第35章 海と、光と、道と
ロウアー・スローターの十二月。石造りの家も、アイ川の音も、変わらない。けれど、光の高さが違った。太陽は、午後の早い時間にはもう石垣の上のほうにしか届かなかった。空気は冷たく澄んで、吐く息が白く抜けていった。
村はクリスマスの支度に包まれていた。川沿いの家々には、窓枠に小さな灯りがともされていた。柊の枝を飾った門口があった。どこかの家から、シナモンの混じった焼き菓子のにおいが漏れていた。教会のまわりにも、礼拝の準備をする人の出入りがあった。
ロンドンのホールの華やかさとは、違っていた。
ここにあるのは、低く冷えた冬の空気と、暮らしの明かりだった。
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十二月二十四日の午後、美夏は二階の窓から、庭のほうを見ていた。
石垣のあいだに落ちた枯れ葉が、風に押されて、少しだけ動いた。遠くから、教会の鐘の音が届いた。イブの礼拝を知らせる鐘だった。低い音が、冬の空気のなかに長く残ってから、ゆっくりと消えた。
教会には、本番用のピアノがすでに搬入されていた。十二月の早い時期に運び込まれ、調律も済んでいた。クリスマス直前の搬入では礼拝の準備に差し支えるから、と夏生が段取りをつけていた。
ただし、二十四日と二十五日は、クリスマスの礼拝とその準備で教会は使えなかった。
三人は、家のアップライトで確認をすることになっていた。
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夕方、リビングに灯りがともった。
台所のほうから、理沙の料理のにおいが漏れていた。焼いた肉の香ばしさに、ローズマリーの香りが重なっていた。陽翔は暖炉のそばで、薪の位置をときどき直していた。炎の明るさが、石の壁に、低く揺れる影を落としていた。
夏生は、テーブルのうえにタブレットとメモを広げていた。明後日の段取りを確認しているらしかった。教会への移動の時間、リハーサルの流れ、当日の受付のこと。ときおり低い声でルイに確認を入れて、またメモに戻った。
三人は、家のピアノのそばに集まった。
ルーカスが、蓋を開けた。鍵盤に触れる前に、両手をいちど膝に置いた。
家のピアノは本番用ではなかった。天井は低く、壁は近く、音はすぐに手の届くところへ返ってきた。
けれど、そのぶん、三人の音が近かった。
台所のほうで、理沙がオーブンの扉を開ける音がした。夏生がタブレットから顔を上げて、ピアノのほうをちらりと見た。陽翔は暖炉の火のそばで、何も言わずに、手元の本に視線を落としたままだった。
この家の中に音が溶け込んでいくようだった。
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二十五日。
ロウアー・スローターの朝は、静かだった。
庭に降りた霜が、石垣のあいだに白く薄く張っていた。アイ川の音だけが、家のどこにいても、低く続いていた。窓の外の空は高く、薄い灰色のなかに、冬の水色がわずかに混じっていた。
教会の鐘が、鳴った。
クリスマスの礼拝を告げる鐘だった。村の人たちが、コートの襟を立てて、教会のほうへ歩いていくのが、窓のむこうに見えた。
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理沙が、朝食を整えた。トーストと、スクランブルエッグと、ベイクドビーンズ。ジャムの瓶が二つと、バターナイフ。理沙はいつもと同じ手つきで、最後にポットの紅茶をテーブルに置いた。
陽翔が、皿を運んだ。
夏生が、椅子に腰を下ろしながら言った。
「みーちゃんが小さいころのクリスマスって、すごかったよな」
美夏が、紅茶のカップから顔を上げた。
「すごかった?」
「ツリーの飾り、全部自分でやるって聞かなくて」
理沙が、ポットの蓋を閉めながら、少し笑った。
「そうだったわね。届かないのに、脚立に登ろうとして」
「はるくんが後ろで構えてたよな。いつ落ちてもいいように」
陽翔が、皿を置く手を止めた。
「あれは構えてたわけじゃない。近くにいただけだ」
「同じだろ」
夏生は、トーストに手を伸ばしながら、続けた。
