第33章 冬へ向かう
十月に入って、ウィーンの空気は急に色を変えた。
朝、寮の窓を開けると、入ってくる空気は、もう夏の名残を残していなかった。乾いた、澄んだ涼しさが、頬の高さで止まった。校舎へ向かう石畳の道には、まだ落ち切らない街路樹の葉が、薄く色を変えて、風のたびにわずかに鳴った。
ウィーン音楽ギムナジウムの廊下からは、新学年の最初の慌ただしさが、もう抜けていた。
代わりに、課題、レッスン、面談、進路、定期試験――そういう、それぞれの生徒がそれぞれの場所で抱えているものの気配が、廊下の空気に混じるようになっていた。掲示板の前で立ち止まる生徒の表情も、九月のころとは違っていた。
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美夏は、進路指導の先生との面談を、十月の最初の週に終えた。
二度目の面談だった。
一度目は夏のあいだに済ませていた。そこで、美夏は自分の希望をはっきり伝えた。ルイが卒業した音楽院。願書の締め切り、推薦のこと、課題曲のこと、必要な実技のレベル、面接のこと。先生は資料を一枚ずつめくりながら、淡々と確認していった。
「クリスマスまでに、結構な量があるよ」
「はい」
「練習計画は、ヴァイオリンの先生と相談しながら、毎週見直していこう」
「はい」
「課題曲は、向こうの過去の指定曲も参照してね。傾向がある」
「分かりました」
先生は、それ以上、美夏に念を押すようなことを言わなかった。難関校であることは、もう二人とも分かっていた。そのうえで、美夏の意思は、もう揺らがないことも。
面談室を出て、廊下を歩きながら、美夏は手の中の資料を一度、軽く握り直した。
決めた場所がある、ということは、毎日の中身を変えていくということだった。
朝の練習の時間。
基礎の組み方。
譜面に向かう順番。
休みの取り方。
一週間で身体に入れる音の量。
ひとつずつ、見直していかなければならないことが、見えていた。
ルイの後を追いたい、というのとは少し違った。
ただ、自分が行きたい音の場所を考えたとき、その音楽院の音響と、教師の顔ぶれと、課題曲の傾向は、美夏の中で自然に重なった。
偶然かもしれなかった。
でも、それは、美夏自身が選んでいることだった。
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週末、美夏はルイの借りているスタジオへ向かった。
ドアを開けると、ルーカスはもうピアノの前にいた。ルイは部屋の奥でヴィオラの調弦を終えるところだった。
「お疲れ」
ルーカスが、ピアノの椅子から、軽く首を回した。
ルイは、弦に目を落としたまま頷いた。
譜面台の上には、バッハとフォーレと「海と光」の楽譜が並んでいた。先週と同じだった。「冬の川」の譜面は、ない。
その日も、三人はその三曲を順番に合わせていった。
バッハは、入りのタイミングが、先週よりも自然になっていた。フォーレは、ヴァイオリンとヴィオラの旋律の受け渡しのところで、まだ少し迷う場所があった。けれど、それも次第に消えていった。
「海と光」を通したとき、三人の音は、先月ここで合わせたときと、少し違っていた。
美夏とルイの音のあいだに張られていた薄い膜は、まだそこにあった。
あのとき、はじめて気づいた、その透明な距離が、今日も、変わらずあった。
ルーカスは、もうそれに動じなかった。
膜の外側で、自分のピアノを置く場所を、ルーカスはルーカスで見つけ始めていた。
曲が終わったあと、誰も、何も言わなかった。
ルイは譜面の角を指で軽くなでた。
「次もこの感じで」
その日の練習は閉じた。
「冬の川」の話は、誰もしなかった。
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ルーカスは、寮の自分の部屋で、「冬の川」の譜面を開いていた。
机の上のスタンドだけが点いていた。
譜面の前半部分には、ある程度のかたちがあった。冷たい水の、まだ動き出していない底のような音。表面に薄く張った氷のような音。けれど、その先で、ルーカスはもう数週間、止まっていた。
ペンを取って、置いた。
ルーカスにとって、「冬の川」は、音を増やせば増やすほど、本当の流れから遠ざかる気がしていた。書き加えるたびに、譜面の中の川が、少しずつ濁っていく。
ある夜、ルーカスは図書館で、日本の音楽についての本を見ていた。
借りるつもりはなかった。ただ、書架のあいだを歩いているうちに、手が止まった一冊があった。
ページを開くと、引用されている譜例の音の置き方が、ヨーロッパの譜面とは少し違っていた。音と音のあいだに、書き込まれてはいないけれど、何かが置かれている。空白の使い方が、ルーカスの知っているものと違っていた。
