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第40章 帰る場所から

家のなかは冷えていた。


 陽翔(はると)が暖炉の前に屈んだ。スクリーンを外して、灰の奥に寄せた火を手前へ戻す。細い薪を一本置くと、火は灰の下からゆっくり明るくなっていった。


 理沙がコートを脱いだ。


「まず、何か食べましょう」


 誰も反対しなかった。


 ルイはヴィオラケースを提げたまま、リビングの入口で足を止めていた。


 部屋の奥に、ピアノがあった。


 夏生(なつき)がそれを見た。


「そこに置けば」


 ルイはすぐには動かなかった。


 それから部屋に入って、ピアノのそばにケースを置いた。


-----


 テーブルの上に、朝のパンがまだ載っていた。


 誰も手をつけないまま、冷めていた。


 理沙はそれを取って、オーブンに入れた。


 スープを温め直して、陽翔がハムとチーズを出した。


 美夏(みなつ)も立とうとした。


「あなたも座っていなさい」


 美夏は座った。


 五つの皿が並んだ。


 理沙がルイに聞いた。


「最後に食べたの、いつ?」


 ルイは少し考えた。


「……昨日の夜です」


「そう」


 理沙はそれ以上聞かなかった。


 ルイの皿にスープを注いだ。


 注ぐ量が、少し多かった。


-----


 食器の音だけが続いた。


 暖炉で薪が崩れる音がした。


 美夏はスープをひとくち飲んだ。あたたかさが、胸の奥までゆっくり降りていった。ゆうべから、ほとんど何も食べていなかった。身体のほうが先にそれを覚えていた。


 パンは、あたたまっていた。


 美夏とルイは離れて座っていた。


 ルイが水差しのほうへ手を伸ばした。


 届く前に、美夏がそれを取って渡した。


 目は合わせなかった。


「ありがとう」


 ルイが小さく言った。


 夏生はそれを見た。


 スープの皿に目を戻した。


 パンをひとつ取った。


-----


 食事が終わった。


 理沙が皿を下げた。


 夏生は空になったカップを両手で持っていた。


 しばらくそのままだった。


「みーちゃん」


「うん」


 夏生はカップを置いた。


「これから、どうしたい」


 美夏はすぐには答えなかった。


 ウィーンを出た夜は、選ぶ間がなかった。


 いま、それが返されようとしていた。


 美夏は夏生を見た。


「ウィーンに、戻りたい」


 夏生は黙って聞いていた。


「卒業まで、ちゃんといたい」


 いちど言葉を置いた。


「ロンドンも、行く」


 声は低かった。


 夏生はしばらく美夏を見ていた。


「そっか」


 それだけ言った。


「いつ戻る」


「明日」


 美夏は答えた。


「授業もあるし。置いてきたままに、したくないから」


 夏生は止めなかった。


「わかった」


-----


 ルイはまだ黙っていた。


 膝の上の手を、いちど組み直した。


「僕も、話しておきたいことがあります」


 夏生がルイを見た。


 ルイは美夏のほうを見なかった。理沙と、陽翔と、夏生のほうを見ていた。


「今のシーズンが終わったら、楽団を離れようと思っています」


 美夏が顔を上げた。


「るいと?」


 初めて聞く話だった。


 ルイは続けた。


「ウィーンを拠点にするのも、やめます」


 誰もすぐには何も言わなかった。


 陽翔が口を開いた。


「演奏は」


「続けます」


 ルイはいちど息を吸った。


「やめるんじゃなくて」


 言葉を探した。


「……弾く場所を、変えたいんだと思います」


 暖炉の火が小さく音を立てた。


「拠点は、どこにするんだ」


 陽翔が聞いた。


 ルイは窓のほうを見た。


 川は家のなかからは見えない。


 音だけがしていた。


「ここに」


 声が低かった。


「ロウアー・スローターに、住みたいと思っています」


 誰も答えなかった。


