第29章 音は知っている
数日前のことだった。
夏生は朝のキッチンで、コーヒーを淹れていた。理沙はテーブルでメールを返していて、陽翔は新聞を読んでいた。窓の外では、ロウアー・スローターの夏の光が、庭の石垣をゆっくりと温めはじめていた。
夏生は自分のマグを置いて、テーブルの席に着いた。
「あのさ、家にピアノを入れようと思うんだけど」
理沙が、画面から顔を上げた。
「急ね」
「うん」
「置く場所は?」
「リビングのこっちの壁、空いてるだろ。窓のあたりは光が入りすぎるから、その奥」
夏生はマグの取っ手のところを指で軽く叩きながら、もう片方の手で、リビングのほうを示した。
「調律師は?」
「ここまで来てくれる人を、当たってる」
「音は? 隣に響くと困るわ」
「アップライトだから、グランドみたいには響かない。それでも気になるなら、壁とのあいだに、吸音材挟む」
理沙は短く息を吐いた。急ね、という顔のままだった。
「それなりに大きい買い物よ」
「うん」
「夏生はいつもこういうの、決めてから言いに来るよね」
夏生は、少し笑った。
「悪い」
「悪くはないけど」
理沙はもう一度、画面のほうへ視線を戻した。けれど、メールを打つ手は止まったままだった。
陽翔が、新聞を脇に置いた。
「アップライトなら、たぶん入る」
「搬入経路、見てみるか」
陽翔は、新聞をきちんと折り直して、テーブルの端に揃えて置いた。
「ちょっと、寸法見てくる」
とだけ言って、立ち上がった。
理沙は、夏生のほうを見た。
「クリスマス公演のため?」
夏生は、頷いてコーヒーをひとくち飲んだ。
「本番用のピアノは、リハーサルに間に合う感じで教会に搬入する予定だから、細かい調整は家でできたほうがいい」
「それは、そうね」
理沙はまだ慎重な顔をしていた。
「でも、それだけ?」
夏生は、テーブルの上に置いたマグの取っ手のところを、もう一度指で叩いた。
「みーちゃんも前に、ピアノ少し触ってみたいって言ってた。譜面見るとき、自分で音を確かめられたら便利だろ」
理沙は、少し黙った。
「それに、母さんも昔やってただろ。少しだけ」
夏生は、何でもない顔のまま、そう言った。
理沙は、目を伏せた。テーブルの上の、自分の指のあたりを、しばらく見ていた。
「……よく覚えてたわね」
声が、少しやわらかくなっていた。
「覚えてるよ」
夏生は、短く言った。
「少しだけよ。もう、ほとんど弾けないわ」
「知ってる。でも、家にあってもいいと思った」
理沙は、もう一度、自分の指のあたりを見た。
「……この家にあっても、いいかもしれないわね」
ゆっくり、そう言った。
陽翔が戻ってきた。
「壁、たぶん大丈夫だ。床の補強も、いらないと思う」
陽翔は座り直した。
「じゃあ、ちゃんと鳴るのを入れよう」
「うん」
「弾く人が増えるなら、連弾用に、椅子二つにするか」
陽翔は、真面目な顔で言った。
理沙が、小さく吹き出した。
「気が早いわよ」
陽翔は、新聞のあたりを少し見ながら、
「そうか」
とだけ言った。けれど、声がさっきよりやわらかかった。
夏生は、それを聞きながら、リビングのほうの空いている壁際を、もう一度ちらりと見た。
壁際だけが、まだ静かに空いていた。
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その日の夕方、夏生はルイへメッセージを送った。
「みーちゃんとルーカスに、夏休みのうちに、こっちへ来れないか聞いてほしい。教会の空気を一度、奏者として見ておいたほうがいい。『海と光』以外の選曲も、家にいる時間があるほうが相談しやすい」
「まず三人で話してくれるか」
ピアノのことは、書かなかった。
画面を閉じて、夏生はリビングのほうへ歩いていった。
空いている壁際を、もう一度見た。光が、午後の終わりの色に変わりはじめていた。
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ルーカスの告白を断ってから、数日が過ぎていた。
美夏は、出発の準備のことで一度だけ、ギムナジウムの廊下でルーカスに会った。ルーカスは、いつもどおりに接してくれた。譜面のことを話して、夏生からの連絡のことを話して、ロウアー・スローター行きの段取りのことを話した。
いつもどおりにしようと、思ってくれているのがわかったから、痛かった。
