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第37章 川の音が聞こえる場所

いつのまにか、指先がかじかんでいた。


 夏生(なつき)は、スマホを取り出した。


 美夏(みなつ)に、メッセージを送った。


「下に来て」


 すぐに、返事が来た。


「にぃに?」


「今、下にいる」


 しばらくして、寮の扉が開いた。


 美夏が、降りてきた。


 夏生の顔を見て、美夏の足が止まった。


 もう、知られている。


 夏生の顔色。立ち方。声になる前の空気。


 それだけで分かった。


「にぃに、話を——」


「今は、帰る」


 夏生は、美夏の言葉を遮った。


「帰るって」


「ロウアー・スローター」


「今から?」


 美夏が、戸惑った。


「頼む」


 短い言葉だった。


 美夏は何か言いかけて、飲み込んだ。


 ルイをかばう言葉も、自分の気持ちも。


 いまの夏生には、伝わらない気がした。


 けれど、うつむきはしなかった。


-----


 夏生は、必要なことを、順番に、済ませた。


 寮への連絡。急な一時帰宅の、詫び。家への連絡。チケットの確認。空港までの、車。


 荷物は最低限でいい、と美夏に言った。


 声は、思ったより落ち着いていた。


 そのことが、自分でも少し遠かった。


 けれど、頭の中では、さっき見た影だけが、何度も戻ってきた。


-----


 美夏は、部屋へ戻った。


 最低限の荷物を、まとめた。コート。パスポート。財布。充電器。着替えを、少し。


 それから、ヴァイオリンケースを見た。


 少し、迷ってから手に取った。


 合格した、その日だった。


 なのに、夜のうちに寮を出る。


 部屋を出る前に、美夏は一度だけ、振り返った。


 ドアを、閉めた。


-----


 空港へ向かう車の中は、静かだった。


 夏生は、便の時間を確認した。


 美夏が、一度だけ呼んだ。


「にぃに」


 夏生は、首を横に振った。


 美夏は、それ以上言わなかった。


 車の窓の外を、夜のウィーンが流れていった。


 寮の前の外灯とは、別の光が窓に滲んでいた。


-----


 夜間飛行の機内は、薄暗かった。


 窓の外で、翼の灯りが点滅していた。


 美夏は、膝の上で手を重ねていた。


 夏生は、目を閉じていた。


 眠っては、いなかった。


 話し始めれば、何かが、形になってしまう。


 いまは、まだ、それを置く場所がなかった。


 移動だけが、進んでいった。


-----


 ヒースローに着いたのは、夜遅くだった。


 到着ロビーは、白い明かりで、満たされていた。


 深夜の空港は、広かった。人はいたけれど、どこか空虚だった。キャリーケースの車輪の音が、高い天井に低く響いていた。


 夏生は、迷わず、進んだ。


 入国。荷物。タクシー乗り場。


 美夏は、何か言いかけた。


 けれど、言えなかった。


 夏生も、何も、言わなかった。


-----


「ロウアー・スローターまで」


 美夏は、それを、聞いた。


 タクシーのドアが、閉まった。


 ヒースローを出ると、タクシーはすぐに高速へ乗った。


 深夜の道は、空いていた。前を行く車のテールランプが、遠くにいくつか見えるだけだった。対向車線のヘッドライトが、ときどき、流れるように過ぎていく。それ以外は、暗かった。


 ロンドンの明かりが後ろへ遠ざかると、窓の外は、さらに暗くなった。街灯の間隔が、少しずつ開いていった。やがて、灯りそのものが、まばらになった。


 昼間なら、牧草地と石垣が、どこまでも続いているはずの道だった。けれど今は、その全部が、黒く沈んでいた。ヘッドライトの端に、石垣の輪郭が一瞬だけ浮かんで、すぐに後ろへ流れていった。