 夏生が低く言った。


「ロンドンまで、一時間半だな」


 ルイが夏生を見た。


 夏生はルイを見ていなかった。


 ルイは少し黙った。


「……うん」


-----


 美夏の手が、膝の上で止まっていた。


 顔を上げた。


「るいと」


 声が少し掠れた。


「私のために、やめないで」


 ルイが美夏を見た。


 すぐには答えなかった。


「……みーちゃんのためじゃない、とは」


 言葉が止まった。


「言えない」


 美夏の目が揺れた。


「でも、みーちゃんのためだけでも、ない」


 ルイはそこで、言葉を探した。


「この村で、僕の音が生まれた」


 いちど言葉を切った。


「それと、みーちゃんを」


 また、止まった。


「……分けられない」


 暖炉の火が低く揺れた。


 ルイは夏生のほうを見た。


「でも」


 声は静かだった。


「決めたのは、僕だ」


 それから、美夏を見た。


「みーちゃんが戻りたいと思ったとき、帰れる場所のひとつには、なれたらと思ってる」


 美夏はそれ以上聞かなかった。


 夏生は美夏を見た。


 美夏はルイを見ていた。


 膝の上の手は、もう握られていなかった。


-----


 理沙が静かに聞いた。


「それは、あなたが決めたことなのね」


「はい」


「そう」


 理沙が見ていたのは、夏生だった。


 陽翔が口を開いた。


「楽団には」


「まだ話していません」


「家は」


「まだ、何も」


 陽翔は少し考えた。


「石の家は、見た目で決めるな」


 火のほうを見たまま言った。


「湿気と、暖房。あとは床だ」


 いちど言葉を置いた。


「夏に見ると、どれもよく見える。冬のうちだ」


 理沙が少し笑った。


「はるくん」


「なんだ」


「この家を買うときは、そんなこと言わなかったのに」


 陽翔は少し黙った。


「あのときは、急いでたんだ」


 理沙はそれ以上言わなかった。


 陽翔も、それきり黙っていた。


 それから、また口を開いた。


「決めるのはルイだよ」


 薪を一本足した。


「見るだけなら、早いほうがいい」


-----


 午後の光が、窓の下のほうへ移っていた。


 美夏は理沙と二階へ上がった。ウィーンへ戻る荷物を確かめるためだった。


 陽翔は仕事の連絡で席を外した。


 リビングに、夏生とルイが残った。


 ルイはピアノのそばに立っていた。


 夏生は窓の外を見ていた。


 川の音がしていた。


「まだ、全部わかったわけじゃない」


「うん」


「すぐに前みたいにできるとも、思ってない」


 ルイは待っていた。


 夏生は窓の外を見たままだった。


「壊れると思ったから、言わなかったって」


「うん」


 夏生の声が低くなった。


「壊れるかどうかは、俺が決める」


 ルイはすぐには答えなかった。


 暖炉の火が小さく音を立てた。


「……わかった」


 それだけだった。


 夏生はまだ窓の外を見ていた。


「みーちゃんは、ロンドンに行く」


「うん」


「狭くするなよ」


 ルイが夏生を見た。


「しない」


 声は静かだった。


「僕は、僕の場所で弾く」


 夏生はしばらく黙っていた。


 それから、ヴィオラケースのほうへ目を動かした。


「家、見に行くとき」


 いちど言葉を置いた。


「呼べよ」


 ルイが顔を上げた。


 夏生は窓の外を見ていた。


「響きも見ないと、駄目だろ」


 ルイは小さく言った。


「……うん」


 川の音が続いていた。


-----


 夕食のあと、理沙が皿を下げた。


 リビングには、五人が残っていた。


 暖炉の火が低く燃えていた。


 誰も、多くは話さなかった。


 明日の朝のことは、もう決まっていた。


 理沙が台所から出てきた。


 手に、古い楽譜を持っていた。


 そのまま、ピアノのほうへ歩いた。


 美夏が顔を上げた。


 理沙は蓋を開けた。