ルーカスは優しすぎる。
もう少し痛そうな顔をしてもいいのに。
二人は、いつもどおりの会話を続けて、別れた。
ルイとは、この数日、顔を合わせる機会がなかった。
グループチャットで、出発の段取りや荷物のことを確認するときも、文字越しのやりとりだった。何でもない用件のはずなのに、画面に向かって文字を打つ指が、ふと止まった。
送ろうとした文を、読み返してから送った。
美夏の中で、「想いを伝える」という言葉が、また動いた。
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ルーカスは、出発の前夜、自分の部屋で荷物を詰めていた。
シャツを畳んで、洗面用具をまとめた。譜面のフォルダは、すぐに取り出せるところに入れた。
行ってもいいのか……。
ルーカスは、フォルダの位置をもう一度直して、鞄のファスナーを閉めた。
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ルイは、ヴィオラのケースを玄関の壁に立てかけた。
部屋に戻って、机の引き出しを開けた。
奥に、和紙でくるまれた小さな包みが、置いた向きのまま残っていた。
手のひらにのせると、やはり軽かった。
美夏の誕生日まで、五日。
子供の頃には、毎年祝っていた日だった。
誕生日なら、渡せるかもしれない。
包みを、リュックの内ポケットに入れた。
ファスナーを閉めるとき、指の動きが、いつもよりわずかに丁寧になっていた。
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飛行機、電車、バスを乗り継いで、三人がロウアー・スローターのバス停で降りたのは、翌日の午後だった。
降りた瞬間、空気が変わった。
夏のヨーロッパの大陸の空気とは、湿り方が違った。低い草の匂いと、石の匂い。風の中に、水のかすかな音が混じっていた。アイ川は、ここから家までの道に、ずっと寄り添うように流れている。
美夏は、深く息を吸った。
吸って、吐いた。
肩のあたりが、少しだけ軽くなった。
「歩く?」
ルイが聞いた。家までは、十分ほどだった。
「うん」
「歩きます」
三人で、川のほうへ続く道を歩いた。
石造りの家並みが、低い夏の光を受けていた。蔦の絡んだ壁、苔のついた石垣、開いた窓から覗く白いカーテン。景色は、美夏の中でずっと変わらない場所だった。けれど、ここに帰ってくるたびに、少しだけ違って見えた。今日も、少しだけ違って見える。
ルーカスは、ヴィオラケースを抱えたルイの斜め後ろを歩いていた。
川沿いの低い柵に、白い小さな花が垂れていた。誰かの家の庭から伸びてきたものらしかった。風が動くと、花の影が川面のほうへ短く揺れた。
ルーカスは、譜面の入った鞄を少し持ち直した。
足元の石畳が、思っていたより硬かった。
川の音が、低く続いていた。
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家の門を抜けると、庭の奥のドアが開いていた。
夏生と理沙が、玄関先に並んで立っていた。
「お疲れ」
夏生が短く言った。
「おかえりなさい」
理沙の声は、あいかわらず静かだった。
「ただいま」
美夏が小さく言った。
「お邪魔します」
ルーカスが頭を下げた。
「ルーカスくんも、よく来てくれたわね」
奥のキッチンのほうから、陽翔の声がした。
「荷物、上に運ぶか?」
「あとでいい。先にお茶」
夏生が答えた。
美夏は、玄関で靴を脱ぎながら、少しだけ息を吐いた。
美夏は、ヴァイオリンケースを廊下の壁に立てかけて、リビングのほうへ歩いた。
リビングのドアを開けた瞬間、視界の右側で、何かが視線を引き止めた。
壁際に、アップライトピアノが置かれていた。
深い色の木目で、上面には何も乗っていなかった。譜面台は閉じてあった。窓のあたりから入る光の角度は、ちょうどピアノを直接照らさない位置だった。
美夏は、足を止めた。
前に帰ったときは、ここに、何もなかった。
ルイが、美夏の少し後ろで足を止めた。何も言わなかったけれど、視線の動きが、同じ場所で止まったのがわかった。
いちばん最後に、ルーカスがリビングに入った。
「ピアノ……?」
ルーカスの声が、途中で止まった。
