には、もう、ほとんど人が残っていなかった。誰かのケースの留め具が、遠くで鳴った。


「一緒に弾けて、楽しかったわ」


 エマは、さらりとそう言った。


 ルイは、ヴィオラケースを持った。


「僕も」


 エマは、椅子から譜面を取り上げると、ドアのほうへ歩いていった。


 その背中は、いつもと変わらなかった。


-----


 卒業式の日は、よく晴れていた。


 式そのものは、長くなかった。名前が呼ばれ、証書が渡された。それが終わると、生徒たちは、家族とともに中庭へ出てきた。あちこちで写真が撮られ、別れの挨拶が交わされていた。


 ロウアー・スローターから、理沙と陽翔(はると)、夏生(なつき)も来ていた。


 ルーカスも、中庭にいた。日本へ発つ日は、もう決まっていた。


 理沙が、ルーカスに気づいて声をかけた。


「ルーカスくん、おめでとう」


 ルーカスが、頭を下げた。


「また来いよ」


 夏生が言った。陽翔がその肩を軽く叩いた。


 それから、ルーカスは、美夏のほうを見た。


「じゃあ」


 手を、差し出した。


 美夏は、その手を握った。


「うん。じゃあね」


 ルーカスは自分の家族のほうに戻っていった。


 人が、少しずつ中庭から動き始めた。


 夏生が、理沙と陽翔を連れて門のほうへ歩き出した。


「先に、店に行ってる」


 夏生が、美夏に言った。


 門の外に、ルイが立っていた。式が終わる頃を見計らって、迎えに来たのだった。


 夏生が、その前で足を止めた。


「みーちゃん、中にいる」


 理沙が、ルイを見た。


「みーちゃんと一緒に来てね」


「はい」


 それだけ言って、家族は、通りの先へ歩いていった。


 ルイは、門をくぐった。


 中庭では、美夏が一人で立っていた。ヴァイオリンケースを、肩にかけていた。


 ルイに気づいて、美夏が顔を上げた。


「みーちゃん」


 ルイが、近づいた。


「卒業、おめでとう」


 美夏が、少し笑った。


 ルイは、上着のポケットからスマホを取り出した。


「撮ろうか」


 美夏が、証書を持ち直した。初夏の光が、石畳にまっすぐ落ちていた。木の影が、その上で静かに揺れていた。


 ルイはシャッターを押した。


 美夏のそばへ来て、撮れた一枚を見せた。美夏が、それを覗き込んだ。


 ルイは、スマホをしまった。しばらく黙っていた。それから、口を開いた。


「みーちゃんは、これから、ロンドンに行く」


「うん」


「たくさんの音に、会うと思う」


 ルイは、少し間を置いた。


「僕の知らない音にも」


 美夏は、ルイを見た。


「僕が、その先を狭くしたくない」


 中庭の木が、風に鳴った。


「そのうえで」


 声が、低くなった。


「言っておきたいことがある」


 美夏は、待った。


「僕は、みーちゃんと」


 いちど、言葉が止まった。


「……結婚したいと思ってる」


 美夏が、息をのんだ。


「でも、今すぐ、決めなくていい」


 ルイの声は、急いでいなかった。


「ロンドンで、いろんな音を聴いて。いろんな人に会って」


 いちど、言葉を置いた。


「それでも、音楽院を卒業する頃に、みーちゃんの気持ちが変わっていなかったら」


 美夏を、見た。


「そのときは、結婚してほしい」


 美夏は、すぐには答えなかった。


「だけど」


 ルイが、低く言った。


「約束で縛りたいわけじゃない」


 いちど、言葉を切った。


「僕のほうが、待ちたいんだ」


 美夏は、ルイを見ていた。


 それから、いちど息を吸った。


「るいと」


 声は、静かで、まっすぐだった。


「私、気持ちは、変わらないと思う」


 ルイが、美夏を見た。


「ロンドンに行くのも、自分で決めたの」


 美夏は、続けた。


「広いところで、いろんな音を、聴きたい」


 いちど、言葉を置いた。


「それと、るいとと生きることは」


 ルイを、見た。


「一緒にできると思う」


 ルイは、何も言わなかった。


 美夏は、少し間を置いた。


「でも」


 声が、低くなった。


「今、ここで、全部決めるんじゃなくて」


 ルイを、見た。


「るいとの、その約束を、持っていくね」


 初夏の光が、二人の足元に落ちていた。


 ルイは、しばらく美夏を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。


 美夏が、一歩、近づいた。


 ルイの手が、美夏の髪に、そっと触れた。


 中庭に、風が通った。どこかの窓が開いていて、練習室のピアノの音が、切れぎれに流れてきた。


 二人は、しばらく、そこに立っていた。


 美夏のヴァイオリンケースのファスナーで、薄藤色の房が、風に揺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。