第32章 音の居場所
新学年が始まって、一週間が過ぎていた。
ウィーン音楽ギムナジウムの廊下に貼られた新しい時間割の端は、何人もの指に触れられて、わずかに浮きはじめていた。
美夏は、午後の授業を終えて、寮の自分の部屋に戻っていた。
机の上に、ヴァイオリンケースを置いた。
ケースのポケットの、薄藤色の房を、そっと撫でた。
美夏は、椅子に座った。
スマートフォンを手に取り、しばらく画面を見ていた。
画面の上で、指が一度、宙に止まった。それから、ゆっくりと文字を入れた。
「今日、少し会える?」
送る前に、もう一度読んだ。
送った。
返事は、思ったより早かった。
「会える。どこへ行けばいい?」
美夏は、もう一度、画面の上で指を止めた。
学校の近くではないほうがいい気がした。
「るいとの楽団のところの、運河沿い」
短く送った。
「分かった。練習、五時に終わる」
ルイからの返事も、短かった。
美夏は画面を閉じた。
窓の外で、九月の光が、寮の中庭の石畳に、まだ高く落ちていた。夏の終わりの光だった。けれど、空の色のいちばん高いところには、もう、秋の青が少しだけ混じっていた。
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ルイは、運河沿いの遊歩道に立っていた。
楽団の建物を出て、橋を一つ渡ったあたりだった。観光客の姿は、ここまで来ると、もう少なかった。低い柵の向こうで、運河の水が、夕方の光を低く返していた。
美夏が歩いてくるのが、見えた。
ヴァイオリンケースを肩に掛けていた。ケースの横で、薄藤色の房が、歩くたびにわずかに揺れていた。
ルイは、軽く手を上げた。
美夏は、ルイのそばまで歩いてきて、足を止めた。
「来てくれて、ありがとう」
「うん」
ルイは、それだけ言った。
二人は、どちらからともなく、運河の下流のほうへ歩き始めた。
石畳の上の足音が、低く続いた。
九月の夕方の風には、夏の熱がまだ少しだけ残っていた。けれど、運河の水のほうから上がってくる空気は、少しひんやりしてきていた。
しばらく、二人は何も話さなかった。
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遊歩道のなかほどに、低いベンチがひとつあった。
水面のほうへ向いていた。
美夏は、そこに腰を下ろした。
ヴァイオリンケースを、足元にそっと立てかけた。
ルイも、隣に座った。
運河の水が、橋のあたりで、低く音を立てていた。
美夏は、水面のほうへ視線を落としていた。
膝の上で、片手の指を、もう一方の手で軽く包んでいた。
「……黙ってて、ごめん」
声は、大きくなかった。
ルイは、すぐには返事をしなかった。
運河のほうを見たまま、ひとつ、息を吐いた。
「うん」
短かった。
何のことか、聞き返さなかった。
美夏は、もう一度、口を開いた。
「ロウアー・スローターに行く前」
「学校で、ルーカスから……」
言葉を、一度切った。
「気持ちを伝えられたの」
膝の上の指が、わずかに動いた。
「ちゃんと、返事はした」
「……でも、そのことを、るいとには言わないまま、行った」
水の音が、運河の下のほうから、低く上がってきていた。
「三人で『海と光』を弾いたあとも、言えなかった」
美夏は、水面のほうを見たまま、息を整えた。
「橋でも、言えなかった」
ルイは、何も言わずに聞いていた。
「ずっと、言わないといけないと思ってた」
声が、少しだけ低くなった。
「でも、いつ言えばいいのか、わからなくて」
言ってから、美夏は、もう一度、唇を閉じた。
運河のほうで、水が、低い段差を流れる音がした。
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ルイは、しばらく、運河のほうを見ていた。
それから、低く言った。
「みーちゃん」
「うん」
「言わなかったのは、僕も同じだと思う」
美夏が、ルイのほうへ顔を向けた。
ルイは、運河のほうを見たままだった。
「あの日、スマホを、ロビーに置き忘れた」
「取りに戻ったとき」
「廊下の角で、少しだけ、聞こえてしまった」
美夏は、息を止めた。
「全部じゃない」
ルイは、続けた。
「終わりのほうだけ」
水の音が、続いていた。
「みーちゃんが、『ごめん』って言ってて」
「ルーカスが、『ちゃんと言ってくれてありがとう』って」
ルイは、一度、唇を結んだ。
「それで、その場に戻れなかった」
「二人が立ち去ってから、スマホを取りに戻った」
美夏は、ベンチの座面のあたりに、片手をそっと置いた。
知らなかった。
知らないまま、ロウアー・スローターへ行っていた。
「……るいとも」
声が、少し震えた。
「うん」
「知ってたの」
「うん」
ルイは、ようやく、美夏のほうを見た。
「言えなかった」
「みーちゃんが、自分で話そうとしているのが、わかったから」
美夏は、目を伏せた。
膝の上の指に、もう片方の手を、もう一度重ねた。
「……そっか」
声は、小さかった。
水の音だけが、しばらく続いた。
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風が、運河のほうから、低く上がってきた。
ルイは、運河のほうへ視線を戻した。
