第36章 見えていなかったもの
一月のウィーンは、夜がなかなか明けなかった。
ロウアー・スローターの暖炉も、アイ川の音も、もう遠かった。年が明けて、美夏は、ひとりでウィーンの寮に戻っていた。
起きる時間になっても、窓の外はまだ暗い。空の低いところに、夜の名残の青が、重く残っていた。石畳には霜が白く張りつき、日の差さない壁際だけ、夜のうちに凍ったものが溶けずに残っていた。
校舎では、早い時間から、練習室の明かりだけがいくつかついていた。
毎朝の練習は、基礎から始めた。
音階。弓の運び。同じ音を、何度も。
課題曲の譜面は、何度も開いたぶん、紙の角が少しやわらかくなっていた。余白の書き込みは少しずつ増え、面接用の書類は、机の端に揃えて置いてあった。
その譜面を、ケースにしまった。ポケットのファスナーのところで、薄藤色の房が、わずかに揺れた。
週末は、ルイのスタジオで、最後の調整をした。
夜、寮の部屋で譜面を閉じたあと、美夏はしばらく、手を膝の上に置いていた。
不安は、あった。
けれど、行く場所は、もう揺れていなかった。
合格したかった。
あの場所で、自分の音を、鳴らしてみたかった。
目指しているのは、ルイがかつて学んだ、ロンドンの音楽院だった。それでも、ルイのために受けるのではないと、わかっていた。
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ルイの指摘は、的確だった。
師としての距離を、いつもより正確に測っているようだった。余計な励ましは、しなかった。
美夏が、不安になって、ふと視線を上げたときだけ、ルイは、それを短く受け止めた。
二人きりの空気になりすぎる前に、ルイは、譜面のほうへ、視線を戻した。
ある日、課題曲の、ひとつの場所で、ルイが言った。
「ここ、急がなくていい」
「うん」
「音を置く前に、もう半拍、待てる」
「……怖くなる」
美夏は、弓を下ろしたまま、言った。
「怖くても、待って」
ルイは、それだけ言って、また譜面のほうを見た。
それから、もう一度、美夏を見た。
「みーちゃんなら、大丈夫」
めずらしく、ルイの目元が、やわらいだ。
「みーちゃんが弾けるのは、僕が、一番よく知ってる」
美夏はその言葉を、しばらく噛み締めていた。
それから、もう一度その小節を弾いた。
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ギムナジウムの練習室の前の廊下だった。
ルーカスが窓のそばの壁に寄って、立っていた。美夏が通りかかると、軽く顔を上げた。
「受験、もうすぐだね」
「うん」
ルーカスは、少しだけ頷いた。
「お互い、頑張ろう」
「うん」
それだけだった。
ルーカスは、それ以上、踏み込まなかった。美夏は、廊下の先のレッスン室へ歩いていった。
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夜、寮の部屋で夏生からメッセージが届いた。
試験の日程は、もう把握しているらしかった。移動の段取りが、短く並んでいた。必要なら、ロンドンで待機している、とも書いてあった。
最後に、一行だけ別のことがあった。
「ちゃんと食べてる?」
美夏は、少し笑って、返した。
それから、その日の練習のことを一言だけ書いた。
「今日、るいとに最後のところ見てもらった」
返信は、すぐに来た。
「そっか。ルイが見てくれてるなら安心だな」
美夏は、その文字をしばらく見ていた。
それから、画面を閉じた。
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二月の朝が来た。
ロンドンへ発つ日だった。
ウィーンは、まだ暗かった。美夏はコートを着て、ヴァイオリンケースを肩にかけた。ポケットの薄藤色の房が、コートの黒にふっと触れた。
空港まで、ルイが送った。
早朝の出発ロビーは、冷えていた。天井の高いところに、まだ夜の色が残っていた。アナウンスの声と、スーツケースの車輪の音が、広い空間に低く散っていた。
チェックインカウンターの前で、美夏は足を止めた。
「ここでいい」
ルイは、頷いた。それ以上は、ついてこなかった。
歩き出す前に、スマホが短く震えた。
夏生からだった。ロンドンで待っている、とゆうべ聞いていた。
「みーちゃん、落ち着いて。いつも通りでいい」
美夏はそれを読んで、少し笑った。
それから、ルイのほうを振り返った。
ルイは、何も言わなかった。
ただ、ひとつ、頷いた。
美夏は、保安検査場のほうへ歩いていった。
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ロンドンに着いたのは、昼前だった。
到着ロビーを抜けると、夏生が柱のそばに立っていた。美夏を見つけて、軽く手を上げた。
「みーちゃん、こっち」
「にぃに」
夏生は、美夏の荷物を持った。
「寒かった?」
「ウィーンよりは、少しだけ」
「そっか」
夏生は、美夏の顔を見た。
「先に、何か飲もう」
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空港を出ると、ロンドンの冬が、低く垂れていた。