夏生が、キッチンのほうから歩いてきた。スリッパの音が、廊下の床に短く響いた。
「間に合った」
それだけ言って、夏生はリビングのドアの脇に立った。何でもない顔だった。
ルーカスは、ピアノのほうを見たまま、しばらく動かなかった。
美夏も、動かなかった。
ルイは、夏生のほうを見た。
「メッセージ、書いてなかったな」
「うん。間に合うかわからなかったから」
「そうか」
ルイは、それだけ言った。
理沙が、お盆を抱えてリビングに入ってきた。
「あら、気づいたのね」
理沙はお盆をテーブルに置きながら、少しだけ笑った。
「夏生がね、急に決めたのよ」
「うん」
夏生は、理沙のほうを向いて、軽く肩をすくめた。
陽翔が、廊下のほうから入ってきた。
「湿度、今のところ五十二くらいだ。悪くない」
陽翔は壁際の湿度計のほうへ歩いていって、針の位置を一度確認した。それから、ピアノの裏側のほうを覗き込むようにして、
「結露はまだ出てない。夜になったら、もう一度見る」
と言った。
ルーカスは、ようやく口を開いた。
「これ、今は教会にピアノがないから、ここで練習できるように?」
「同じロウアー・スローターの空気だからな」
夏生は答えた。
ルーカスは、頷いた。それ以上は聞かなかった。
ピアノは、ただ、そこにあった。鳴っていなかった。
美夏は、リビングのソファの背に、片手をそっと置いた。指先が、布の織り目に少し触れた。
お盆の上で、紅茶のポットから、白い湯気が細く立ちのぼっていた。
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お茶を飲み終えるころには、夕方の光が、リビングの床の角のあたりまで届いていた。
夏生が、紅茶のカップを置きながら言った。
「教会、行ってこい。今のうち」
ルイが頷いた。
ルーカスは、少しだけ顔を上げた。
「行きます」
「鍵、いつものとこな」
夏生が、ルイのほうへ短く言った。
ルイは、頷いただけだった。
美夏は、ヴァイオリンケースのほうを一度ちらりと見た。立ち上がるときに、ケースの取っ手を握った。
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家を出ると、夏の夕方の空気が、低く沈みはじめていた。
日が長い季節だった。光はまだ高いところに残っていたけれど、影のほうが、少しずつ濃くなっていた。アイ川の音が、来るときよりも、はっきりと聞こえた。
三人は、川沿いの道を歩いた。
誰も、多くは話さなかった。
石造りの教会は、村のはずれにあった。低い石塀に囲まれていた。入り口の脇のポストに、ルイが手を伸ばした。蓋の内側のいつもの場所に、鉄の鍵が置かれていた。
ルイが鍵を回すと、蝶番が、ひと呼吸ぶん、低く鳴いた。
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中に入った瞬間、空気が変わった。
夏なのに、少しだけ冷たかった。石の床と、石の壁に、長い時間が染み込んでいた。窓は高いところにあって、夕方の光が斜めに細く落ちていた。光の通り道だけ、空中の微かな埃が見えた。
誰も、すぐには動かなかった。
ルーカスが、入り口から二、三歩だけ進んで、立ち止まった。天井のほうを、しばらく見ていた。
ルイは、いつもの席のあたり――子供のころの美夏に教えていた場所――を、視界の端に置いたまま、奥のほうへゆっくりと歩いた。靴の底が石の床に当たる音が、思っていたより上のほうへ抜けていった。
美夏も、少しだけ歩いた。
冬のここで、ルイと二人で弾いた音。もう二年前のことだった。けれど、その音の温度はまだ手のひらに残っていた。
ルーカスが、小さく言った。
「思っていたより、音が上に残るんですね」
声は大きくなかったのに、天井のあたりで一度ふくらんでから、戻ってきた。
「うん」
ルイが、短く応じた。
ルーカスは、視線を一度、客席のほうへ動かした。去年の夏、自分が座っていたあたりだった。それから、奥のほうへ向き直った。
「あそこで聴いていた音と、ここで出す音は、たぶん違います」
ルイがケースを開けて、ヴィオラを取り出した。一音だけ、低い音を、空気のほうへ置いた。
音は、上のほうで、ゆっくりほどけていった。
美夏もヴァイオリンを構えた。弓を、弦に軽く乗せた。一音、短く出した。