「ロウアー・スローターで」
「夏生も、少し気づいてた」
美夏が、顔を上げた。
「にぃに……?」
「うん」
「あの夜、酒を飲みながら、軽く訊かれた」
「ルーカスが、諦めたのかな、って」
美夏は、膝の上の手を、ゆっくり開いた。
それから、また閉じた。
「……みんな、少しずつ、感じてたんだね」
「うん」
「誰も、踏み込まなかっただけで」
ルイは、頷いた。
美夏は、もう一度、運河のほうを見た。
知らないあいだに、自分の周りには、自分が思っていたよりも多くのものが、静かに置かれていたらしかった。
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しばらく、二人は何も言わなかった。
運河の水面のほうで、低い光が、ゆっくりと色を変えていた。
美夏は、いちばん話したかったことを、言葉にしようとしていた。
「これからも」
「ルーカスとは、弾くと思う」
「三人でも、弾くと思う」
ルイは、頷いた。
「うん」
「でも」
美夏は、水面のほうへ視線を落としたまま、続けた。
「……このままで、いいのかなって」
声が、少しだけ細くなった。
「何もなかったみたいに、振る舞うのは違う気がする」
「でも、必要以上に変えようとするのも、たぶん、違う」
「るいとと、私が、こうなったことを」
言葉を、一度切った。
「どう、ルーカスのところに、置けばいいのか、わからなくて」
風が、もう一度、低く上がってきた。
ルイは、すぐには返事をしなかった。
しばらく、水面のほうへ視線を落としていた。
それから、低く言った。
「……正解は、ないと思う」
美夏は、ルイのほうを見た。
「確かに、みーちゃんの言う通りかもしれない」
ルイは、一度、唇を結んだ。
「でも、ルーカスは」
「音から、逃げてない」
声は、低かった。
強くはなかった。
ただ、運河の空気の中に、ちゃんと置かれた。
美夏は、その言葉を、頭の中で繰り返した。
それから、ゆっくり、頷いた。
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日が、運河の向こう側の建物の屋根の高さまで、降りてきていた。
光は、まだ消えてはいなかった。
水面のほうで、低い段差を越えていく音が、続いていた。
美夏は、ベンチの座面のあたりに置いていた手を、自分の膝のほうへ戻した。
「ありがとう」
「うん」
「聞いてくれて」
「……黙っていて、ごめんね」
「みーちゃんが、ごめんって言うことじゃない」
ルイは、運河のほうを見たまま、続けた。
「僕も、同じだったから」
美夏は、頷いた。
膝の上の指のあたりが、さっきよりも、少しだけ、ほどけていた。
まだ、すべてが片付いたわけではなかった。
ただ、これまで、自分一人で抱えていたものが、今、隣に、もう一人ぶんの場所を持ったのが、わかった。
美夏の中で、アイ川の音が、続いていた。
流れの向こうのほうに、まだ見えてはいないけれど、これから進んでいく季節が、低く、ひそかに置かれていた。
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ルイの借りているスタジオは、ウィーンの旧市街から少し外れた古い建物の三階にあった。学校の練習室より少し広く、グランドではない、けれどよく手入れされたピアノが壁際に置かれていた。窓は南西を向いていて、午後の遅い光が、ピアノの蓋の上に長く落ちる時間がある、乾いた響きの部屋だった。教会のような石の余韻も、川のそばの湿り気もない。三人の音だけが、壁に当たって返ってくる場所だった。
数日後の午後、三人はそのスタジオで練習をすることになっていた。
ルーカスは、ピアノの前に座っていた。譜面台に、いくつかの楽譜を順番に並べていた。バッハ。フォーレ。「海と光」の三人版。
ドアが開いて、美夏が入ってきた。
「お待たせ」
ルーカスは顔を上げて、軽く微笑んだ。
ルイは、部屋の隅でヴィオラを取り出していた。
「みーちゃん、調弦、先にやって」
「うん」
美夏は、ピアノの脇のスペースにヴァイオリンケースを置いた。ケースを横にしたとき、ファスナーのところの薄藤色の房が、軽く揺れて、止まった。
ルーカスは、その動きを視界の端で見た。
けれど、視線はすぐに譜面台へ戻した。
ピアノの椅子の上で、両手を一度、軽く膝に置いた。
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最初は、バッハだった。
「『主よ、人の望みの喜びよ』、ピアノから入っていいですか」
「うん」
ルーカスは、最初の三和音を、静かに置いた。
美夏が入った。ルイが入った。
短いフレーズが終わったところで、ルーカスが手を止めた。
「もう少しテンポを揺らさないほうがいいね」
音楽の話になると、ルーカスはいつも少し早口になった。
美夏が、口をとがらせた。
「ピアノが先に走ってるかも」
「いや」
ルーカスは譜面のほうを見たまま、首を傾けた。
「揺れてるのは、僕じゃない」
ルイが、低く笑った。
「指摘、容赦ないね」
ルーカスは少し肩をすくめて小さく笑った。けれど、目はすぐに譜面に戻った。
美夏は、ルイのほうへ目を向けた。
ルイは、笑ったまま、ヴィオラを構え直した。