 コッツウォルズに、入っていく。


 美夏は後部座席で窓の外を見ていた。


 隣に夏生がいた。


 膝の上の手を何度か組み直しているのが、窓ガラスに映っていた。


 背中に回された、るいとの腕の温かさだけが、まだ残っていた。


 タクシーが緩いカーブを曲がった。


 運転手のラジオは絞られていて、何を言っているのかは聞き取れなかった。


 しばらくして、美夏は低く呼んだ。


「にぃに」


 夏生はすぐには返事をしなかった。


 窓の外の暗さが流れていった。


 少しして、夏生は言った。


「家に着いてからにして」


 声は冷たくなかった。


 ただ、閉じていた。


 美夏は、また外を見た。


 ヘッドライトの先に、見覚えのある景色が少しずつ増えてきた。低い石の橋。川沿いの道。村の入り口の小さな標識。


 帰ってきた、はずだった。


 でも、いつもの景色がどこか遠かった。


-----


 ロウアー・スローターの家に着いたのは、夜更けだった。


 タクシーが家の前の道で止まった。


 石造りの家は暗かった。けれど、台所の窓に、灯りがひとつ、ついていた。


 車を降りると、冬の夜の空気が頬に触れた。昼間の冷たさとは違う、もっと深く、底まで冷えた空気だった。アイ川の音が、暗がりのなかで低く続いていた。


 玄関の灯りがついた。


 扉が内側から開いた。


 理沙だった。


 カーディガンを羽織っていた。起きていたのだ、と美夏は思った。


 理沙は美夏の顔を見た。それから、夏生のほうを見た。


「寒かったでしょう」


 それだけ言った。


 いつもの理沙の声だった。


 陽翔(はると)が奥から出てきた。


 何も言わずに、夏生の手から美夏のキャリーケースを受け取った。台所のほうへ行って、やかんを火にかける音がした。


 隣に立った理沙の視線が、美夏の肩のあたりへふと動いた。


 ヴァイオリンケースがかかっていた。


 ポケットのファスナーのところで、薄藤色の房が、玄関の灯りの下で小さく揺れていた。


 理沙の目がその房のところで、一瞬、止まった。


 それから、離れた。


 美夏は気づいた。


 けれど、二人とも何も言わなかった。


-----


 リビングに入った。


 暖炉に火が入っていた。理沙か陽翔が、二人を待つあいだ、絶やさずにいたらしかった。炎が、石の壁に低く揺れる影を落としていた。


 陽翔が温かい飲み物を出した。湯気が立っていた。


 けれど、誰も落ち着いて座れなかった。


 夏生はソファのそばに立っていた。


 美夏の顔を、まだ見なかった。


 それだけで、これが夏生にとってどれだけ重いのか、美夏には分かった。


 暖炉の火を見たまま、夏生は言った。


「みーちゃんは、二階へ行ってて」


 美夏は、少し、外に置かれた気がした。


 理沙が静かに名前を呼んだ。


「夏生」


 夏生は振り向かなかった。


「母さん、今は無理」


 理沙は、それ以上強くは止めなかった。


 ただ、美夏のほうを見た。


 けれど、美夏はその場では夏生の言葉に従った。


「……わかった」


 美夏は二階へ上がった。


 階段を上る自分の足音だけが、しんとした家のなかに低く響いた。


-----


 夏生はしばらく暖炉の火を見ていた。


 二階で、ドアの閉まる音がした。


 話さなければならなかった。


 けれど、口にすれば、それが形になる。形になったものを、まだどこにも置けなかった。ウィーンの寮の前で足が止まったときから、ずっとそうだった。


 理沙は急かさなかった。


 陽翔も、台所から戻って、暖炉のそばに立ったまま、何も言わなかった。


 夏生はようやく口を開いた。


「ウィーンで」


 声が低かった。


「みーちゃんの寮の前で、見たんだ」


 一度、言葉を切った。


「ルイと、みーちゃんが」


 声が掠れた。


「……まるで、恋人同士みたいだった」


 言ってしまってから、夏生は口をつぐんだ。


 理沙と陽翔が、顔を見合わせた。


 夏生は、それを見た。


 少し、置いていかれたような声で聞いた。


