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第31章 薄藤色の房

どれくらい、そうしていただろう。


 重なった手のなかで、ルイの指が、わずかに動いた。


「そろそろ、戻ろうか」


 声は、川の音の上に、低く置かれた。


「うん」


 美夏(みなつ)は、重ねた手を、まだ動かさなかった。


 ルイは、川のほうへ視線を一度落とした。それから、また美夏のほうへ戻した。


「今夜のことは……ご家族には、いつか、ちゃんと話さないといけないと思ってる」


 声は、慎重だった。


 川の音が、橋の下を流れていった。

 美夏は、すぐには返事をしなかった。


「るいと」


 顔をルイのほうへ向けた。


「今は、まだ、言わないで」


 ルイは、美夏のほうを見ていた。


「家族には、進路が決まった後、私から話したい」


 ひとつ、息を整えた。


「このあいだ、面談があって」


「うん」


「いくつか、推薦された」

「その中に、るいとがいた学校もあった」


 ルイは、ゆっくり頷いた。


「そこ、目指したいと思ってる」


 重ねた手のなかで、美夏の指先に、わずかに力が入った。


「るいとがいたから、だけじゃなくて」


 川の音が、続いていた。


「私の音のために」


 ルイは、何も言わずに聞いていた。


「ただ……るいとがいた場所に、私も立ちたい気持ちが大きいのも、ほんと」


 声は、最後で少しだけ低くなった。


 ルイは、すぐには答えなかった。

 川の音と、風の音だけが、二人のあいだにあった。


 しばらくして、ルイは、ひとつ、息を吐いた。


「待つ」


 短かった。


「みーちゃんが、自分で決めたんだ」


 美夏は、ルイの顔を見た。

 ルイも、美夏の顔を見ていた。


「うん」


 ルイの手が、美夏の手から、そっと離れた。


 手のひらに、夜の空気が触れた。


 川の音が、続いていた。


-----


 風が、もう一度、川のほうから上がってきた。

 美夏は、肩のあたりを、わずかにすくめた。

 小さなくしゃみが、ひとつ出た。


 ルイは、川の音から顔を上げた。


「冷えてきたね」


 言いながら、自分の薄いカーディガンを脱いだ。


 美夏のほうへ、肩にかけるように差し出した。


「これ」


「……うん」


 肩に、軽い布がかかった。

 ふたまわりほど、大きかった。


 美夏は、襟元を片手で押さえた。

 押さえた指の下で、布が、少しだけ温かかった。


 風がもう一度通った。


 ふっと、知っている香りがした。


 いつもの、るいとの香りだった。


 四歳のころ。

 教会の練習が終わって、るいとの腕にもたれて眠ってしまったとき。

 六歳の冬、るいとのコートに首まで埋めて笑ったとき。


 あのころと、変わらない香りだった。


 美夏は、襟元を押さえた指を、ほんの少しだけ強くした。


 ルイは、川のほうを見ていた。

 何も言わなかった。


 美夏は、ルイの横顔を、一度だけ見た。


「……戻ろうか」


 今度は、美夏のほうから言った。


「うん」


 二人は、橋を離れた。

 石畳の上を、足音が低く続いた。

 美夏の肩で、ルイのカーディガンが、歩くたびに少し揺れた。


-----


 家の門のところで、二人は足を止めた。


 窓に明かりがついていた。

 リビングのほうから、テレビの低い音が漏れていた。


 美夏は、手のなかのチャームを、スカートのポケットに、そっとしのばせた。

 指先で、布地ごしに、房のかたちを一度だけ確かめた。


 ルイが、玄関のドアを開けた。


「ただいま」


 美夏が、玄関で言った。


 返事は、少し上のほうから返ってきた。


「おかえり」


 理沙だった。

 二階に上がる階段の途中に、マグカップを乗せた小さなトレイを持って立っていた。

 書斎のほうへ、コーヒーを運ぶ途中らしかった。


 階段を、二段だけ降りた。


 視線が、美夏の肩のあたりで、ほんの一瞬、ふわりと止まった。


「冷えたの?」


「うん。少し」

「川のほう、思ったより冷えてて」


 美夏は、肩のカーディガンに軽く触れた。

 脱いで、軽く畳んだ。

 ルイのほうへ差し出した。


「ありがとう」


「うん」


 ルイは、それを受け取った。

 腕にかけた。


 理沙は、トレイの上のマグカップを、片手で軽く支え直した。


「川のところ、夜は冷えるものねえ」


「ええ」


 ルイが、低く相槌を打った。


 理沙は、ルイのほうを見て、それから美夏のほうを見た。


「ルイくん、夏生(なつき)が待ってるわよ」


「あ……はい」


 理沙は、トレイを少し持ち直して、また階段を上がっていった。

 二階の廊下のほうで、書斎のドアが開く音が、かすかにした。


 美夏は、玄関のところで、ひと呼吸置いた。


「私、お風呂入って、もう寝るね」


