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第30章 冬の川、夏の川

翌日の朝、リビングのテーブルには、夏生(なつき)が広げた紙とタブレットが、いつもより少しだけ整然と並んでいた。


 昨日の音の余韻は、まだ家のどこかに残っていた。


 壁際のアップライトピアノは、蓋を閉じたまま、そこにあった。


 夏生がコーヒーのマグを置いて、テーブルの席に着いた。


「選曲、今日やるか」


 ルイが頷いた。


「『海と光』は入れるとして、それ以外を決めないと」


 夏生は、タブレットの画面を三人のほうへ向けた。


「会場は、教会な。ロウアー・スローター。十二月二十六日」


「ロンドンの公演が、二十三日」


「うん。二十三のあとに、ここへ移る」


 夏生は、紙に短くメモを取った。


「クリスマスだろ。冬っぽい曲も、入れたいな」


 ルーカスが、少し顔を上げた。


 膝に乗せた譜面のフォルダの上で、指がほんのわずかに動いた。


 それから、ルーカスは、ためらいながら口を開いた。


「川を、曲にしてみたいんです」


 夏生が、メモから顔を上げた。


「川?」


「アイ川の音と、教会の響きが、まだ自分の中にあって」


「冬の川、みたいな」


 美夏(みなつ)が、小さく口を開いた。


「……アイ川?」


 ルーカスは、頷いた。


 ルイが、少しだけ姿勢を変えて、ルーカスのほうを見た。


 夏生は、メモを置いた。


「いいな」


 短く言った。


「間に合うのか」


「分からないです」


「無理に本番へ入れる必要はないぞ」


「でも、とりあえず、書いてみるか?」


 ルーカスは、頷いた。


 膝の上の譜面のフォルダを、少し持ち直した。指先が、表紙の角のあたりを、軽く撫でていた。


---


 選曲は、午前のうちに、おおよその形になった。


 バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」。


 フォーレの「シシリエンヌ」。


 最後に「海と光」の三人版。


 そして、ルーカスの「冬の川」。


「順番は、本番までに固める」


 夏生はそう言って、タブレットを閉じた。


 ルーカスが、フォルダの中から、更の五線紙を一枚抜いた。


「少しだけ、書きとめてみたいんです」


「うん」


 夏生は、頷いた。


 ルーカスは、テーブルの端のほうに移った。窓に近い側で、午前の光が紙の上に細く落ちる場所だった。鉛筆を取って、最初の数小節を、ゆっくりと書きはじめた。


 書きながら、ルーカスはいちど、リビングのアップライトピアノのほうを見た。けれど、立ち上がってピアノの前に座ることはしなかった。


 窓の外で、夏の光が、庭の石垣の色を少し深くしていた。


---


 その翌日の夕方、夕食のテーブルで、夏生がサラダを取り分けながら聞いた。


「ルーカス、夏休みの予定、大丈夫なのか」


「明日、グラーツに戻ります」


 ルーカスは、短く答えた。


「実家?」


「はい。もともと少し帰る予定だったので」


 少し間があった。


 ルーカスは、フォークを置いて、続けた。


「進路のことも、家族に話しておきたくて」


「進路?」


 美夏が、顔を上げた。


「まだ、ちゃんと決めたわけじゃないんだ」


 ルーカスは、美夏のほうを見て、そう言った。


 それから、夏生のほうへ視線を移した。


「でも、演奏だけでなく、曲を作るという道も、考えてみたくて」


 ルイは、ルーカスのほうを見た。


 理沙が、静かにスープのお皿を置いた。


「そうなのね」


 短く言った。


 陽翔(はると)が、頷いた。


「家族と話すのは、大事だ」


 夏生は、何でもない顔のまま、フォークを動かしていた。


「ちゃんと話してこい」


「はい」


 ルーカスは、頷いた。


 美夏は、ルーカスのほうをもう一度見て、何かを言いかけて、やめた。


 代わりに、自分の前のグラスのあたりを、少し見ていた。


---


 翌朝、ルーカスは、家を出る支度を整えていた。


 陽翔が、ルーカスの荷物の重さを確かめて、


「けっこう重いな。バス停まで送っていこう」


 と言った。


 理沙が、紙袋をひとつ、ルーカスに渡した。


「これ、お母さまに」


「ありがとうございます」


 ルーカスは、美夏のほうを見た。


「曲、楽しみにしてる」


 美夏が言った。


「まだ、楽しみにされるほどじゃないよ」


 ルーカスは、少しだけ笑った。


「でも、楽しみにしてる」


「……うん。じゃあ、書いてみる」


 ルイのほうへ、視線を向けた。


「教会の響き、忘れないうちに書いてみます」


「うん。待ってる」


 ルーカスは、頭を下げて、玄関を出ていった。


 陽翔が、バス停まで送っていった。


 美夏は、ルーカスの背中が見えなくなるまで、玄関のところに立っていた。


---


 美夏の十八歳の誕生日は、その翌日だった。


 朝、目が覚めて、カーテンを開けると、ロウアー・スローターの夏の光が、窓いっぱいに入ってきた。