「あと、ルイが来ると、みーちゃん離れなかったよな。ずっとくっついてた」
何でもない声だった。
美夏の指が、カップの持ち手のところで、ほんの少し強くなった。
紅茶の水面が、かすかに揺れた。
「……小さかったから」
声が、自分で思ったより低くなった。
「小さかったな」
夏生は、笑った。
理沙が、椅子に腰を下ろした。
「ルイくんが来ると、ツリーの飾りつけも止めて走っていくのよ。せっかく途中まで頑張ってたのに」
美夏は、カップのほうへ目を落としたまま、顔を上げなかった。
子どもの頃の話だった。けれど、耳が少し熱くなるのを感じた。
ルイは、コーヒーのカップに口をつけたまま、何も言わなかった。カップを下ろしたとき、目元が少しだけやわらいでいた。
理沙が、紅茶を注ぎ足しながら、美夏のほうを見た。
長くはなかった。一瞬だけ、娘の伏せた目元のあたりに、視線がふわりと触れて、離れた。
それから、理沙は何も言わず、自分のカップに紅茶を注いだ。
美夏は、紅茶のカップを両手で包み直した。
自分がここに戻ってきていることを、ゆっくりと感じていた。
同じテーブルだった。同じ家族がいて、同じ紅茶のにおいがした。
けれど、カップを持つ自分の手は、あの頃の小さな手ではなかった。
トーストにバターを塗るルーカスの手が、ほんの一瞬だけ止まって、すぐにまた動いた。
ルイは、コーヒーのカップを持ったまま、窓の外の庭のほうを見ていた。
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午後になった。
三人は、もう一度、ピアノの前に集まった。
リハーサルというより、明日のために呼吸をそろえる時間だった。
バッハも、フォーレも、「冬の川」も、昨夜と同じように、少しずつ確かめた。
最後に、「海と光」を合わせた。
ルイのヴィオラが、最初の音を置いた。
教会のための曲だった。ロウアー・スローターの石の教会、アイ川の音、高い窓から差す光。その場所で生まれて、その場所で育った曲だった。
けれど、家のなかで鳴ると、別のものに聞こえた。
家の低い天井が、音をすぐに返した。石の壁が、音を近くに置いた。教会のように遠くまで広がるのではなく、三人のすぐそばで、音が留まった。
教会のための曲なのに、家族の音にも聞こえた。
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曲が終わって、しばらく、誰も動かなかった。
理沙が、二階から降りてきていた。階段の途中で足を止めて、リビングのほうへ耳を傾けていたらしかった。音が止んだあとも、すぐには降りてこなかった。
陽翔は、庭から戻ってきて、暖炉のそばに立っていた。何も言わず、火のなかの薪の位置を、少し直した。
夏生は、ソファのうえで、タブレットから顔を上げていた。
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音が止むと、外から、アイ川の音が聞こえてきた。
冬の水量は、少なかった。
美夏は、弓を下ろしたまま、窓のほうを見た。
明日、教会へ行く。
「海と光」が始まった場所へ、今度は三人で戻る。
ルイのヴィオラと、美夏のヴァイオリンと、ルーカスのピアノ。
窓の外で、冬の午後の光が、庭の石垣のいちばん低いところまで降りてきていた。
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十二月二十六日。
朝のロウアー・スローターは、静かに冷えていた。
石畳には、まだ霜が残っていた。日の当たらない壁際のところだけ、白いものがうっすらと張りついていた。アイ川の水は、冬の低い音を立てながら、石のあいだを流れていた。
三人は、それぞれ楽器を持って、教会へ向かった。
美夏は、コートの襟のなかで、少しだけ息を詰めていた。緊張、というほどはっきりしたものではなかった。けれど、足が石畳を踏むたびに、胸の奥が小さく鳴った。
ルイは、いつもと変わらないように見えた。ヴィオラのケースを肩にかけて、歩く速さも、視線の置きどころも、普段のままだった。
ルーカスは、教会の扉を見上げていた。