ルーカスは、その本を、二十分ほど立ったまま読んだ。
そのあと、貸出カウンターへ持っていった。
寮に戻って、机の上に本を置いた。それから、ノートを開いた。
ノートの隅に、鉛筆で、一文字、書いた。
「間」
しばらく、その文字を見ていた。
それから、消しゴムで消した。
消したあとも、紙の表面にうっすらと跡が残った。
完全には消えなかった。
ルーカスは、ノートを閉じた。
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十月の半ばを過ぎたころ、美夏とルーカスは、放課後の廊下ですれ違った。
すれ違いざま、ルーカスのほうが先に立ち止まった。
「課題曲、決まった?」
「ぜんぶじゃないけど」
美夏も足を止めた。ヴァイオリンケースを肩に掛けたままだった。ケースの横で、薄藤色の房が、立ち止まったあとも、しばらく小さく揺れていた。
「先生と相談しながら、ひとつずつ」
「大変そうだね」
「うん」
美夏は、少しだけ笑った。
「でも、やるって決めたから」
ルーカスは、頷いた。
言葉は、すぐには出なかった。
美夏の声の中には、迷いの揺れが、もうなかった。それは、ルーカスにも分かった。
「がんばって」
「うん」
「ルーカスは?」
美夏が、少しだけ首を傾けた。
「どこ受ける?」
ルーカスは、ほんの一瞬、目を伏せた。
すぐに上げた。
「まだ、考えてるところ」
「そっか」
それ以上、美夏は訊かなかった。
二人は、軽く頷きあって、別れた。
廊下の窓の外で、街路樹の葉が、もう半分くらい色を変えていた。
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十月の終わりが近づくと、廊下や食堂で、秋休みの予定の話が増えた。
「実家、戻る?」
「うちは、母さんが来るって」
「練習、ぜんぜん終わらないから、たぶん残る」
「友達のとこ、ちょっと行くかも」
そういう声が、いくつも交差していた。
ルーカスは、その輪の少し外側で、譜面を抱えて歩いていた。
誰かに予定を聞かれたとき、ルーカスは短く答えた。
「いつもの、作曲の旅」
ただ、行き先は、まだ誰にも言うつもりはなかった。
美夏にも、ルイさんにも。
言葉にする前に、自分でもう一度、確かめたい場所があった。
ノートの端に、一度書いて消した「間」という文字を、ルーカスはまだ、ときどき思い出していた。
消した跡が完全には消えなかった、あの紙の表面のことも。
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京都に着いたのは、十月の終わりの夕方だった。
ヨーロッパから飛んできた身体に、新幹線の揺れが残ったまま、ルーカスは京都駅の改札を出た。秋の終わりの空気は、ウィーンよりも湿っていた。乾いた高い空ではなく、低く沈んだ雲の下に街があった。広いコンコースを、観光客と地元の人が混じり合いながら、低い声で行き交っていた。
地図は、宿でもらった簡単なものを、ポケットに入れていた。
観光名所をめぐるつもりはなかった。
ただ、街を歩いてみたかった。
地下鉄に乗って、東のほうへ向かった。
降りた駅の名前は、漢字の下に、ローマ字でも書かれていた。ローマ字のほうを読んだ。その音は、どこかで聞いたことがあるような気がした。美夏が、家族と電話で話しているときに、ぽつりと混じっていた響きの中に、似たものがあったかもしれない。
ルーカスは、階段を上った。
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駅を出ると、夕方の光が、街の屋根の高さまで降りていた。
観光客の多い通りを、しばらく歩いた。提灯の下がる店、土産物屋、外国語の混じる声。けれど、ルーカスはそこに長くは留まらなかった。
ふと、人の流れから外れた細い道があった。
観光客のために整えられた道ではなく、街の家と家のあいだに残された、小さな路地のような道だった。看板も、提灯もない。歩く人もほとんどいない。
ルーカスは、そこへ入った。
古い木造の家の壁。煤けた板塀。生垣のあいだから伸びている、もう色を変え始めた葉。湿った石の匂い。どこかの家の換気口から漏れてくる、出汁のような匂い。
歩いているうちに、ルーカスは、自分が観光客ではなくなっていく感じがした。
ただ、街の中に、いた。
しばらく歩いたとき、遠くから、何かの音が聞こえた。
最初は、何の音か分からなかった。
低い、一定の間隔で鳴る音。
太鼓。
ルーカスは、足を止めた。
もう一度、聞いた。
間違いなく、太鼓だった。けれど、ヨーロッパの楽団で叩かれる太鼓とは、響き方が違った。乾いていて、低くて、空気の中にすぐ溶けてしまうような音。
その音のほうへ、歩き出した。