ウィーンの朝は、青く、暗かった。ロンドンの空は、湿った灰色だった。同じ冬でも、空気の重さが違った。舗道は、濡れていた。車の音が、低く、通りを流れていた。歩く人のコートの色も、どこか、沈んで見えた。
夏生は、美夏の歩幅に合わせて歩いた。
何か言いかけて、やめたようだった。代わりに、低く言った。
「時間は、大丈夫」
「うん」
「受付まで、一緒に行く」
「ありがとう」
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受付で、夏生は足を止めた。
「みーちゃん」
「うん」
「いつも通りでいい」
朝、メッセージで読んだ言葉と同じだった。
美夏は、頷いた。
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音楽院の試験室の前の廊下だった。
暖房の入った空気のなかに、いくつもの音が低く混じっていた。ケースを開ける音。小さな調弦の音。弓が弦にそっと触れる音。廊下の遠い足音。試験室のほうで、誰かの名前が呼ばれる声。
窓の外は、灰色の光だった。
美夏は、ケースを開けた。ヴァイオリンを取り出して、調弦した。木の冷たさが顎のあたりに触れた。
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名前が、呼ばれた。
試験室は、思ったより、天井が高かった。譜面台が、部屋の真ん中に置かれていた。窓の外の、曇った光が、床の上に、薄く落ちていた。
美夏は、床を踏んだ。石ではなかったけれど、硬く、冷たかった。
試験官から、課題曲の指示があった。
ヴァイオリンを構えた。
指先が、冷たかった。
息を、ひとつ、吸った。
走り出しそうになる手を、いちど、止めた。
怖くても、待てる。
美夏は、その怖さを抱えたまま、弓を、弦に下ろした。
最初の音が、部屋の空気に触れた。
少し、硬かった。
けれど、音は走らなかった。音の居場所を半拍ぶん探してから、置いた。
息を、吸い直した。
音が少しずつ、開いていった。高いところで、澄んで、長く伸びた。部屋の天井に届いて、ゆっくりと、下りてきた。
最後の音まで、急がなかった。
弓を弦から離した。
余韻が、まだ部屋に残っていた。
美夏は、その余韻が消えるまで、右手を下ろさなかった。
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課題曲の演奏が終わっても、試験は、まだ終わらなかった。
短い初見の譜面を、渡された。数小節を、目で追う時間があった。
ここでも、急がずに弾いた。
そのあと、面接があった。
なぜ、この音楽院を選んだのか、と訊かれた。
美夏は、少し考えた。
「最近、ヴァイオリンと、ヴィオラと、ピアノの、小さな編成で弾く機会がありました」
言葉をひとつずつ、探した。
「三人で、一つの曲を、合わせて。……自分の音を前に出すより、ほかの音を聴くほうが、大事な時間でした」
いちど、言葉が途切れた。
「だから、ここで。誰かの音を聴きながら、自分の音がどう響くのか、もっと知りたいと思いました」
言い終えてから、自分の声が、思ったより静かだったことに気づいた。
その言葉は、心に落ちていった。
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受付前のロビーへ出ると、夏生は、少し早すぎるくらいに立ち上がった。
「終わった?」
「うん」
「どうだった?」
「……弾けたと思う」
夏生は、それを聞いて、少し笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、何か食べよう」
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外へ出た。
ロンドンの空は、まだ灰色だった。けれど、朝より少しだけ、光が高くなっていた。
美夏は、ヴァイオリンケースの持ち手を握り直した。
隣で、夏生が歩く速度を少しだけ落とした。
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結果が出たのは、二月が終わりに近づくころだった。
寮の部屋で、ひとり、画面を開いた。
最初は、文字の意味がうまく入ってこなかった。
合格だった。
美夏は、しばらく動かなかった。手のなかで、スマホが少し重くなった気がした。息を吸って、ようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。
窓の外は、淡い光だった。廊下の遠くで、誰かの足音がした。
家族に、短く送った。
「受かった」
夏生からは、すぐに返事が来た。
「おめでとう、みーちゃん」
「よく頑張った」
理沙と陽翔からも、短い言葉が届いた。どれも、あたたかかった。
少しして、夏生からもう一度メッセージが来た。
「明日、そっちへ行く」
「直接、おめでとう言わせて」
美夏は、その文字を見て、少し笑った。
「うん。待ってる」
そう返してから、もう一度、画面を開いた。
「受かった」
ルイに、送った。
スマホを、置いた。
窓の外で、冬の光が、少し傾いていた。
少しして、スマホが震えた。
今度は、メッセージではなかった。
ルイからの電話だった。
「……みーちゃん」
耳に当てたスマホの向こうで、ルイの声がした。
