第38章 名前と、音と、想いと
暖炉の火は、もう小さくなっていた。
美夏は、リビングの真ん中に立っていた。
夏生は、ソファに座って火を見ていた。
窓の外で、川の音がしていた。
美夏は、息をひとつ吸った。
「にぃに」
夏生は、すぐには顔を上げなかった。
火の影が、石の壁を低く移っていった。
美夏は、逃げずに立っていた。
「にぃにの場所を、るいとに置き換えたわけじゃないの」
夏生の肩が、わずかに動いた。
けれど、火を見たままだった。
「私の名前を」
声が少し震えた。
「この世に生み出してくれたのは、にぃにでしょ」
夏生が、はじめて顔を上げた。
火の明かりが、その目元に低くかかっていた。
「美しい夏って」
美夏は、続けた。
「私、その名前がずっと好きだった」
いちど、言葉を置いた。
「ウィーンにいても。舞台の上でも」
手を、いちど握った。
「美夏って呼ばれるたびに。にぃにが、私をこの世界に置いてくれたみたいに、思ってた」
夏生は、何も言わなかった。
ただ、その目が美夏を見ていた。
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「でも」
美夏は、少し間を置いた。
「私の、最初の音を」
声を、低く置いた。
「見つけてくれたのは、るいとなの」
暖炉の火が、小さく音を立てた。
「まだ、何もわからなかったころ」
美夏は、ひとつずつ置いていった。
「ヴァイオリンを、持たせてくれて」
息を吸った。
「音が出たことを、一緒に喜んでくれたのが、るいとだった」
夏生の喉が、わずかに動いた。
「どっちが、大事とかじゃないの」
美夏の声が、少しだけ揺れた。
「どっちかを、選ぶ話でもない」
火の影が、石の壁の上で低く揺れた。
「どっちも、私のなかにある」
いちど、言葉を切った。
「でも」
「同じじゃないの」
美夏は、夏生を見た。
「にぃには、私のにぃに」
声が低くなった。
「ずっと、そう。これからも、そう」
「でも、るいとは」
息をひとつ吸った。
「もう、それだけじゃないの」
夏生は、火を見たまま動かなかった。
長く黙っていた。
それから、低い声がした。
「……それと、これとは違うだろ」
美夏を、否定する声ではなかった。
ただ、まだどこにも置けないものを、抱えた声だった。
美夏は、それ以上言わなかった。
うつむきはしなかった。
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しばらく、誰も口を開かなかった。
暖炉の火だけが、低く燃えていた。
その沈黙のなかで、陽翔が静かに口を開いた。
「なあ、夏生」
低い声だった。
夏生が、陽翔のほうを見た。
「俺と、理沙が結婚する前」
陽翔は、急がずに言った。
「理沙は、ずいぶん迷ってた」
夏生の眉が、わずかに動いた。
「歳の差のことも、あった」
火の明かりが、陽翔の横顔に低くかかっていた。
「お前のことも、あった」
いちど、言葉を置いた。
「俺が、理沙より十二も下で。お前と俺は血のつながりがなくて」
暖炉の火が、小さく揺れた。
「家族になるなんて、本当に言っていいのかって」
夏生は、何も言わなかった。
「その背中を、押したのは」
陽翔は、夏生を見た。
「お前だったんだよ」
夏生の目が、わずかに見開かれた。
「覚えてないか」
陽翔は、少し間を置いた。
「お前、言ったんだ」
火を見たまま続けた。
「歳の差とか、血のつながりとか、そんなことは関係ないって」
声が低く続いた。
「はるくんは、はるくん以外の何者でもないよって」
夏生は、火を見た。
「母さんにとっても、俺にとってもって」
暖炉の火が、低く音を立てた。
夏生は、答えなかった。
けれど、その横顔が少しだけ崩れた。
陽翔は、急がなかった。
「なあ、夏生」
穏やかな声だった。
「俺たちは、いつだってでこぼこで」
いちど、言葉を置いた。
「でも、そのまま受け止めて家族になっていった」
陽翔は、夏生を見た。
「それを、いちばんわかってたのは」
声が低くなった。
「お前だったんだ」
夏生は、何も言えなかった。
自分がかつて誰かに渡した言葉が、いま自分のほうへ戻ってきていた。
逃げ場がなかった。