ルイの音と、自分の音のあいだに、しばらく余白があった。その余白に、教会の空気が、こっそり入り込んでくる感じがした。
ルーカスは、ピアノのない場所で、両手を膝の高さに置いていた。指は動いていなかった。けれど、目は、空中の何かを追っているようだった。
美夏は、その姿をしばらく見ていた。
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外に出るとき、ルイが扉をゆっくり閉めた。蝶番が、来たときと同じ音で鳴いた。鍵を回して、ポストの蓋を開け、いつもの場所に戻した。
帰り道、誰も話さなかった。
川の音が、また低く戻ってきた。
夕方の光が、石畳のあいだの苔のところで、緑の色を少しだけ深くしていた。
家の門が見えてくるあたりで、ルーカスがヴィオラケースを持ったルイの斜め後ろを歩きながら、ぽつりと言った。
「あの空気、覚えておきます」
ルイは、頷いただけだった。
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家に戻ると、台所のほうから、玉ねぎを炒める匂いがしていた。
夏生が玄関のところに出てきた。
「どうだった」
「悪くない」
ルイが言った。
夏生は、リビングのほうを見た。
「少し、合わせてみるか? 夕飯まで、まだ少しある」
ルーカスが、ピアノのある部屋のほうへ視線を動かした。
「少しだけ、触ってもいいですか」
夏生は、軽く笑った。
「どうぞ」
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リビングのドアを開けると、夕方の最後の光が、ピアノの脚のあたりまで届いていた。
ルーカスが、ピアノの前の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。蓋を開けて、譜面台を上げ、自分の譜面のフォルダから『海と光』を抜いて立てた。それから、両手を膝の上に置いた。
美夏は、ヴァイオリンケースを開けた。松脂を弓に軽く当てて、肩当てを着けた。指がいつもより慎重に動いた。ルイは、ルーカスの斜め後ろのあたりで、ヴィオラを構えた。
教会の静けさが、まだ三人の服のどこかについていた。
誰が合図したわけでもなかった。
ルイのヴィオラが、最初の低い音を置いた。海の底のほうから、ゆっくりと立ち上がってくる音だった。
美夏のヴァイオリンが、その上に光を乗せた。
ルーカスのピアノは、少し遅れて入った。前へは出ない。二人の音の外側で、空気ごと少し揺らすように。
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最初の数小節は、ぴったりとは合わなかった。
ルイの音は、いつもより少しだけ深いところに沈んでいた。美夏の音は、その深さを聴きながら、いつもの速度では入らなかった。ルーカスの風は、二人の音のあいだに入らないまま、外側で慎重に動いていた。
それでも、お互いの空気はまだぎこちないのに、音は前よりも深いところに触れていた。
海の底のほうに、ひとつ、淡い色が落ちていた。光の中にはわずかな陰りがあった。風は、前よりも、低く吹いていた。
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最後の和音が、ゆっくりと消えた。
誰も、すぐには動かなかった。
ルーカスは、両手を鍵盤の上に置いたまま、鍵盤の木目のあたりを見ていた。美夏は、弓を下ろさないまま、しばらく息を整えていた。ルイは、ヴィオラを少しだけ下げて、何かを言いかけて、やめた。
窓の外で、夏の最後の光が、庭の石垣のあたりまで降りてきていた。
台所のほうから、玉ねぎの匂いに、別の匂いが重なってきていた。
ドアの脇に、夏生が立っていた。
腕を組んで、壁にもたれていた。目を閉じていた。
ルーカスが、譜面のページを、ゆっくり閉じた。
美夏が、肩当てを外した。
ルイは、ヴィオラをケースのほうへ運んだ。
誰も、まだ、何も言わなかった。
美夏は、ヴァイオリンを片付けた。指がまだ少し震えていた。
さっきの音のなかに、何かがあった。
言葉になる前の、何か。
ルーカスがピアノの蓋を、そっと閉めた。
ルイが、それを、視界の端で見ていた。
音だけが、もう、何かを知っていた。