「……母さんと、はるくんは、気づいてたの」


 理沙も陽翔も、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えになってしまった。


 いちばん近くにいたつもりだった。受験のことも、体調のことも、食事のことも、歩幅まで、誰よりも気にかけてきた。


 なのに。


 自分だけが、見ていなかった。


 あるいは、見ようとしていなかったのかもしれない。


 理沙が、ようやく、言った。


「夏生」


 穏やかな声だった。


「今夜は、もう、遅いから」


 夏生は答えなかった。


 暖炉の火が低く揺れていた。


-----


 美夏は自分の部屋に入ったが、灯りはつけなかった。窓の外のわずかな夜の明るさだけが、部屋に差していた。


 コートを脱ぐ前に、美夏はヴァイオリンケースを机の横に置いた。


 暗い部屋のなかで、薄藤色の房が揺れて、止まった。


 合格発表があったことが、もう、ずっと前のことのようだった。


 美夏は、コートを脱いで、ベッドの端に腰を下ろした。


 スマホを手に取った。


 メッセージでもよかった。けれど、声が聞きたかった。


 呼び出し音は一度だけだった。


 すぐに出た。


「みーちゃん」


 るいとの声だった。


 いつもの落ち着いた声ではなかった。低く、少し乱れていた。ずっとスマホを握って待っていたのかもしれなかった。


「家に着いた」と、美夏は言った。「ロウアー・スローター」


 電話の向こうで、ルイが息を呑むのが分かった。


 しばらく間があった。


「……行く」


「るいと」


「明日の朝、一番の飛行機で行く。夏生にも、僕が話す」


 けれど、その声を聞いて、美夏は気づいた。


 このまま、明日を待てば。


 るいとは、きっと全部を自分の責任にしてしまう。夏生に頭を下げて、自分が悪かった、と言うかもしれない。みーちゃんを巻き込んでしまった、と。


 でも、それは違った。


 これは、るいとだけの話ではなかった。


 美夏自身が選んできたことでもあった。


 小さいころから、ずっと。庭で、自分から「ばいおりんやりたい」と言ったときから。火曜日の教会に自分の足で通っていた、あの何年もの時間から。そして、寮の前で、自分から一歩近づいたときも。


「ううん」と、美夏は言った。


 ルイが黙った。


「その前に、私が話す」


「みーちゃん」


「にぃにには、私の言葉で、話したい」


 ルイはすぐには答えなかった。


 少しして、苦しそうな声で言った。


「……わかった」


「でも、僕も行く」


「うん」


「ひとりには、しない」


「……うん」


 電話を切った。


 美夏は、しばらくスマホを握っていた。


 暗い部屋のなかで、画面の光だけが手のひらを白く照らしていた。やがて、それも消えた。


 るいとが、来る前に。


 るいとが、全部を自分の責任にしてしまう前に。


 自分の言葉で、にぃにに話さなければ。


 美夏は立ち上がった。


 ヴァイオリンケースのほうを、一度、見た。


 それから、ドアを開けた。


-----


 階段を降りた。


 一段ずつ、自分の足で降りていった。


 リビングに入った。


 夏生と理沙と陽翔が、黙って暖炉の火を眺めていた。


 美夏が入ってきた気配に、理沙が顔を上げた。


 それから、陽翔も。


 夏生だけが、すぐにはこちらを見なかった。


 ソファに座って、膝の上で手を組んだまま、火を見ていた。


 美夏は、その場に立っていた。


 誰も、何も、言わなかった。


 暖炉の火が、小さく音を立てた。


 炎の影が、石の壁の上で低く揺れた。


 窓の外では、川の音がしていた。


 家のどこにいても聞こえる音だった。美夏が生まれる前から、ずっとこの村を流れてきた音だった。


 何も、変わっていなかった。


 けれど、この家の何かは、もう、さっきまでとは違っていた。


 川の音はいつものようにずっと続いていた。

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