「うん」


 ルイが、頷いた。


「ゆっくり」


 美夏は、軽く頷き返した。

 ルイの顔を、一度だけ見た。

 目が合った時間は、長くなかった。


「……おやすみ」


「うん。おやすみ」


 美夏は、階段のほうへ向かった。

 二階へ上がる足音が、廊下のほうへ遠くなっていった。


-----


 リビングのドアが、半分開いていた。

 夏生は、ソファの端で、低いテーブルの上にグラスを二つ置いていた。

 琥珀色の液体が、グラスのなかで、わずかに揺れていた。


「ちょうど、もう一杯やろうかと思ってたとこ」


 夏生は、こちらを見ずに言った。


「はるくんから、いいやつもらったんだ」


 ルイは、軽く頷いて、夏生の向かい側に腰を下ろした。

 受け取ったグラスのなかで、氷が、ひとつ、低く鳴った。


 ひと口、含んだ。

 舌の奥に、温かい甘さがゆっくり広がった。


 夏生は、片手でグラスを揺らしながら、テレビの音を少し下げた。


「川、行ってきたんだろ」


「ああ」


「みーちゃん、あの川好きだもんな。子どものころから」


 ルイは、グラスを少しだけ持ち上げた。

 返事のかわりに、ひとつ頷いた。


 夏生は、グラスをテーブルに置いた。

 肩を背もたれに預けて、天井のほうを見た。


「そういえば」


 声の調子は、変わらなかった。


「ルーカスのこと、なんだけどさ」


 ルイは、自分のグラスのふちに、視線を落とした。


「うん」


「あいつ、ここに来てた間、なんか、落ち着いてたよな」


 琥珀色の液体のなかで、氷が、ゆっくり傾いた。


「みーちゃんに対して」


 夏生は、天井を見たままだった。


 ルイは、ひと呼吸置いた。


「……そうかな」


「うーん、まあ、俺の見間違いかもしれないけど」


 夏生は、首を傾けて、こちらを見た。


「あいつ、諦めたのかなあ」


 声は、軽かった。

 軽いまま、まっすぐ置かれていた。


 ルイの胸の奥で、小さく何かが詰まった。

 息は、いつもどおりに吐いた。

 グラスを、テーブルに戻した。


「さあ……」


 声は、自分でも思ったより、落ち着いていた。


「そういうのは、本人にしか、分からないと思うよ」


「だよなあ」


 夏生は、肩を軽く揺すって、また天井のほうを見た。


「べつに、訊くことじゃないか」


 ルイは、グラスのなかの氷を、もう一度見た。


 夏生の目は、ルーカスのほうへ向いている。


 いまは、まだ知られないようにしないと。

 美夏が自分で話すまでは。


 ちゃんと話すと決めた、その想いを、無駄にしてはいけなかった。


 ルイは、グラスを、もう一度持ち上げた。

 飲みかけの琥珀色を、ゆっくり舌の奥に流した。


-----



 お風呂を出て、自分の部屋に戻ったのは、もう十一時近かった。


 デスクライトをつけた。

 部屋の明かりは、それだけにした。


 ヴァイオリンケースを、机の上に置いた。

 黒い樹脂の表面が、デスクライトの光を、低く返した。


 お風呂の前に置いた、るいとのチャームが、その横にあった。


 手のひらに乗せた。


 藍色の布地に、銀色の糸で小さな花が織り込まれている。

 布地の下に、薄藤色の房が、長く垂れていた。


 絹糸が、ひんやりして、すぐに温かくなった。


 しばらく、それを見ていた。


 京都で見つけたと、るいとは言っていた。

 一度、戻した、と。

 でも、戻せなかった、と。


 るいとの中に、もう、あったんだろうか。


 心臓が、少しだけ強く鳴った。


 あったんだ、と思った。


 これを選ぶ手のなかに、もう、あった。


 息が、少し止まった。


 ひとりで抱えてきたものだと思っていた。

 届かないかもしれないと思っていた。


 でも、ちがった。


 るいとも、ずっと前から、こちらを見ていたのだった。


 布地と房を、もう一度、両手で受けるように持ち直した。


 驚きが、ゆっくりと、別のものに変わっていった。

 きちんとした言葉にはならなかった。

 ただ、胸のなかで、何かが、温かく広がっていった。


 ヴァイオリンケースのポケットのファスナーに、チャームを通した。


 藍色の布地が、ケースの黒い表面のそばに、静かに収まった。

 房が、わずかに揺れて、止まった。


 進路のこと。

 家族に話す日のこと。

 るいととの、これからのこと。

 そして、ルーカスとの、これからの音のこと。


 考えなければいけないことが、また、あちこちに散らばっていた。


 デスクライトを消す前に、もう一度、薄藤色の房に触れた。


 絹糸のしなやかな感触が、指先に残った。


-----


 七月の最後の日になった。


 朝の光が、庭の石垣のところに、まだやわらかく落ちていた。蝉の声は、ロウアー・スローターでは聞こえない。代わりに、川の音がいつもと同じように、家のどこかで低く続いていた。