初めてここへ来た日のことを、思い出していた。あの日は、夏の終わりだった。外の熱から一歩入ると、石の冷たさが、体を包んだ。
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三人は扉をくぐった。外の冷たさとは違う、しんと張りつめた冷気があった。
教会の中には、本番用のピアノが置かれていた。
石の床。高い天井。冬の空気。
高い窓から、斜めに差し込む光。光の筋のなかを、埃がゆっくりと動いていた。
そして、ここに積み重なった音。
美夏は、床の石を踏んだ。靴底から、冷たさが伝わった。外の世界の音が遠ざかって、かわりに、教会の中の静けさが耳に入ってきた。川の音が、厚い石の壁を通して、細く届いていた。
この場所を、体が覚えていた。
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観客は、多くなかった。
家族がいた。村の人たちがいた。それから、ロンドンの公演で「海と光」や「冬の川」に心を動かされて、わざわざここまで足を運んだ人たちが、いくらか。
夏生は、客席の後ろのほうから、会場を見ていた。腕を組んで、壁際に少し寄っていた。ただ、聴くために、そこにいた。
理沙は、静かに席についた。コートを膝の上にたたんで置いて、両手をその上にそろえた。
陽翔は、照明の角度や椅子の位置を確かめて回ってから、理沙の隣に腰を下ろした。
開演前の教会には、独特の静けさがあった。
人が集まっているのに、音が立たない。石の壁が、ざわめきを吸ってしまうようだった。
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弓が上がった。
最初は、「主よ、人の望みの喜びよ」。
ルーカスの三和音が、低く置かれた。
美夏のヴァイオリンが入った。ルイのヴィオラが、その下を支えた。
音が、教会の空気を整えるように広がった。高い天井まで上がって、それからゆっくりと下りてきた。家のリビングでは、すぐそこで鳴っていた音が、ここでは遠くまで届いて、余韻になって戻ってきた。
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続いて、「シシリエンヌ」。
フォーレの旋律が、ヴァイオリンからヴィオラへ、ゆっくりと渡された。渡す瞬間、音のあいだに短い間が入った。その間を、ルーカスのピアノが、低い場所で受け止めた。
音が、石の床のうえを、滑るように流れた。
美夏は弾きながら、客席のほうを見なかった。けれど、人が息をひそめて聴いているのが、空気でわかった。音が、一人ひとりのところまで、ちゃんと届いている。
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三曲目は、「冬の川」。
ルーカスの左手が、低い音を置いた。川の底のほうから、水が動きはじめるような音だった。右手が、そのうえを、細く流れた。美夏とルイの弦が、その流れに、薄く色を添えた。
ロンドンで、たくさんの人がこの音を聴いた。今日も、客席で誰かが、この音を受け取っている。
この場所でも、川は流れたのだ。
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最後の曲だった。
教会の空気が、少し変わった。
ここは、この曲が生まれた場所だった。
冬の日。高い窓から斜めに差す光のなかで、ルイと美夏が二人で弾いた。
その音が、今は三人の音になっていた。
ルイのヴィオラが、最初の一音を置いた。
低く、海の底のほうから。ただ一音だったのに、石の壁に届いて、天井まで上がって、またゆっくりと下りてきた。
美夏のヴァイオリンが、その隣に入った。
乗るのではなく、並ぶように。応えるのでもなく、ただそこにいるように。光が、海の表面に落ちていくように。
それから、ルーカスの音が、外側から入ってきた。
二人の音のあいだには、入らなかった。もっと外から、空気ごと動かすように。風が、海と光のうえを渡っていくように。
三人は、同じ曲を弾いていた。
けれど、抱えているものは、それぞれ違った。
それでも、音だけは、同じ場所に置くことができた。
