第34章 冬の川のありか
十一月に入って、ウィーンの朝は、なかなか明けなくなった。
寮の窓の外は、登校の時間になっても、空がまだ十分には明るくならなかった。薄い灰色のなかに、夜の名残の青みが、わずかに残っていた。石畳の上には、夜のあいだに降りた霜が、白く薄く張っていた。歩く人の吐く息が、街灯の残りの光のなかで、白くほどけては消えた。街路樹は、もうほとんど葉を落としていた。残った数枚が、枝の先で、乾いた音を立てていた。
ウィーン音楽ギムナジウムの廊下には、最終学年の冬の、それぞれの忙しさが満ちていた。
願書。課題曲。実技試験。面接の準備。掲示板の前には、いつも誰かが立っていた。年明けの締め切りまでの日数が、誰の頭の中にも、それぞれの数で置かれていた。
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美夏の毎日は、もう、決めた場所へ向かって動いていた。
朝の練習。基礎の組み直し。譜面に向かう順番。レッスンと、課題曲の見直し。一週間で身体に入れる音の量を、ヴァイオリンの先生と毎週確かめた。
忙しかった。
けれど、迷いは、もうほとんどなかった。
週末は、ルイのスタジオで三人で合わせた。
ルイは、ロンドンの公演に向けて、演奏のことも、その外側のことも、両方を見ているようだった。リハーサルの段取り。譜面の最終確認。当日の進行。練習の合間に、低い声で電話を受けることが、前より増えた。
ルーカスは、以前より、少し静かだった。
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美夏も、ルイも、それには気づいていた。
学校で、授業の合間に、ルーカスは、ひとり、練習室のほうへ戻っていくことがあった。何を弾くわけでもなく、ただ、鍵盤の前に座っているらしかった。
窓の外の、曇った空を、長く見ていることもあった。机の端で、指先が、音にならないリズムを、軽く叩いていることもあった。本人も、気づいていないようだった。
美夏は、それを、教室や廊下で、視界の端に見ていた。
週末のスタジオでも、ルーカスは、譜面を閉じるのが、少しだけ遅くなっていた。最後の一枚を、フォルダに戻す手が、ふと止まる瞬間があった。ルイも、たぶん、それを見ていた。
でも、二人とも、理由は聞かなかった。
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夜、ルーカスは、自分の部屋で「冬の川」を書いていた。
机のスタンドだけが点いていた。
白い譜面の中ほどに、最初の一音は、まだそこにあった。秋休みのあとに置いた、低い四分音符。動き出していない水の底のような音。
その一音の、少し先に、ルーカスは、もうひとつ低い音を置いた。
しばらく見て、消した。
消しゴムの跡が、紙の表面に、薄く残った。
もう一度、置いた。
今度は、さっきより、半音だけ低いところに。
ただ、思い出すように、書いた。
木に吸われていく音を。鳴り終わったあとにも、消えきらずに残っていた沈黙を。水面ではなく、底のほうを、ゆっくり流れていた気配を。
消えながら残る音を、自分の冬の川の底に、どう置くのか。
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ルーカスは、数日かけて、少しずつ進めた。
書ける夜と、書けない夜があった。
ある夜、右手の旋律を、書きかけて、止まった。
耳の奥で、美夏のヴァイオリンの音が、立ち上がりそうになった。高いところで、澄んで、長く伸びていく音。
ルーカスは、そこを、消した。
代わりに、ピアノだけで立てる音を、探した。
ピアノが、ひとりで鳴って、ひとりで消えていける音。それを、白い余白のなかから、ひとつずつ拾うように、書いた。
美夏に届かせるための曲ではなくなっていた。
ただ、美夏を好きだったことも、伝えたあとの、あの痛みも、消さなかった。全部、抱えたまま、曲の奥へ、ゆっくりと沈めた。
あの夜、鴨川で聴いたものは、たぶん、そういうものだった。
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ギムナジウムの、午後の練習室の前の廊下だった。
窓のそばのベンチで、ルーカスは譜面を広げていた。
美夏が、ヴァイオリンケースを肩に掛けて、通りかかった。ケースの横で、薄藤色の房が、わずかに揺れて、止まった。
美夏の視線が、ルーカスの手元の譜面に、ふと落ちた。
「それ、『冬の川』?」
ルーカスは、譜面を、少しだけ閉じた。
「うん」
「進んだ?」
「少し」
「流れそう?」
ルーカスは、すぐには答えなかった。
窓の外で、曇った空が、低く広がっていた。
「まだ」
それから、続けた。