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夏生は、長く黙っていた。
美夏も、それ以上ルイのことを話そうとはしなかった。
暖炉の火が、また少し小さくなった。
理沙が、静かに口を開いた。
「もう、今日は寝ましょう」
穏やかな声だった。
「このまま、話しても」
いちど、言葉を置いた。
「きっと、誰もちゃんと聞けないわ」
夏生は、答えなかった。
理沙は、美夏のほうを見た。
「夏生も、みーちゃんも。少しでも横になりなさい」
それから、陽翔のほうを見た。
「はるくんも、もう休んで」
美夏は、まだ何か言いたそうにした。
けれど、理沙の視線がそれを静かに止めた。
美夏は、口をつぐんだ。
夏生が、ソファから立ち上がった。
ただ、何も言わずにリビングを出ていった。
裏口の扉が閉まる音が、しんとした家のなかに低く響いた。
暖炉の火が、また小さくなった。
窓の外で、川の音が続いていた。
誰も、よく眠れない夜だった。
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朝が来た。
ロウアー・スローターの冬の朝は、なかなか明けなかった。窓の外は、まだ薄い灰色だった。霜が、石畳に白く張っていた。
家のなかは、静かだった。
理沙は、いつものように台所に立っていた。朝食の支度はできていた。けれど、誰がそれを食べたのか、食べなかったのか、よくわからなかった。パンが、皿の上で手をつけられないまま、冷めていった。
陽翔は、ダイニングの椅子で何か書類のようなものを開いていた。けれど、ページはなかなかめくられなかった。
美夏は、窓のそばに立っていた。
何度も、外を見た。
川沿いの道。低い石の橋。霜の張った石垣。
夏生は、リビングにいた。一度外に出て戻ってきたらしく、上着が、椅子の背にかかっていた。
十時半を過ぎたころ、美夏のスマホが短く震えた。
ルイからだった。
「ヒースローを出た。もうすぐ着く」
美夏は、その文字をしばらく見ていた。
それから、低い声で言った。
「るいと、もうすぐ着くって」
誰も、すぐには答えなかった。
家の空気が、少しだけ張りつめた。
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車が、家の前の道で止まったのは、十一時半を過ぎたころだった。
理沙と陽翔が、玄関へ向かった。
扉を開けると、ルイが立っていた。
眠っていないのが、ひと目でわかった。顔色がひどく悪かった。
けれど、取り乱してはいなかった。
ルイは、理沙と陽翔に頭を下げた。
「突然、すみません」
声が、低く掠れていた。
理沙は、責めなかった。
「寒かったでしょう」
それだけ言って、ルイをなかへ入れた。
ルイの視線が、美夏を探すように少し動いた。
けれど、すぐにそれを抑えた。
ルイは、リビングのほうを見た。
夏生が、ソファのそばに立っていた。
「夏生と」
ルイは、低く言った。
「話を、させてください」
その言葉に、美夏が一歩前に出そうになった。
「るいと、私も——」
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「みーちゃん」
理沙が、静かに呼んだ。
美夏の足が止まった。
美夏は、理沙を見た。
「でも」
「あなたが、守ろうとしたら」
理沙は、美夏を見た。
「夏生は、ルイくんの言葉を聞けなくなる」
美夏の唇が、わずかに動いた。
けれど、言葉は出なかった。
「今、夏生が聞かなきゃいけないのは」
理沙は、静かに言った。
「ルイくん自身の言葉よ」
美夏は、理沙のそばまで下がって、立った。
ただ、そこにいることを選んだ。
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夏生は、ソファのそばに立ったまま、ルイを見た。
声は、低く短かった。
「……来たのか」
「うん」
「よく、来られたな」
「そう言われても、仕方ないと思ってる」
夏生の目が、少し細くなった。
暖炉の火が、低く揺れた。
夏生は、しばらくルイを見ていた。
「いつからだ」
ルイは、少し黙った。
「……わからない」
夏生の声が低くなった。
「わからないで、済むと思ってるのか」