「海と光」は、何も消さない。消さないままで、それぞれが抱えているものを同じ空気のなかに置くことを、許してくれた。
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最後の音が、石の壁に当たって、ゆっくりと消えた。
残ったのは、川の音だった。
しばらく、誰も動かなかった。
拍手は、少し遅れて始まった。
大きな拍手ではなかった。静かな、長い拍手だった。音を受け取った人たちが、その音をこわさないように、そっと手を打っているような拍手だった。
夏生は、客席で、ゆっくりと息を吐いた。
理沙は、目を閉じていた。
陽翔は、小さく微笑んだ。
美夏は、客席のほうを見た。家族の顔があった。村の人たちの顔があった。
ルイは、ヴィオラを下ろした。
ルーカスは、教会の天井を見上げていた。
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「海と光」は、ちゃんとここへ帰ってきた。
生まれた場所へ。冬の光と、石の床と、アイ川の音のあるところへ。
今度は、三人の音になって。
高い窓から、冬の光が、まっすぐに床へ降りていた。
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三人が教会を出ると、すでに日は暮れかけていた。
夕方の村は、さらに冷えていた。家々の窓の灯りが、来たときよりも明るく見えた。
家に着くと、暖炉に火が入っていた。
理沙と陽翔が先に戻って、部屋を温めておいてくれたのだった。台所のほうから、紅茶の香りがした。夏生は、楽器の搬入を手伝った業者への連絡を、廊下のほうで短く済ませていた。
暖炉の火と、紅茶の香りと、家族の声のなかに、本番の緊張が、少しずつ溶けていった。
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みんなで紅茶を飲んで、本番の話を少しした。
カップが空になったころ、ルーカスが、ふと立ち上がった。
アップライトピアノの椅子に腰を下ろした。蓋を開け、鍵盤に触れた。
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「冬の川」だった。
ルーカスの左手が、低い音を置いた。右手が、そのうえを、ゆっくりと流れた。音は、遠くへは広がらなかった。低い天井の下で、ルーカスのすぐそばに、低く沈んでいた。
自分のなかの、いちばん低いところを流れている川を、ただ、そのまま音にしているような弾き方だった。
美夏は、リビングの隅で、その音を聴いていた。
ルイも、窓のそばで、聴いていた。
誰も、何も言わなかった。
ルーカスは、最後の音を、そっと置いた。
音が、家のなかに、しばらく残った。それから、消えた。
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ルーカスは、鍵盤から手を下ろした。
しばらく、誰も動かなかった。
それから、ルーカスが、ピアノのほうを向いたまま、口を開いた。
「この曲、どこで生まれたか、まだ話してなかったですよね」
声は、低かった。
美夏が、ルーカスのほうを見た。
「秋休みに、京都に行ったんです」
美夏の手が、止まった。
「京都?」
「いつもの、作曲の旅って言って出かけて。でも、行き先は、誰にも言ってなかった」
ルーカスは、鍵盤の蓋には手をかけず、その上に指を置いたまま、続けた。
「あのとき、『冬の川』が、途中で止まってて。音を足すほど、濁っていく気がして。そんなときに、図書館で日本の音楽の本を見つけたんです。音と音のあいだの、空白の使い方が、僕の知っているのと違ってた。それで、行ってみたくなって」
京都の夕方のことを、ルーカスは話した。
観光客の通りから外れた、細い路地。古い鳥居と、低い石段。その上で舞っていた神楽。太鼓と、笛と、鈴の音。
「太鼓の音が、ヨーロッパの教会とは、まるで違ったんです。教会だと、音は石の壁から返ってくる。でも、あの木の拝殿のなかでは、太鼓の音が、返ってこなかった。鳴った瞬間に、消えていくみたいで」
ルーカスは、少し、間を置いた。