 朝食は、いつも通りに済んだ。


 食後のコーヒーの時間になって、家族はリビングに移っていた。陽翔(はると)は窓辺の椅子で本を開いていた。理沙はソファの端で、ノートPCを膝に置いて、画面の上を指でゆっくり動かしていた。原稿の途中らしかった。夏生はテーブルでタブレットを見ていた。


 ルイは、コーヒーカップに手を添えたまま、しばらく画面のメッセージを見ていた。それから、低く言った。


「夏生」


「ん」


「悪い。明日、ウィーンに戻ろうと思う」


 夏生が、タブレットから顔を上げた。


「楽団?」


「うん。ミーティングが入った。来週からのリハの段取りで」


「了解」


 夏生は、特に驚いた様子もなく、軽く頷いた。


 ルイは、コーヒーをひと口含んだ。


 理沙が、PCから視線を上げた。


「ルイくん、もう少しゆっくりしていけばいいのに」


「すみません」


「いいのよ。仕事ですものね」


 美夏は、コーヒーカップを両手で持ったまま、しばらく聞いていた。


 それから、口を開いた。


「私も、戻る」


 家族が、それぞれのほうから美夏のほうを見た。


「明日?」


 夏生が聞いた。


「うん。一緒に」


 夏生は、少し首を傾けた。


「夏休み、まだあるだろ」


「分かってる」


 美夏は、コーヒーカップを、テーブルに置いた。


「面談で、推薦されたところがあって」


 声は、低くなかった。

 ちゃんと、家族のほうへ届いていた。


「その中に、目指したいって思ったところが、ひとつあって」


「うん」


「夏休みのうちに、過去問とか、課題曲とか、ちゃんと見ておきたいの」


「ふうん」


 夏生は、頷いた。


「ウィーンの寮、もう開いてるのか」


「明日から、戻れる」


「そうか」


「うん」


 理沙が、PCの画面を閉じた。


「みーちゃん、その学校って」


「いくつか、候補があるんだけど」


 美夏は、少し言葉を選んだ。


「いちばん行きたいって思ったところは、るいとが出たところ」


 言ってから、美夏は、コーヒーカップのほうへ視線を落とした。

 でも、声は、震えなかった。


 ルイは、自分のカップに視線を落としたまま、何も言わなかった。


 夏生が、軽くこちらを見た。


「お前、それルイにも勧められたか?」


「そうじゃないよ。自分で決めた」


 美夏は、夏生のほうを、まっすぐ見た。


 夏生は、軽く頷いた。


「そうか」


 ルイは、ようやく顔を上げた。


「過去問なら、後輩にもらえると思う」


 声は、いつもの調子だった。


「課題曲も、知り合いに聞けば、年度ごとに何かは残ってるはずだよ」


「……ありがとう」


「うん」


 ルイは、それだけ言った。

 目は、長くは合わせなかった。


 理沙は、PCをまた開いた。


「そう」


 穏やかな声だった。


「みーちゃんが行きたいなら、頑張りなさい」


「うん」


 陽翔は、本のページを閉じた。


「明日、何時の便」


「午後の便にしようかと」


 ルイが答えた。


「分かった」


 陽翔は、短く頷いて、また本を開いた。


 窓のほうで、夏の朝の光が、庭の奥のほうへゆっくり広がっていった。


-----


 翌朝も、よく晴れていた。


 朝食を済ませてから、美夏は二階に上がって、荷物の最終確認をしていた。


 階段を降りるときに、ヴァイオリンケースを左手に提げた。


 リビングのソファのところで、夏生が、テーブルの上に広げていた書類を、ファイルにまとめていた。


 美夏が降りてくる音で、夏生は顔を上げた。


「お、降りてきたか」


 それから、夏生の視線が、美夏の左手のあたりで、止まった。


「ん」


 ヴァイオリンケースのポケットのファスナーのところで、薄藤色の房が、わずかに揺れていた。


「新しいの、つけたのか」


 軽い声だった。


 美夏は、ケースを少しだけ持ち上げた。


「るいとに、もらったの」


「ルイのやつ、やっぱり持ってきてたんじゃないか」


 夏生が、軽く笑った。


「忘れたって言ってたのに」


「うん……」


 キッチンの入り口のところに、理沙が立っていた。


「あら、可愛いわね」