「でも、止まってはいないと思う」
美夏は、それ以上、訊かなかった。
「そっか」
けれど、ちゃんと受け取ったのが、わかった。
ヴァイオリンケースの横で、薄藤色の房が、もう一度、小さく揺れた。
「じゃあ、私、レッスン」
「うん」
美夏は、廊下の先のほうへ歩いていった。
ルーカスは、寄せていた譜面を、もとに戻した。
書きかけの小節が、また、目の前に開いた。
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週末の練習が、いつものように終わったあとだった。
ルイが譜面をまとめ、美夏がヴァイオリンをケースに収めていた。
ルーカスは、ピアノの蓋を閉じる前に、鍵盤の上に、両手を、もう一度置いた。
それから、何の前置きもなく、「冬の川」の断片を、弾き始めた。
ほんの数小節だった。
低いところに置かれた音が、ゆっくりと動いて、また低いところへ沈んでいった。
部屋が、しんとした。
ルイは、ヴィオラを片付ける手を止めて、聴いていた。
美夏も、ケースの蓋に手をかけたまま、動かなかった。
ルーカスが、最後の音から手を離した。
音が、乾いた部屋の壁に当たって、すぐに返ってこずに、消えた。
ルイが、ゆっくりと言った。
「壁に吸い込まれていくような低い音だな」
ルーカスは、少し考えた。
鍵盤のほうを、見たままだった。
「たぶん、上に行かないほうがいい気がして」
「うん」
ルイは、それ以上、言わなかった。
美夏も、黙って聴いていた。
その低さの奥に、何が沈んでいるのかまでは、ルイにはわからなかった。
それでも、伝わってくるものはあった。
ルーカスの音が、いま、低いところを探しているということ。そして、その音が、美夏とルイの音の、外側に、自分の場所を、静かに作り始めているということ。
二人の音とは、別の低いところ。
そこに、ルーカスの川は、静かに場所を持ちはじめていた。
ルイは、ヴィオラを、ケースに収めた。
何も言わなかった。
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十一月の終わりの夜だった。
ルーカスは、机に向かっていた。
スタンドの光の下で、譜面は、もう、最後のページに近づいていた。
ルーカスは、右手の音を、ひとつ置いた。低いところから、わずかに動いて、また沈む音。左手が、その下を、ゆっくり支えた。
最後の小節の、最後の音を、書いた。
鉛筆を、机の上に置いた。
まだ完成ではなかった。
ただ、最後まで流れたという感覚は、あった。
しばらく、譜面を見ていた。
白い余白は、まだ、あちこちに残っていた。書き込まれていない場所が、いくつもあった。
でも、最初に置いた低い一音から、最後の音まで、細く、低く、確かに、流れていた。
ルーカスは、譜面を閉じなかった。
開いたまま、机の上に置いた。
スタンドの光が、五線紙の上に、低く落ちていた。
窓の外で、ウィーンの十一月の夜が、深く沈んでいた。
冬の川は、白い紙の上で、もう、静かに、流れはじめていた。
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十二月に入って、最初の週末だった。
ルイのスタジオに、三人が集まっていた。窓の外は、午後の早い時間から、もう暮れかけていた。空は、低く垂れた灰色で、街の屋根の上に、雪になりきれない冷たさが、重く乗っていた。
ルーカスが、フォルダから、新しい譜面を出した。
まだ綴じていない、ばらばらの紙の束だった。書き込みの跡が、あちこちに残っていた。消した線の上に、また線が引かれていた。
美夏が、それに気づいた。
「できたの?」
ルーカスは、紙を、譜面台に並べながら、答えた。
「最後まで、書いた」
「完成?」
ルーカスは、少し、手を止めた。
「……第一稿」
美夏は、それ以上、訊かなかった。完成、と言い切らないところが、ルーカスらしかった。
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三人は、すぐには弾かなかった。
まず、譜面を見た。
美夏は、自分のパートを、目で追った。
音が、少なかった。長く伸ばす音。短く置く音。消えるように入って、すぐに引いていく音。小節のなかに、空白が、いくつもあった。
「私、あまり弾かないんだね」
ルーカスが、少し、緊張したのがわかった。
「少ないほうがいいと思った」
ルイが、自分の譜面を見たまま、言った。
「少ないけど、難しいな」
美夏も、頷いた。
「音を出すより、待つほうが、難しそう」
譜面の上の空白を、三人とも、同じように見ていた。
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一度、通してみることにした。
