第41章 渡っていく音
初夏のウィーンは、朝から光が高かった。
合奏室の窓は、開けてあった。中庭の木が緑を濃くして、風が入るたびに、葉の音が低く鳴った。
ピアノ科とヴァイオリン科の、最後の合奏授業だった。
課題は、もう何度も合わせてきたものだった。指示も、確認も、少なくて済んだ。美夏は、その時間が早く過ぎていくように感じた。この時間は、もう来ない。
授業が終わると、生徒たちは、少しずつ楽器を片づけていった。あちこちで、短い挨拶が交わされていた。またいつかね、と誰かが言った。ケースの留め具が鳴り、ドアが開いて、また閉まった。話し声が、廊下の先へ遠ざかっていった。
気づくと、部屋には、ルーカスと美夏だけが残っていた。
ルーカスは、ピアノの蓋を閉めるところだった。
「ルーカス」
美夏が呼んだ。
「聴いてほしい曲があるの」
ルーカスが顔を上げた。
美夏は、ヴァイオリンをケースに戻した。
ルーカスが、その手もとを見ていた。
美夏は、ピアノのほうへ来た。手には、一枚の紙があった。
ルーカスが、場所を空けて、蓋を開けた。
美夏は、それをピアノの上に置いて、座った。
美夏の指が、鍵盤の上でいちど止まった。
それから、弾き始めた。
右手が、旋律を置いた。ゆっくりだった。左手は、その下に低い音をいくつか添えるだけだった。必要な音だけを、置いていった。
その旋律は、あの夜、理沙が弾いたものだった。美夏は、その隣で低い音を添えた。今は、その両方を美夏が奏でていた。
旋律は、まっすぐだった。
美夏は、最後まで、一人で弾いた。
弾き終えると、最後の音が、開いた窓のほうへゆっくりと消えていった。
ルーカスが、少し笑った。
「美夏、意外とうまいじゃん」
美夏が、鍵盤から手を上げた。
「意外って、何?」
「今まで、弾かなかったよね」
「弾きたい曲が、なかったから」
美夏は、少し笑った。ルーカスも笑った。
それから、ルーカスは、譜面のほうを見た。
「なに、この曲」
美夏は、鍵盤に目を落としたまま、答えた。
「『ゆりかごのうた』」
いちど、言葉を置いた。
「日本の」
美夏の指が、膝の上でいちど動いた。
「小さいころ、ママが……にぃにと私に、歌ってくれたの」
それ以上は、言わなかった。
美夏は、ピアノの上に置いていた紙を取った。
手で書いた楽譜だった。自分が弾くために、書いたものだった。
「これ」
ルーカスに、差し出した。
「日本に、持っていって」
ルーカスが、それを受け取った。譜面に、目を落とした。
「向こうで、弾いて」
美夏は、それだけ言った。
ルーカスは、しばらく譜面を見ていた。
「……もらっていいの?」
「うん」
ルーカスは、それを折らずに、自分の譜面のあいだに挟んだ。
「ありがとう」
短い言葉だった。
美夏は、頷いた。
開いた窓の外で、中庭の木が、葉を揺らしていた。
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その週の、別の日だった。
楽団の練習場は、天井が高かった。午後のリハーサルが終わって、団員が一人、また一人と、譜面を片づけていた。譜面台を畳む音。ケースの留め具の音。低い話し声。それらが、少しずつ、少なくなっていった。
ルイは、ヴィオラをケースに戻していた。
エマが、譜面を抱えてそばを通りかかった。
「エマ」
ルイが呼んだ。
エマが、足を止めた。
「なに?」
ルイは、ケースの蓋をゆっくり閉じた。
「次の公演を最後に、楽団を離れようと思ってる」
エマは、すぐには何も言わなかった。譜面を、抱え直した。
「そう」
それだけだった。驚いた声では、なかった。
「どこに行くの?」
エマが聞いた。軽い声だった。
ルイは、少し間を置いた。
「ロウアー・スローターに」
練習場の高い窓から、初夏の午後の光が床の上に長く伸びていた。
「家は、まだ決まってない」
エマは、譜面を抱えたままルイを見ていた。それから、少し笑った。
「ルイ、音楽院の頃」
エマが言った。
「火曜の午前の授業が終わると、いつも急いで出ていったでしょう」
ルイが、エマを見た。
「あのころ、あなたは、ロウアー・スローターに行ってた」
いちど、言葉を置いた。
「今度は」
エマは、ルイを見た。
「行くんじゃなくて、帰るのね」
ルイは、すぐには答えなかった。
行く、と思っていた。けれど、いつのまにか、あの村は、帰る場所になっていた。
「……うん」
ルイは、低く言った。
「そうなのかもしれない」
エマは、それ以上理由を聞かなかった。抱えていた譜面を、近くの椅子に置いた。
「あのとき、声をかけてよかった」
軽い声だった。
「もう一度、一緒に弾けたでしょう」