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音は、近づくほどに、輪郭がはっきりしてきた。
太鼓に、笛の音が混じり始めた。
笛は、ヨーロッパの木管のような澄んだ高音ではなかった。もっと、息の混じった、空気そのものに近い音だった。一音ずつが、長く伸びて、その伸びの中で揺れていた。
ルーカスは、知らない音階を聴いている、と思った。
音と音のあいだの距離が、ヨーロッパの音楽とは違っていた。
角をひとつ折れたところで、小さな鳥居が見えた。
古い木の鳥居だった。塗料はもう、ほとんど落ちていた。
その向こうに、低い石段があった。
石段の上に、提灯がいくつか下がっていた。橙色の光が、夕暮れの中で、低く灯っていた。
ルーカスは、その石段の手前で、もう一度立ち止まった。
観光案内に載るような場所ではなかった。神社の名前を示す札も、ローマ字の表記もなかった。地元の人たちが、ただ、いつものように集まっている小さな祭礼のようだった。
子どもが二人、石段の脇で何かを話していた。年配の人たちが、拝殿のほうへゆっくり歩いていく。屋台というほどでもない、小さな台に、湯気の上がる紙コップが並んでいた。
誰も、こちらを見なかった。
ルーカスはそのまま、石段を上がった。
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拝殿の手前まで来ると、音はもう、すぐそこにあった。
太鼓と、笛と、鈴。
鈴の音が加わっていた。
軽い、けれど芯のある音だった。
拝殿の奥に、舞っている人の姿があった。
白い上衣に、朱色の袴。袖の長い装束で、立ち姿は静かだった。手には、いくつもの小さな鈴が房のようにまとまったものを持っていた。
その手の動き、足の運びは、止まっているように見えて、動いていた。一歩、足を踏み出すたびに、木の床から小さな音がした。装束のあいだから、ふっと、衣擦れの音が起きた。鈴は、決まったリズムではなく、舞のある瞬間にだけ、ふっと鳴った。
ルーカスは、人の輪の少し外側に立った。
言葉も、解説も、ない。
ただ、音と動きだけが、そこにあった。
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太鼓の一音が、拝殿の中で鳴った。
ヨーロッパの石の教会で鳴らされた音は、いつも、天井から返ってきた。石の壁が音を抱え、空間全体を響かせて、奏者のところへ戻してきた。返ってくる音だった。
けれど、この古い木の拝殿の中では、太鼓の音は、返ってこなかった。
鳴った瞬間、それは、消えてゆくように感じた。
でも、消えていなかった。
木の柱の中に、床板の下に、組まれた梁のあいだに、音が入っていくのが、ルーカスには見える気がした。吸われている。けれど、その奥で、まだ続いている。
次の太鼓の音が鳴ったとき、消えかけた前の音が、薄く残っていた。
消えながら、残る。
ルーカスは、それを聴いていた。
笛の音も、同じだった。長く伸びた音が、ふっと終わるのではなく、空気の中にゆっくりと沈み込み、その沈みの中で、まだ存在していた。
鈴の音だけが、別の働きをしていた。鈴は、長く残らなかった。短く、明るく、ひと粒ずつ、空気を切るように入ってきた。それは、消えていく音たちの中で、唯一置かれる音だった。
ノートの端に書いて消した、あの「間」という文字のことを、ルーカスは思った。
消えたあとも、紙の表面に跡が残っていた。
ここの音も、同じだった。
消えても、消えきらない。
その残り方が、ヨーロッパの音楽が知っている残り方とは、違っていた。
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神楽は、長くは続かなかった。
舞っていた人が、拝殿の奥のほうへ静かに下がっていった。笛と太鼓と鈴の音が、ゆっくりと止んだ。
人々が、軽い拍手をした。
ルーカスは、少し遅れて、静かに頭を下げた。
近所の人たちが、それぞれ拝殿に向かって、軽く頭を下げた。それから、ゆっくりと帰っていく人もいれば、湯気の上がる紙コップのほうへ向かう人もいた。
ルーカスは、しばらく、石段の上に立っていた。
太鼓の音が、まだ残っていた。
耳の奥というより、もっと、頭の後ろのあたり。それとお腹のあたりにも。普段、ピアノを弾いているときに音が響く場所とは、違うところで、まだ鳴っていた。
石段を、ゆっくりと降りた。
もと来た細い道を、引き返すように歩いた。
日は、ほとんど落ちていた。
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鴨川に出たのは、夜になってからだった。
大きな通りを横切って、石段を下りると、川沿いの遊歩道があった。