ルーカスが、低い音を置いた。ヴィオラが、その上に重なった。ヴァイオリンが、遅れて、細く入った。
音程も、リズムも、大きくは崩れなかった。
けれど、どこか、違った。
ルイのヴィオラが、空白を、埋めるように入りすぎた。美夏のヴァイオリンも、沈黙を待ちきれずに、少し早く、音を置いてしまった。ルーカスのピアノも、止まりそうな場所を、怖がるように、次の音へ、進みすぎた。
川が、流れるというより、急いでいた。
途中で、ルーカスが、手を止めた。
「……ごめん。もう一回」
ヴィオラと、ヴァイオリンも、止まった。
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部屋に、沈黙が落ちた。
誰も、すぐには、口を開かなかった。
ルイが、譜面を見たまま、言った。
「少し、音を繋ぎすぎたかもしれない」
美夏も、小さく頷いた。
「まだ、流れてるっていうより、進もうとしてる感じがする」
ルーカスは、その言葉を、受け取った。
鍵盤の上に置いた手を、一度、ひざに戻した。
「……うん。たぶん、急ぎすぎてる」
誰も、それ以上は言わなかった。
けれど、三人とも、同じものに、近づいていた。
これは、前へ進ませる曲ではなかった。
止まりそうなものが、それでも、底のほうで、流れている曲だった。
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二度目は、三人とも、少し待った。
ルイは、空白を、埋めなかった。ヴィオラの音が消えたあと、次の音までの間を、そのまま、置いておいた。
美夏は、音を置く前に、少しだけ、呼吸を残した。弓を弦に下ろすまでの、わずかな時間を、急がなかった。
ルーカスは、沈黙を、怖がらなかった。止まりそうな場所で、低い音を、ひとつ、静かに置いた。
音と音の間に、冷たい空気が、入った。
その沈黙は、もう、空白ではなかった。川の、一部だった。底のほうを、ゆっくりと流れていく、冷たい水の一部だった。
弾き終わったあと、すぐには、誰も話さなかった。
ルーカスが、小さく言った。
「今の、少し近かった」
美夏が、頷いた。
「うん」
ルイが、ヴィオラを構え直した。
「もう一回やろう」
説明は、しなかった。もう一度弾くことが、答えだった。
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その日の練習が、終わるころだった。
美夏が、譜面を閉じながら、言った。
「ルーカスの曲だね」
ルーカスは、すぐには、返せなかった。
ルイも、譜面を揃えながら、言った。
「うん。これは、ルーカスの音だと思う」
ルーカスは、少しだけ、息を吸った。
「……ありがとうございます」
それだけだった。
けれど、ルーカスは、そのとき、初めて知った。
「冬の川」が、誰かへの想いの、置き場としてではなく、自分の音として、二人に受け取られたということを。
譜面の上にあった冬の川は、まだ、細く、冷たかった。
けれど、三人の音のあいだで、たしかに、流れはじめていた。
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十二月二十三日。
ロンドンは、クリスマスを目前にした灯りで、満ちていた。
駅も、通りも、人が多かった。湿った冷気が、街全体に低く垂れていた。舗道は、昼のうちに降った雨で、まだ濡れていた。店先の灯りが、その濡れた石の上に、長く伸びて映っていた。行き交う人の声、扉の開く音、どこかで鳴っている鈴の音が、重なって、街の表面で華やいでいた。
その華やかさのなかを、ルーカスは、「冬の川」の譜面を持って、歩いていた。
「冬の川」は、もう、練習室のなかでは、流れはじめていた。
けれど、外の、誰かに届くのは、今日が初めてだった。
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会場は、大きすぎないホールだった。
入り口に、クリスマスの飾りがあった。柊の枝と、小さな金色の球。派手すぎない、落ち着いた飾りだった。
控室では、三人とも、静かだった。
美夏は、濃い紺色のドレスを着ていた。胸もとで、ルビーが、小さく光っていた。指先で、一度だけ、その粒に触れてから、弓の毛を、整えた。白い毛を、軽く撫でるように、何度か。
ルイは、譜面を、一度だけ、確認した。最初から最後まで、目で追って、それから、閉じた。
ルーカスは、机の上で、指先を、低いところから低いところへ、静かに動かしていた。その指が、一度、止まった。美夏の、ドレスの藍を、見ていた。それから、また、低いところへ、戻した。
昨日のリハーサルでは、「冬の川」だけ、二度通した。ほかの三曲は、一度ずつだった。
