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第39章 音の生まれた場所

 誰もすぐには動けなかった。


 暖炉の火が、小さく音を立てた。


 その音だけが、部屋の中で動いていた。


 最初に動いたのは、陽翔(はると)だった。


 暖炉の前に屈んで薪を崩した。赤く残った火を灰の奥へ寄せる。スクリーンを立てて、陽翔は腰を上げた。


 それから、スマートフォンを取り出した。


「教会、開けてもらえるか聞いてみる」


 誰にともなく低く言った。


 夏生(なつき)は、何も言わなかった。


 陽翔は廊下へ出て、短い電話をかけた。詳しい事情は言わなかった。


「少しだけ、音を出したいんです」


 それだけが聞こえた。


 電話はすぐに終わった。


 リビングに戻って、陽翔は静かに言った。


「開けてもらえる」


 理沙が美夏(みなつ)のほうを見た。


「みーちゃん、コートを着なさい」


 その一言で、美夏はようやく息を吸った。


-----


 美夏は二階へ上がった。


 机の横にヴァイオリンケースが置いてあった。昨夜、ウィーンからそのまま持って帰ってきたものだった。


 コートを着て、ケースを肩にかけた。


 階段を降りた。


 ケースのポケットのファスナーのところで、薄藤色の房が揺れた。


 階段の下に夏生がいた。


 夏生の目が、その房で止まった。


 房は、ただ小さく揺れていた。


 美夏も、夏生も、何も言わなかった。


 ルイは、玄関の壁際に置いてあるヴィオラケースを取った。


 急いで来たはずだった。それでも、楽器だけは持ってきていた。


 陽翔は、玄関の鍵を手に取った。


 理沙は、コートを二つ、腕にかけて持ってきた。ひとつを陽翔に渡し、ひとつを自分で羽織った。


 扉が開いた。


 冬の昼の光が、石畳の上に薄く広がっていた。


-----


 教会までは歩いた。


 川沿いの道に人影はなかった。石垣の上に霜の名残が白く残っていた。日の当たるところだけ、石の色が少し戻っていた。


 夏生は少し前を歩いた。


 そのうしろに、理沙と陽翔。


 美夏とルイは、いちばん後ろを並んで歩いた。ルイが、美夏の歩幅にそっと合わせていた。


 夏生は振り返らなかった。


 けれど、後ろの足音は聞こえていた。


 美夏の言葉も聞いた。陽翔の言葉も、ルイの言葉も。


 全部、聞いた。


 それでも、まだ、どこにも置けなかった。


 アイ川の音が、石垣の向こうで低く続いていた。


 村はずれに教会が見えてきた。


-----


 教会の前に、管理人の老人が先に来てくれていた。


「急に、すみません」


 陽翔が言った。


「いえ。どうぞ、ごゆっくり」


 老人は鍵を開けると、使い終えたらいつもの場所へ、と言い添えた。


 それだけの短いやりとりだった。老人は、戻っていった。


 陽翔が、扉を押した。


 冬の冷たい空気が、中から流れてきた。


 石の床。高い窓。薄い光。


 外から、川の音が細く届いていた。


 夏生は中に入って、足を止めた。


 壁際に、覚えのある場所があった。


 あの冬の日、この壁に寄って、二人の音を録った。


 その音を、夏生は名前を伏せて、世に出した。心が固くなった人のところへ、そっと届くように。


 あの音には、そういう力があった。それを、夏生は誰よりも知っていた。


 その音を、今日は、自分が聞く。


 美夏とルイが楽器を出した。


 調弦の音が、石の天井に薄く上がった。


 美夏の音は、少し硬かった。


 ルイは、それを急かさなかった。ただ、隣で弓を整えていた。


 夏生は、壁際に立って、二人を見ていた。


 それから、そっと目を伏せた。


 理沙と陽翔が、前の列の椅子に並んで腰を下ろした。


 夏生は座らなかった。


-----


 ルイのヴィオラが、先に鳴った。


 低い音が、床の石を伝って、夏生の足の裏に届いた。


 美夏は、すぐには弾かなかった。


 半拍の、間があった。


 それから、ヴィオラの隣に、ヴァイオリンが入った。


 細いけれど、まっすぐな音だった。


 ヴィオラは、その音を覆わなかった。ただ、隣に低く残った。


 「海と光」だった。


 夏生は最初、耳を塞ぎたかった。


 聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。


 けれど、音は入ってきた。


 石の壁に当たって、余韻になって戻ってくる。この教会で生まれた曲だった。


 音の奥に、時間があった。


 幼い美夏が、この教会で音を覚えていった時間。


 ルイがいなくなったあとも、美夏の中に残っていた音。


 美夏がウィーンへ発ったあとも、ルイの中で消えなかった音。


 夏生は、その全部を見ていたわけではなかった。


 けれど、いまは聞こえていた。


 見ていなかった時間が、その音の奥にあった。


 夏生は、それを聞いた。


 痛みは消えなかった。


 怒りも、まだ、どこかにあった。


 それでも。


 美夏が、自分の音で立っていた。


 その隣に、ルイの音が低く鳴り続けていた。


-----


 最後の音が、石の床の上に薄く残った。


 ゆっくりと消えた。


 残ったのは、川の音だった。


 誰もすぐには動かなかった。


 高い窓から、冬の光がまっすぐに降りていた。


 美夏がヴァイオリンを下ろした。


 ルイも弓を下ろした。


 二人は、同じ沈黙の中に立っていた。


 夏生は、まだ壁際にいた。


 この音は、いま、ここで生まれたものではなかった。


 「海と光」は、終わっていなかった。


 聞こえない場所で、ずっと続いていた。


-----


 夏生は長く黙っていた。


 それから、口を開いた。


「……わかったとは、言えない」


 声は低かった。


 美夏は何も言わなかった。


 ルイも動かなかった。


「でも」


 夏生は間を置いた。


 窓の外で、川の音がしていた。


「間違いだとも、言えない」


 美夏の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。


 ルイが静かに言った。


「……聞いてくれて、ありがとう」


 それ以上は言わなかった。


 夏生は答えなかった。


 それから、美夏を見た。


 美夏は夏生を見つめ返した。


 もう自分の言葉は渡していた。


 夏生が呼んだ。


「みーちゃん」


 美夏の目元が揺れた。


 息が少し震えた。


「寒い。帰るぞ」


 夏生はそれだけ言った。


 それから少し遅れて、ルイを見た。


「ルイも」


 短い言葉だった。


 ルイは、ひとつ頷いた。


-----


 教会を出ると、冬の光が来たときより少しやわらいでいた。


 石畳の霜は、日の当たるところから溶け始めていた。


 夏生が先に歩き出した。


 理沙が小さく言った。


「行きましょう」


 美夏とルイは、いちばん後ろを歩いた。


 来たときより、少しだけ、歩みがゆっくりだった。


 夏生は振り返らなかった。


 ただ、後ろの足音が離れないように、ほんの少しだけ歩く速さを落とした。


 川の音はいつものようにずっと続いていた。

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