「でも、消えてなかった。木の柱の中に、床の下に、音が入っていくのが、見える気がして。消えながら、まだ続いてる。そういう音だった」
美夏は、何も言わずに、聴いていた。
「そのあと、鴨川に出て。夜の川辺に座ってたら、太鼓の音が、まだ頭の後ろのあたりで鳴ってて。そこに、川の音が重なってきたんです。川の音は、太鼓の音を、消さなかった。流れている音の上に、消えきらない音が、乗ってた」
ルーカスは、鍵盤のほうへ目を落とした。
「あれが、『冬の川』の底を流れる音になったんです」
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しばらく、誰も、何も言わなかった。
暖炉の火が、薪のはぜる音を立てた。
美夏は、さっきルーカスが弾いた「冬の川」の、いちばん低いところの音を思い出していた。鳴ったあとに、消えきらずに残っていた、あの音。あれは、京都で出会った音だった。
「それで」
ルーカスが、顔を上げた。
「日本に、行こうと思っているんです。ちゃんと、作曲を学びに」
声に、迷いはなかった。
「演奏も、続けます。でも、自分が本当にやりたいのは、たぶん、こっちなんだと思って。あの京都で聴いた音みたいなものを、もっと、自分の手で書けるようになりたい」
夏生が、ルーカスのほうへ目を向けた。口を挟まず、静かに聴いていた。
「同級生のあいだでは、ピアノ科は演奏家になるものだって、みんな思ってる。でも、僕は、たぶん違う」
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理沙が、口を開いた。
「いいと思うわ」
穏やかな声だった。
「自分の音が、どこから来るのか、わかっているなら」
ルーカスは、少しのあいだ、黙っていた。
「ありがとうございます」
陽翔は、暖炉の火のほうを見たまま、小さく頷いた。何も言わなかった。
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美夏は、ルーカスの話を聞きながら、自分のことを考えていた。
ルーカスには、行きたい場所があった。学びたいものが、はっきりとあった。
自分には、どうだろう。
目指している音楽院があった。ルイがかつて学んだ、ロンドンの音楽院。出願はもう済ませて、あとは試験を待つだけだった。
自分の道も、もう、見えていた。
美夏は、リビングの隅に置いたヴァイオリンケースのほうを、ちらりと見た。
薄藤色の房が、暖炉の火の揺れに合わせて、影のなかでかすかに動いて見えた。
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「美夏は」
ルーカスが、美夏のほうを見た。
「ロンドンの、あの音楽院だよね」
「うん」
「受験、いつ?」
「二月」
短く答えた。
ルーカスは、頷いた。
「じゃあ、もうすぐだ」
「うん。もうすぐ」
言葉にすると、急に、実感が湧いた。
もうすぐ。年が明けて、ひと月もすれば。
美夏は、ルイのほうを見た。
ルイも、窓のそばから、こちらを見ていた。視線が、合った。
言葉はなかった。ルイの目が、美夏の視線を、ちゃんと受け止めた。
美夏は、先に目をそらした。
理沙が、その一瞬を、見ていた。それから、何も言わずに、視線を戻した。
陽翔は、暖炉の薪に手を伸ばしながら、ちらりと、二人のほうを見た。火を直す手は、いつもと同じだった。
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暖炉の火が、薪のはぜる音を立てた。
理沙が、夕食の支度に戻っていった。夏生が、ルーカスの隣に腰を下ろして、日本の音楽の学校について、何か知っていることを話しはじめた。陽翔が、ときどき、その話に低い声で加わった。
家のなかが、また、暮らしの音で満ちていった。
美夏は、その輪の少し外で、ヴァイオリンケースのそばに座っていた。
受験も、合格も、そのあとに来るものも、すべて、これからのことだった。
けれど、それぞれの道が、確かに、その先に置かれていた。
窓の外で、冬の夜が、ゆっくりと降りてきていた。
暖炉の火が、リビングを、低く温めていた。
川の音はいつものようにずっと続いていた。