「もう一度、最初から」
「うん」
二回目の入りは、最初よりも揃った。
ルーカスの三和音の上に、美夏のヴァイオリンが乗り、ルイのヴィオラが内側を埋めた。
三人は、音楽の場所へ、ちゃんと戻っていた。
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フォーレの「シシリエンヌ」では、旋律の受け渡しを何度か繰り返した。
たまに、ルーカスは譜面に小さなしるしを書き込んだ。鉛筆の音が、少しだけ部屋に残った。
美夏は、肩の力が抜けたような、自然な音を出していた。
ルイも、いつもの距離で美夏に音を返した。
ルーカスは、その二人を、譜面の上から目を上げて、ときどき見た。
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最後に、「海と光」を合わせた。
「通してみようか」
ルイが言って、美夏が頷いた。
ルーカスは、ピアノの椅子の高さを、わずかに直した。
最初の小節は、ヴィオラから入った。
低く、海の底のほうから。
美夏のヴァイオリンが、その上に乗った。
光が、海の表面に落ちる、あの入り方だった。
ルーカスのピアノは、まだ始まらない。最初は、二人の音だけが、部屋の空気のなかに置かれていた。
三小節目のあたりで、美夏の音が、わずかに引き伸ばされた。
次のフレーズへ入る前の、ほんの少しの間。
ルイのヴィオラが、その間を、待った。
待ち方が、前とは違った。
ロウアー・スローターの教会で初めて「海と光」を聴いたとき、美夏とルイの音は、触れそうで触れない場所を、いつも探っていた。触れる手前で、お互いの距離をちゃんと残していた。
今は、違った。
二つの音は、触れる寸前まで近づいていた。それなのに、触れなかった。
触れる手前に、薄い膜のようなものがあって、二つの音は、その膜を挟んで、決して離れなかった。
触れないまま、離れない。
ルーカスは、ピアノの最初の音を置いた。
二人の音のあいだに、自分の音を差し入れたとき、いつもなら、その膜は揺らいだ。三人の音が混ざる場所ができた。
今日は、揺らがなかった。
二人の音は、ルーカスの音を受け入れながらも、自分たちの距離を変えなかった。
ルーカスは、ただ音を受け取った。
二人の音は、前より深いのに澄んでいた。
ピアノを弾き続けた。
曲は、最後まで、止まらずに通った。
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曲が終わったあと、しばらく、誰も話さなかった。
ヴィオラの最後の音が部屋に溶けて、消えるまで、三人とも動かなかった。
ルーカスは、鍵盤の上に置いていた両手を、ゆっくりと膝へ下ろした。
譜面のほうを見たまま、低く言った。
「前より」
「二人の音が、離れなくなりましたね」
美夏は、弓を持つ手を止めた。
ルイも、ヴィオラを抱えたまま、すぐには返さなかった。
ルーカスは、二人を見ていなかった。
譜面の、最後の小節のあたりを、見ていた。
それから、軽く息を吐いて、譜面を冒頭のページへ戻した。
それは、とても自然な動きに見えた。
「もう一回、いきますか」
「……うん」
美夏が、頷いた。
ルイも、頷いた。
ルーカスは、それ以上、何も言わなかった。
三人は、もう一度、「海と光」の冒頭から弾き始めた。
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練習が終わったのは、外がもう薄暗くなってからだった。
美夏は、ヴァイオリンを丁寧にケースに収めた。
ルイは、譜面を順番にまとめていた。
ルーカスは、ピアノの蓋を閉じる前に、譜面台の楽譜を一枚ずつ、自分のフォルダに戻していた。片付ける手が、少しだけ遅かった。
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
「また次」
いつもと同じやりとりだった。
美夏とルイは、先に部屋を出た。
ルーカスは、最後に部屋の鍵を閉めて、廊下のほうへ歩き出した。
階段を降りて、建物の外へ出ると、空気はいつの間にか秋のものになっていた。
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寮の部屋に戻っても、ルーカスの耳には、まださっきの音が残っていた。
美夏のヴァイオリンと、ルイのヴィオラ。
二人のあいだに張られていた、薄い膜のようなもの。
前より近づいた、という言葉では足りなかった。
近づいたのではなく、離れなくなったのだ。ルーカスは、そう思った。
心が戻る場所は、もうない。
でも、不思議と、音の居場所は消えていなかった。
机の上には、まだ白い部分の多い五線紙があった。
「冬の川」。
ルーカスは椅子に座り、鉛筆を手に取った。
これまで書いた数小節を、もう一度、目で追った。
最初の数音は、まだ動き出していない水のような音だった。
止まっているように見えて、底のほうでは、かすかに流れている。
ルーカスは、その先の小節のところで、鉛筆を止めた。
譜面の白い部分のなかに、まだ書かれていない一音が、ひそかに、置かれている気がした。
部屋の窓の外で、ウィーンの秋の夜が、静かに始まっていた。