「そうじゃない」
ルイは、夏生をまっすぐ見た。
「わからないんじゃ、なくて」
いちど、言葉を切った。
「わからないことに、してた」
夏生は、何も言わなかった。
「みーちゃんのことを、大切に思ってるのは」
ルイは、ひとつずつ置いた。
「ずっと、前からだった」
声が低く続いた。
「でも、それは夏生の妹だからだと思ってた」
窓の外で、川の音がしていた。
「僕が、最初にヴァイオリンを持たせた子だからだと思ってた」
ルイは、いちど息を吸った。
「師匠として。家族に近い人間として。夏生の友人として」
声が少し掠れた。
「そういう言葉で、ずっと置いていた」
暖炉の火が、低く揺れた。
「でも、どこかで変わっていた」
ルイは、夏生を見た。
「僕が、認めるより先に」
いちど、言葉を置いた。
「音のほうが、知ってた」
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「ふざけるなよ」
夏生の声は、大きくはなかった。
低く、固い声だった。
「お前が、認めてなかったからって」
声が掠れた。
「なかったことに、なるのか」
「ならない」
ルイは、目を逸らさなかった。
「夏生に、言わなくてよかったことにもならない」
暖炉の火が、小さく音を立てた。
「ごめん」
ルイは、言った。
「言えなかった、じゃない」
声が低く続いた。
「言わなかったんだと、思う」
夏生は、火を見た。
「夏生に、言えば。全部が壊れると思ってた」
ルイは、いちど息を吸った。
「でも、言わなかったことで」
声が低くなった。
「もっと、壊した」
ルイは、夏生を見た。
「だけど」
声を、低く置いた。
「みーちゃんを、好きになったことを」
いちど、言葉を切った。
「間違いだったとは、思っていない」
美夏が、息を止めた。
ほんのわずか前に出そうになった。
「みーちゃん」
理沙が、静かに首を振った。
美夏は、踏みとどまった。
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夏生は、しばらくルイを見ていた。
「俺は」
声が低かった。
「お前を、信じてた」
「みーちゃんを、任せてた」
「うん」
夏生の喉が、わずかに動いた。
「お前なら。変なふうには、しないって思ってた」
夏生は、火を見た。
「それなのに」
声が掠れた。
「俺だけが、知らなかったのか」
川の音が、していた。
「気づかせないように、してたのは」
ルイが、低く言った。
「僕だ」
「違う」
夏生は、短く言った。
火を見たままだった。
それから、もっと低い声でこぼした。
「俺も」
声が掠れた。
「見てなかった」
ルイは、何も言えなかった。
美夏は、目を伏せた。
暖炉の火が、低く揺れた。
夏生の肩が、わずかに震えた。
「夏生」
陽翔が、暖炉のそばから低く呼んだ。
それだけだった。
夏生は、答えなかった。
けれど、震えは少しずつ収まっていった。
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夏生は、長く黙っていた。
窓の外で、川の音が続いていた。
「……言葉じゃ」
夏生が、ようやく口を開いた。
声は低かった。
「わからない」
暖炉の火が、低く燃えていた。
ルイが、ゆっくりと息を吸った。
「夏生」
夏生は、答えなかった。
ルイは、それでも目を逸らさなかった。
「言葉で、わかってもらえるとは思っていない」
声は静かだった。
「でも」
いちど、言葉を切った。
「聞いてほしい音がある」
美夏が、息を止めた。
ルイは、美夏を見なかった。
夏生を見ていた。
「家族に、聞いてほしい」
暖炉の火が、小さく音を立てた。
「教会で」
夏生の目が、わずかに動いた。
窓の向こうに、冬の午前の光があった。
霜の張った石畳。
低い石の橋。
川沿いの道。
その向こうに、村はずれの石造りの教会が見えていた。
「……海と光か」
夏生が、低く言った。
ルイは、頷いた。
「うん」
短い返事だった。
夏生は、しばらく窓の外を見ていた。
それから、ゆっくりと振り向いた。
「……行くぞ」
低い声だった。
美夏が、息を吸った。
夏生は、ようやくルイを見た。
「聞かせて」
川の音が、まだ続いていた。