二度目が終わったとき、ルイが、小さく頷いた。それだけだった。
今日は、もう、音を出さなかった。本番まで、それぞれの静けさのなかにいた。
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舞台袖だった。
出番の、少し前。
美夏が、小さく言った。
「流れるといいね」
ルーカスは、頷いた。
「うん」
ルイが、低い声で、言った。
「流そうとしすぎなくていい」
ルーカスは、少しだけ、息を吐いた。
「止まらなければ、それでいい気がします」
ルイは、それ以上、言わなかった。
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「海と光」が、最初に流れた。
ヴィオラと、ヴァイオリン。海と、光。ブルターニュの海の暗さと、ロウアー・スローターの光が、ホールの空気のなかで、ひとつになった。ルーカスのピアノは、その下に、静かに加わった。
バッハが続き、フォーレが続いた。
弾くたびに、拍手が起こった。クリスマスを前にした客席は、温かかった。
そして、最後の曲が、来た。
ルーカスが、鍵盤の前で、一度、両手をひざに置いた。
ホールの拍手が、ゆっくりと引いていった。引いたあとの静けさが、さっきまでの曲とは、少し違う色をしていた。
最初に、低いピアノの音が、置かれた。
秋休みのあと、白い譜面の上に、ルーカスがひとつだけ置いた、あの低い音。動き出していない、水の底のような音。それが、初めて、外へ出た。
ホールの外では、ロンドンが、華やいでいた。クリスマスの灯り。人の声。鈴の音。
けれど、この音は、その華やかさとは、別の場所を流れていた。低い、底のほうを。
美夏のヴァイオリンは、音を置いて、待った。弓を下ろすまでの、わずかな呼吸を、急がなかった。
ルイのヴィオラは、空白を、埋めなかった。音が消えたあとの間を、そのまま、置いておいた。
ルーカスのピアノは、沈黙を、怖がらなかった。止まりそうな場所で、低い音を、ひとつ、静かに置いた。
音と音の間に、冷たい空気が、入った。
「冬の川」は、進もうとは、しなかった。
けれど、止まらなかった。
細く、低く、底のほうを、確かに、流れていった。
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最後の音が、消えた。
すぐには、拍手が、来なかった。
一拍、沈黙が、残った。
聴いていた人たちが、曲が終わったことに、少し遅れて、気づいたようだった。音が消えたあとの静けさも、まだ、曲の一部のように、ホールに残っていた。
それから、拍手が、起こった。
ルーカスは、すぐには、客席を見なかった。
鍵盤の上から、手を、少しだけ引いた。
美夏は、その横顔を、見た。
ルイも、ルーカスを、一度だけ、見た。
三人とも、言葉にはしなかった。
けれど、いま、流れたことを、知っていた。
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終演後だった。
控室へ戻る通路に、夏生が立っていた。壁にもたれて、腕を組んでいた。客席のいちばん後ろで聴いていたのが、もう先に下りてきていた。
三人が近づくと、夏生は、軽く顎を引くようにして、頷いた。
「お疲れ」
それだけだった。けれど、声の温度が、いつもより少しだけ、やわらかかった。
夏生は、隣に立っていた年配の男性を、目で示した。ホールの関係者らしかった。穏やかな目をした人だった。
その男性が、ルーカスに、声をかけた。
「クリスマスの華やかさは、ありませんでしたね」
それから、少し、間を置いて、続けた。
「静かな、聖夜のような曲でした」
ルーカスは、うまく、返せなかった。
「……ありがとうございます」
とだけ、答えた。
その人は、軽く頷いて、夏生と短く言葉を交わしてから、通路の先へ、歩いていった。
ルーカスは、その後ろ姿を、少し、見ていた。
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ロンドンは、まだ、にぎわっていた。クリスマスを前にした人の声が、通りに満ちていた。灯りが、濡れた舗道に、映っていた。その華やかさのなかに、冬の、冷たい空気が、混じっていた。
美夏と、ルイが、少し前を歩いた。
ルーカスは、少し後ろを、歩いた。
その距離を、もう、つらいとは、思わなかった。
さっき、いちばん最初に置いた、あの低い音は、もう、譜面の上だけのものでは、なかった。誰かの耳に届き、会場の沈黙に残り、そして、ロンドンの夜のなかへ、出ていった。
冬の川は、もう、譜面の白い場所には、止まっていなかった。
クリスマスを目前にした、ロンドンの冷たい空気のなかを、低く、静かに、流れていた。