ルイが、少し笑った。
「エマのおかげだ」
「あなたの音だもの」
いちど、言葉を置いた。
「しまっておくには、惜しかった」
練習場には、もう、ほとんど人が残っていなかった。誰かのケースの留め具が、遠くで鳴った。
「一緒に弾けて、楽しかったわ」
エマは、さらりとそう言った。
ルイは、ヴィオラケースを持った。
「僕も」
エマは、椅子から譜面を取り上げると、ドアのほうへ歩いていった。
その背中は、いつもと変わらなかった。
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卒業式の日は、よく晴れていた。
式そのものは、長くなかった。名前が呼ばれ、証書が渡された。それが終わると、生徒たちは、家族とともに中庭へ出てきた。あちこちで写真が撮られ、別れの挨拶が交わされていた。
ロウアー・スローターから、理沙と陽翔、夏生も来ていた。
ルーカスも、中庭にいた。日本へ発つ日は、もう決まっていた。
理沙が、ルーカスに気づいて声をかけた。
「ルーカスくん、おめでとう」
ルーカスが、頭を下げた。
「また来いよ」
夏生が言った。陽翔がその肩を軽く叩いた。
それから、ルーカスは、美夏のほうを見た。
「じゃあ」
手を、差し出した。
美夏は、その手を握った。
「うん。じゃあね」
ルーカスは自分の家族のほうに戻っていった。
人が、少しずつ中庭から動き始めた。
夏生が、理沙と陽翔を連れて門のほうへ歩き出した。
「先に、店に行ってる」
夏生が、美夏に言った。
門の外に、ルイが立っていた。式が終わる頃を見計らって、迎えに来たのだった。
夏生が、その前で足を止めた。
「みーちゃん、中にいる」
理沙が、ルイを見た。
「みーちゃんと一緒に来てね」
「はい」
それだけ言って、家族は、通りの先へ歩いていった。
ルイは、門をくぐった。
中庭では、美夏が一人で立っていた。ヴァイオリンケースを、肩にかけていた。
ルイに気づいて、美夏が顔を上げた。
「みーちゃん」
ルイが、近づいた。
「卒業、おめでとう」
美夏が、少し笑った。
ルイは、上着のポケットからスマホを取り出した。
「撮ろうか」
美夏が、証書を持ち直した。初夏の光が、石畳にまっすぐ落ちていた。木の影が、その上で静かに揺れていた。
ルイはシャッターを押した。
美夏のそばへ来て、撮れた一枚を見せた。美夏が、それを覗き込んだ。
ルイは、スマホをしまった。しばらく黙っていた。それから、口を開いた。
「みーちゃんは、これから、ロンドンに行く」
「うん」
「たくさんの音に、会うと思う」
ルイは、少し間を置いた。
「僕の知らない音にも」
美夏は、ルイを見た。
「僕が、その先を狭くしたくない」
中庭の木が、風に鳴った。
「そのうえで」
声が、低くなった。
「言っておきたいことがある」
美夏は、待った。
「僕は、みーちゃんと」
いちど、言葉が止まった。
「……結婚したいと思ってる」
美夏が、息をのんだ。
「でも、今すぐ、決めなくていい」
ルイの声は、急いでいなかった。
「ロンドンで、いろんな音を聴いて。いろんな人に会って」
いちど、言葉を置いた。
「それでも、音楽院を卒業する頃に、みーちゃんの気持ちが変わっていなかったら」
美夏を、見た。
「そのときは、結婚してほしい」
美夏は、すぐには答えなかった。
「だけど」
ルイが、低く言った。
「約束で縛りたいわけじゃない」
いちど、言葉を切った。
「僕のほうが、待ちたいんだ」
美夏は、ルイを見ていた。
それから、いちど息を吸った。
「るいと」
声は、静かで、まっすぐだった。
「私、気持ちは、変わらないと思う」
ルイが、美夏を見た。
「ロンドンに行くのも、自分で決めたの」
美夏は、続けた。
「広いところで、いろんな音を、聴きたい」
いちど、言葉を置いた。
「それと、るいとと生きることは」
ルイを、見た。
「一緒にできると思う」
ルイは、何も言わなかった。
美夏は、少し間を置いた。
「でも」
声が、低くなった。
「今、ここで、全部決めるんじゃなくて」
ルイを、見た。
「るいとの、その約束を、持っていくね」
初夏の光が、二人の足元に落ちていた。
ルイは、しばらく美夏を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
美夏が、一歩、近づいた。
ルイの手が、美夏の髪に、そっと触れた。
中庭に、風が通った。どこかの窓が開いていて、練習室のピアノの音が、切れぎれに流れてきた。
二人は、しばらく、そこに立っていた。
美夏のヴァイオリンケースのファスナーで、薄藤色の房が、風に揺れた。