 手にマグカップを持ったまま、こちらのほうを見ていた。


 ちょうど、そのときだった。


 美夏の視線が、ほんの一瞬、リビングの奥のルイのほうへ流れた。

 ルイも、ちょうど、リュックを背負い直しながら、美夏のほうを見ていた。


 目が合った時間は、長くなかった。

 すぐに、二人とも、別のほうへ視線を戻した。


 理沙は、マグカップの縁に口をつけたまま、ほんの少しだけ動きを止めた。

 コーヒーは、まだ少し温かかった。


 見送りは、いつもと変わらなかった。

 陽翔は、書斎から降りてきて、短く声をかけた。

 理沙は、忘れ物のことだけ訊いた。

 夏生は、ソファのほうから手を上げた。


 玄関を出るとき、美夏は、ケースを肩に掛け直した。

 薄藤色の房が、また、わずかに揺れた。


-----


 ヒースローを離陸したのは、夕方の早い時間だった。


 窓の外で、雲のうえに低く、夕方の光が広がっていた。

 雲は、白というより、橙色を含んだ薄い色をしていた。


 機内食のトレイが下げられたあと、美夏は、シートを少しだけ倒した。


 ルイが、本のページに視線を戻したとき、隣で、小さな寝息が聞こえた。


 美夏は、シートに頭を預けたまま、もう眠っていた。


 ルイは、本を膝の上に置いた。


 手を伸ばして、座席のうえの棚から、薄いブランケットを取り出した。

 広げる音が、立たないように、ゆっくりほどいた。


 美夏の肩のあたりに、そっとかけた。


 美夏の頬のところに、髪が一筋、かかっていた。


 ルイは、指先でその髪を、頬の縁から、耳のうしろのほうへ、そっと払った。


 触れたか、触れないかくらいの動きだった。


 美夏は、目を開けなかった。


 ルイは、しばらく、その寝顔を見ていた。


 窓の外では、夕方の光が、もう橙色から、深い藍色に変わりかけていた。

 雲のうえに、ぽつりと、最初の星が出ていた。


-----


 九月になった。


 ウィーンの音楽ギムナジウムは、夏の休暇から戻った生徒たちで、いつもより少し騒がしかった。


 メインロビーの吹き抜けには、午前の光が高く落ちていた。新しい時間割の貼り紙の前で、何人かの生徒が立ち止まっていた。ドイツ語と英語が、近くと遠くで混じっていた。


 ルーカスは、譜面のファイルを片手に、ロビーを横切ろうとしていた。


 吹き抜けの真ん中あたりで、足を止めた。


 反対側のホールから、美夏が歩いてきていた。

 ヴァイオリンケースを、左手に提げていた。

 次の授業の教室のほうへ向かっているらしかった。


 美夏は、まだルーカスに気づいていなかった。


 ルーカスの目が、ケースの横で、止まった。


 ケースのポケットのファスナーのところで、藍色の布地に銀色の小さな花が織り込まれた、小さなチャームが揺れていた。

 その下に、薄藤色の房が、長く垂れていた。


 美夏が歩くたびに、房は、わずかに揺れて、また戻った。


 あ。ルーカスの中で、何かが繋がった気がした。


 このチャーム、雰囲気が似てる。

 夏の初めごろ、この校舎の廊下で、美夏の譜面のあいだから、ふっと見えた、あの栞に。

 淡い藍色と、薄紫の、あじさい。


 もしかしたら――。


 そこで、思考は止まった。

 それ以上、進めなかった。


 ルーカスは、すぐには動かなかった。


 美夏が、近くまで来た。

 ルーカスに気づくと、軽く目元をやわらげた。


「ルーカス、久しぶり」


「うん、久しぶりだね」


 ルーカスは、もう一度、ケースの横へ目をやった。

 薄藤色の房は、美夏が立ち止まったので、もう、ほとんど揺れていなかった。


「最終学年、始まったな」


「お互い、頑張ろうね」


 美夏は、少しだけ笑った。


 ルーカスは、ケースの横の薄藤色の房を、もう一度だけ見た。

 それから、譜面のファイルを抱え直した。


「じゃあ、また」


「うん」


 二人は、それぞれの教室のほうへ歩き出した。


 吹き抜けの光は、変わらず高く落ちていた。


 遠ざかっていく美夏のケースの横で、薄藤色の房が、歩くたびに小さく揺れていた。

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