「おめでとう」
その声を聞いた瞬間、美夏は、返事をするのが少し遅れた。
「……うん」
「よく頑張った」
いつもの低い声だった。けれど、少しだけ、息がやわらかかった。
「今日、夕方から本番がある」
「うん」
「終わったら、行く」
美夏は、スマホを耳に当てたまま、窓の外を見た。
「……来てくれるの?」
「行く」
短い言葉だった。
それだけで、十分だった。
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夜になった。
ルイから、メッセージが来たのは、七時半を過ぎたころだった。
「着いた」
美夏は、コートを取った。ヴァイオリンは、持たなかった。
部屋のドアを閉めて、階段を降りた。寮の廊下は、しんとしていた。自分の足音だけが、低く響いた。
玄関を出ると、冬の夜の空気が、頬に触れた。
寮の前は、冷えていた。外灯が、ひとつ、小さく灯っていた。
その光の下に、ルイが立っていた。
コートを着ていた。公演のあと、急いで来たのか、少し、息が上がっていた。
美夏に気づくと、ルイが微笑んだ。
「おめでとう、みーちゃん」
電話で、聞いた言葉だった。
けれど、目の前で言われると、違った。
美夏は、すぐに、返事ができなかった。
「……うん」
「よく頑張った」
美夏は、頷いた。
それから、一歩、近づいた。
ルイのコートの袖を、軽く、引いた。
「来てくれて、うれしい」
「僕も、来たかった」
ルイが、美夏を見た。
美夏も、ルイを見た。
ふたりは、しばらく、何も言わずに、見つめ合った。
白い息が、ふたつ、夜のなかで、重なって、消えた。
ルイは、一瞬、迷った。
けれど、美夏の背中にそっと手を回した。
美夏は、ルイの胸元に、額を寄せた。
ルイの腕に、少しだけ、力がこもった。
冬の夜の、外灯の下だった。
しばらく、どちらも、動かなかった。
美夏が、顔を上げた。
すぐ近くに、ルイの目が、あった。
ルイが、少し、息を止めた。
ゆっくりと、唇が、触れた。
冬の空気が、少しだけ、遠くなった。
すぐに、離れた。
離れても、距離は、近かった。
美夏が、小さく息を吸った。
「戻らなきゃ」
「うん」
「来てくれて、ありがとう」
「うん」
ルイは、動かずに、美夏を見ていた。
美夏は、寮の入口のほうへ歩いた。
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夏生が寮に向かって歩いてきたのは、その少し前だった。
明日行く、と送ったのに、結局、その日のうちに、来てしまった。取れるいちばん早い午後の便に乗った。直接、顔を見て、おめでとうと言いたかった。それだけだった。
寮の前に、外灯が、ひとつ、灯っていた。
その光の下に、人影が、ふたつ、あった。
近い距離だった。重なって、見えた。
夏生は、足を、止めた。
恋人同士、だろうか。寮の前で、こんなふうに。
誰だろう、とだけ、思った。それ以上は、考えなかった。
片方が、離れた。寮の入口のほうへ、歩いていく。
顔は、見えなかった。
けれど、外灯の下を通った、その輪郭。髪。コートの色。歩き方。
夏生は、動けなくなった。
見間違いだ、と思った。
みーちゃんが、寮の前で、知らない誰かと、こんなふうに。
いや。人違いだ。そんなはずが、ない。
けれど、その歩き方を、夏生は、誰よりも知っていた。小さいころから、ずっと、見てきた。
みーちゃんだ。
夏生の中で、何かの音が、止まった。
美夏が、寮の中へ、入っていった。
残された人影が、帰ろうとして、振り向いた。
外灯の光が、その横顔に、かかった。
夏生は、息を、のんだ。
ルイ?
なぜ。どうして、ルイが、ここに。
いま見た影と、みーちゃんの背中と、ルイの顔が、頭のなかで、一気に、つながっていく。
つながって、ほしくなかった。
声が、出なかった。
息が、止まったままだった。
気づくと、夏生は、足を、踏み出していた。
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夏生は、ルイの前で、足を止めた。
ルイの目が、一瞬、開いた。
「夏生……」
夏生は、何かを、言おうとした。
けれど、言葉より先に、手が動いた。
気づいたときには、ルイの襟元を、掴んでいた。
ルイは、抵抗しなかった。夏生を、まっすぐ、見つめ返した。
「……いつから」
夏生は、その先の言葉を続けられなかった。
ルイの低い声がした。
「夏生」
「話す。ちゃんと、話す」
夏生は、その言葉を、最後まで聞けなかった。
いま、自分が、何をしようとしていたのか。
手の力が、抜けた。
夏生は、手を、離した。
「今は、何も聞きたくない」
声は、掠れていた。
「帰ってくれ」
ルイは、何か言いかけた。
けれど、夏生の顔を見て、その言葉を、飲み込んだ。
ルイは、頷いた。
そのまま、外灯の光の外へ、歩いていった。
外灯の下に、夏生だけが、残った。
ルイへの怒りだと、思った。
けれど、違った。
胸の奥で、熱くなっていくものは、自分へも向かっていた。
すぐそばに、いたのに。
いちばん近くで、見ていたつもりだったのに。
受験。体調。食事。歩幅。
なのに。
みーちゃんの心が、どこへ向かっていたのか。
それだけが、見えていなかった。
見ようと、していなかったのかもしれない。
外灯の光が、一瞬揺らいだ。