川幅は、思っていたよりも広かった。両岸に、低い街灯が点いていた。対岸の建物の窓の明かりが、水面に長く伸びて、揺れていた。
歩いている人がいた。
座っている人もいた。
川辺の段差のところに、等間隔のように離れて、二人組や一人の人影が腰を下ろしていた。学生らしい若い男女、年配の人、犬を連れた人。誰も、大きな声では話していなかった。低い話し声と、笑い声と、それから、川の音。
ルーカスは、川辺の少し離れたところに、腰を下ろした。
膝を抱えて、川のほうを見た。
水の音は、神社のあった場所まで聞こえてはこなかった。けれど、今、こうして川辺に来てみると、街全体が、この水の音の上に置かれていることが分かる気がした。
京都という街は、この川の音を、いつもどこかで聴いている街なのかもしれなかった。
神楽の太鼓の音が、まだ消えていなかった。
頭の後ろのあたりで、まだ鳴っていた。
その上に、川の音が、重なってきた。
不思議だった。
川の音は、太鼓の音を消さなかった。
むしろ、川の音の上に、太鼓の音が乗っているように、聴こえた。
消えきらない音と、ずっと流れている音とが、ルーカスの中で、重なっていた。
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行き交う人々の声が、低く、断続的に聞こえた。
日本語だった。
意味は分からなかった。
けれど、その音の質感が、美夏の声に少し似ていた。電話の向こうで、家族と話しているときの、あの少し低くなる音色に。
ルーカスは、自分が今、誰も知らない場所にいるのに、孤独ではないと感じた。
川の音と、人の声と、神楽の太鼓の残響が、ルーカスの周りにある。
「冬の川」の答えがここにあるかは、わからなかった。
けれど、この街の音と夜の空気の中に、自分の奥の何かが、ゆっくりと沈んでいった。
ウィーンへ戻っても、それは消えない気がした。
消えながら、残る。
あの拝殿の音と、同じように。
水面の上で、対岸の窓の光が、長く揺れていた。
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ウィーンへ戻ったのは、秋休みの最後の日の夕方だった。
空港から寮への道のりは、長い飛行機の疲れの中で、半ば眠っているような時間だった。タクシーの窓の外で、ウィーンの空はもう冬の色に近かった。京都の低く沈んだ雲とは違って、高く乾いた灰色の空が広がっていた。
寮の部屋に入って、荷物を下ろした。
机の上には、出発前と同じように、「冬の川」の五線紙が置かれたままだった。
ルーカスは、それをすぐには開かなかった。
ただ、その上に手をかざして、しばらく動かなかった。
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戻った翌日、廊下で美夏とすれ違った。
「秋休み、どうだった?」
「うん、よかった」
「ルーカスは?」
「いつも通り」
それだけだった。
美夏は、それ以上は訊かなかった。
誰にも、京都のことは話さなかった。
神楽のことも、鴨川のことも、口にしなかった。
言葉にすると、何かが薄れる気がした。
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その日の夜、ルーカスは寮の部屋で、机に向かった。
スタンドを点けた。
「冬の川」の譜面を、開いた。
前半部分には、出発前と同じかたちがあった。冷たい水の、まだ動き出していない底のような音。表面に薄く張った氷のような音。
その先の、白いままの部分。
以前は、その白さが、ただの壁のように見えていた。書けない場所として、そこに立ちはだかっていた。
今は、違った。
白さは、まだ白いままだった。
けれど、その白さの奥に、何かの気配があった。
拝殿の木の柱の中に音が入っていったのと、同じように。鴨川の水の流れの中に何かが沈んでいったのと、同じように。書かれていないけれど、そこにある。
ルーカスは、鉛筆を取った。
五線紙の、白いままの部分の中ほどに、鉛筆の先を置いた。
しばらく、止まっていた。
それから、ひとつだけ、低い位置に、音を置いた。
四分音符。
太鼓の最初の一音を思わせる、低い音。
書いたあと、ルーカスは、鉛筆を置いた。
もう、書き続けなかった。
その一音の周りには、まだ白い余白があった。
けれど、その余白は、もう、ただの空白ではなかった。
最初の一音が置かれたことで、これから流れてくるものの場所が、薄く見える気がした。
ルーカスは、譜面を閉じなかった。
開いたまま、机の上に置いた。
部屋の灯りを消して、ベッドに入った。
暗闇の中で、机の上の譜面のことを、思った。
白い余白の中に、たったひとつ、置かれた音。
それは、まだ流れていない。
けれど、流れる前の、最初の音だった。