 美夏は、窓のほうを見ていた。


 階下のキッチンから、いつもよりほんの少しだけ、にぎやかな音がしていた。


---


 朝食のテーブルで、理沙が、焼きたてのパンを切っていた。陽翔は、ジャムの瓶を二つ並べて、そのうちひとつのラベルを指で軽く叩いていた。


「これ、新しいやつだ」


 陽翔が、夏生に言った。


「いちじく?」


「うん」


 夏生は、テーブルの席に着きながら、美夏のほうを見た。


「みーちゃん、十八歳か」


「うん」


「早いな」


「にぃに、それ毎年言ってる」


「毎年思うからな」


 夏生は、軽く笑った。


 美夏も、少しだけ笑った。


 理沙が、皿を置きながら、


「おめでとう」


 と、静かに言った。


 陽翔は、ジャムの瓶を美夏の前に置いた。


「いちじく、最初に試していいぞ」


 美夏は、少し笑った。


「ありがとう、パパ」


 ルイは、テーブルの向かいの席で、コーヒーのカップに手を添えていた。


「おめでとう」


 短く言った。


「ありがとう」


 美夏も、短く返した。


 目が合いそうになって、美夏は自分のパンのほうへ視線を落とした。


 ルイは、コーヒーをひとくち飲んだ。


---


 午前のあいだ、美夏は離れの夏生の部屋に少しだけ顔を出して、それから、自分の部屋でヴァイオリンの調整をした。


 手の動きが、いつもより慎重になった。弓の毛を確かめる指が、二度、止まった。


 窓の外で、夏の光が、庭のほうへゆっくり移っていた。


---


 ルイは、客間で、リュックの内ポケットを、もう一度開けてみた。


 和紙でくるまれた小さな包みが、入っていた。


 手のひらにのせて、しばらく見ていた。


 朝のうちに渡すべきだったか、と一度だけ思った。


 けれど、朝のテーブルでは、渡せなかった。


 誕生日のプレゼント、という顔で渡すには、もう、自分の中で別のものになりすぎていた。


 包みを、内ポケットに戻した。


 ファスナーを、ゆっくり閉めた。


---


 夕方、理沙と陽翔が買い物から戻ってきて、夕食の支度が始まった。


 夏生も離れから戻ってきた。


 誕生日の夕食は、理沙の手の込んだ料理だった。いつもより、少しだけ品数が多かった。


 ケーキには、十八本のろうそくが立てられていた。


 吹き消すとき、美夏は一度、ルイのほうを見た。


 ルイも、美夏のほうを見ていた。


 目が合った瞬間、美夏は、ろうそくのほうへ視線を戻して、息を吹いた。


 ろうそくの火が、一斉に消えた。


 理沙が、小さく拍手した。


 夏生が言った。


「みーちゃん、願いごと、ちゃんとしたか?」


「した」


「何」


「言ったら、叶わなくなるって、言ったの、にぃにじゃん」


「そうだったか」


「そうだよ」


 美夏は、笑った。


 ルイは、自分のグラスのあたりに、視線を落としていた。


 理沙が、立ち上がって、奥の部屋から、白い箱を抱えて戻ってきた。


「これ、よかったら」


 箱をテーブルに置きながら、


「クリスマスのコンサート用に。ね」


 と言った。


 美夏は、リボンを解いて、蓋を開けた。


 濃い紺色のドレスだった。光の角度で、わずかに藍が差して見えた。シンプルな仕立てで、けれど、いつもより少しだけ大人びた色だった。


「……きれい」


 声が、少し震えていた。


 陽翔が、小さな包みを、もうひとつ置いた。


「ドレスに、合うかと思って」


 包みを開けると、ルビーのついた小さなペンダントだった。


「ママと、選んだ」


 陽翔は、それだけ言った。


 美夏は、ドレスとペンダントを、しばらく見ていた。


「……パパ、ママ、ありがとう」


 目が、少しだけ潤んでいた。


 夏生も、何かを差し出した。タブレットだった。


「俺のお下がり。最終学年、譜面とか、いろいろ管理しろよ」


「お下がり?」


「中身は入れ替えた。新品同様」


 美夏は、少し笑った。


「ありがとう、にぃに」


 それから、ルイのほうを、自然に見た。


 ルイは、視線を逸らした。


 それから、自分のグラスのあたりに目を落とした。


「……ごめん。荷物に、入れ忘れた」


 言ってから、ルイは一度、唇を閉じた。


「ウィーンに戻ったら、渡すよ」


 美夏は、頷いた。


「うん」


「お前、肝心なときに忘れるよな」


 夏生が、笑いながら言った。


---


 夕食のあと、理沙が片付けを始めた。陽翔が手伝った。夏生は、コーヒーを片手に、リビングのソファに腰を下ろした。


 美夏は、テーブルの自分の席のところで、少しだけ立ったままでいた。


 それから、ルイのほうへ、


「少し、歩かない?」


 と聞いた。


 ルイは、コーヒーのカップを置こうとしていた手を止めた。


「今?」


「うん。川、見たい」


 ルイは、少しだけ間を置いた。


「……分かった」


 理沙は、洗い物のあいだから、二人のほうを一度だけ見た。


 それから、視線を戻した。


---


 外に出ると、夏の夜の空気が、やわらかかった。