 閉じていた譜面台を起こして、楽譜を立てた。


 椅子は、二つ並んでいた。


 理沙は右に腰を下ろして、しばらく譜面を見ていた。


 それから、鍵盤に指を置いた。


 音が出た。


 ゆっくりだった。


 一音ずつ、確かめるように置いていった。


 旋律だった。


 ゆっくりと、細く歌うような旋律だった。


 美夏が、動かなくなった。


 夏生も、火のほうを見るのをやめた。


 「ゆりかごのうた」だった。


 夏生は、理沙が幼い美夏に、眠るまでこの曲を歌っていたのを思い出した。


 あなたにも歌ってたのよ、と理沙は微笑んでそう言っていた。


 陽翔が、暖炉のそばから言った。


「秋に、鍋をひとつ駄目にした」


 美夏が、陽翔のほうを見た。


「え?」


「弾いてて、忘れたんだ」


 理沙は、弾きながら答えた。


「……その話はいいでしょう」


 手は止まらなかった。


 旋律は、途中で少しつまずいた。


 理沙は、そこを、もう一度弾き直した。


 美夏が、立ち上がった。


 もうひとつの椅子に、腰を下ろした。


 理沙の左側だった。


 美夏は、譜面をひとめ見た。


 それから、鍵盤の低いところへ指を置いた。


 初めて見る楽譜だった。けれど、旋律は知っていた。理沙の音を聞きながら、下に置く音を、ひとつずつ探した。


 旋律を消さないように、低く、静かに。


 理沙の手は、止まらなかった。


 二つの音が、重なった。


 美夏の音が下に入ると、旋律は、少しだけ深いところで鳴った。


 美夏は、理沙の速さに合わせた。急かさず、理沙の一音を待って、下を置いた。


 途中で、理沙が美夏のほうを見た。


 美夏も、理沙を見た。


 二人とも、少し笑った。


 そのまま、また弾いた。


 夏生は、二人を見ていた。


 夏生も、美夏も、この歌を、理沙の声で聞いていた。


 ルイは、少し離れたところから、二人の背中を見ていた。


 陽翔も、暖炉のそばで、見ていた。


 曲は、長くなかった。


 最後の音が、消えた。


 美夏は、鍵盤から手を離さなかった。


 理沙も、離さなかった。


 しばらく、そのままだった。


 理沙が、静かに言った。


「はるくん」


「ん」


「……椅子、二つでよかったわ」


 陽翔は、暖炉のほうを見た。


「そうか」


 それだけだった。


 美夏が、理沙のほうを見た。


 理沙は、鍵盤を見ていた。


 美夏も、鍵盤に目を戻した。


 二人とも、まだ、手を離さなかった。


-----


 翌朝も、石畳に霜が白く張っていた。


 空は低い灰色だった。


 玄関の前に、家族が出ていた。


 道の先に、車が来ることになっていた。


 美夏はヴァイオリンケースを肩にかけていた。ポケットのファスナーのところで、薄藤色の房が揺れた。


 ルイは少し離れて待っていた。


 理沙が美夏に紙の包みを持たせた。


「向こうで、食べなさい」


「うん。ありがとう、ママ」


 陽翔が、美夏の肩に一度だけ手を置いた。


 それだけだった。


 夏生が美夏の前に立った。


「行ってらっしゃい、みーちゃん」


 美夏は息を吸った。


「行ってきます」


 声が少し揺れた。


 美夏が歩き出した。


 ルイがそのそばに並んだ。


 夏生は家のほうへ戻りかけた。


 それから足を止めた。


「ルイも」


 ルイが振り返った。


 夏生はルイを見た。


「行ってらっしゃい」


 ルイはすぐには動かなかった。


 それから、ひとつ深く頷いた。


 二人が歩いていった。


-----


 夏生は最後までは見送らなかった。


 先に家のなかへ入った。


 扉に手をかけた。


 川の音が続いていた。


 そのなかを、二つの足音が同じほうへ遠ざかっていった。


 夏生は、その音が川の音に紛れるまで、扉を閉めなかった。

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