 日が長い季節だった。空にはまだ、最後の光が、薄く残っていた。


 二人は、家の門を抜けて、川沿いの道へ歩きはじめた。


 誰も歩いていなかった。


 石畳の足音だけが、低く続いた。


 川の音が、近くなった。


 二人は、教会へ続く道のほうへ歩いた。


---


 橋のところで、美夏が足を止めた。


 石造りの古い橋だった。低い欄干と、ゆるやかなアーチ。夏の夜の湿気を含んで、欄干の石は冷たすぎなかった。


 美夏は、欄干のところに、片手を置いた。


「ここ、覚えてる?」


 ルイが、隣に並んだ。


「あのとき、この橋から見てたって言ってたよね」


「うん」


 少しの間があった。


 川の音が、橋の下から、低く立ち上がってきていた。


「小さいころ、この橋から、るいとのことを見てた」


 美夏は、欄干に置いた手を、少しだけ動かした。


 ルイは、頷いた。


 空にはもう、薄い藍色が広がっていた。


 川の流れは、暗い水面のところで、わずかに光を返していた。


 美夏は、欄干のほうを見たまま、口を開いた。


「るいとは、ずっと近くにいた」


 声は、小さかった。


「家族みたいで、でも家族じゃなくて」


「私の師匠で」


「にぃにの友達で」


「ママも、パパも、ずっと知ってる人で」


 ルイは、何も言わずに、聞いていた。


「年も、ずっと離れてて」


 美夏は、欄干に置いた手の指を、わずかに曲げた。


「だから、変えちゃいけないものが、たくさんあると思ってた」


 川の音が、少し大きくなった。


「でも……」


 美夏が、続けようとした、そのときだった。


「みーちゃん」


 ルイの声が、美夏を呼んだ。


 美夏は、少し驚いた顔で、ルイのほうを見た。


 ルイは、美夏の顔を、まっすぐに見た。


「誕生日おめでとう」


 短く言って、ルイはリュックの内ポケットから、和紙でくるまれた小さな包みを取り出した。


 手のひらにのせると、それは、いつものように軽かった。


 ルイは、手のひらにのせたまま、それを美夏のほうへ差し出した。

 

美夏は、しばらく、包みを見ていた。

 

ルイは、続けた。


「先に、全部言わせちゃいけないと思った」


 美夏は、ルイのほうを見上げた。


 ルイは、橋の欄干のほうへ、視線を一度向けた。それから、また美夏のほうへ戻した。 


「京都で、見つけた」


「一度、戻した」


「でも、戻せなかった」


 美夏は、ルイの手のひらの上で、和紙の結び目のところを、指でゆっくり解いた。


 藍色の布が、ふっと現れた。


 銀色の糸で織られた小さな花が、橋の上の薄い光を、わずかに受けていた。


 紐の先の薄藤色の小さな房が、夜の風に、ほんのわずかに揺れた。


 美夏は、それを、しばらく見ていた。


 言葉は、出てこなかった。


 ルイは、もう一度、川のほうを見た。


 それから、少しだけ間を置いて、ゆっくりと、口を開いた。


「ずっと、別の名前をつけてた」


「大事だから、とか」


「家族みたいだから、とか」


「夏生の妹だから、とか」


「教えてきた子だから、とか」


 川の音が、続いていた。


「でも、もう、それだけじゃなかった」


 ルイは、言葉を一度切った。


「子どものころのみーちゃんを、そういうふうに見ていたわけじゃない」


「それは、違う」


「でも」


「今、ここにいるみーちゃんを」


 ルイは、美夏のほうを、もう一度見た。


「大事だと思ってる」


 夜の風が、二人のあいだをゆっくり通り抜けていった。


 ルイは、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。それから、もう一度、口を開いた。


「好きだよ」


 声は、大きくなかった。


 でも、ちゃんと、橋の上の空気の中に、置かれた。


 美夏は、ルイの手のひらの上のチャームを、そっと両手で受け取った。


 しばらく、動かなかった。


 川の音が、橋の下から、ずっと続いていた。


 淡い藍色に薄紫のあじさいの栞のことを、ふと思った。


 美夏は、ゆっくり、口を開いた。


「私も、言うつもりだった」


 声が、少し震えていた。


 少しの間があった。


「るいとが好き」


 はっきり、言った。


 ずっと踏み込まないようにしていたものが、ようやく、自分の言葉で立った。


 ルイは、美夏のほうを、ちゃんと見ていた。


 ルイの手が、チャームを包んだ美夏の手に、そっと重なった。


 握るというより、そこにあることを確かめるだけの触れ方だった。


 美夏はその手の重さを感じていた。


 二人は、しばらく、何も言わなかった。


 重なった手の中に、チャームがあった。


 空の薄い藍色が、少しずつ、深くなっていた。


 川の音だけが、橋の下から、絶えず聞こえていた。


 水が石にぶつかる音。


 水がゆるやかなところで、少し低くなる音。


 遠くで、川がカーブして、また流れていく音。


 川の音はいつものようにずっと続いていた。


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