第28章 言葉の先にある名前
◇
机の引き出しを、僕は開けた。
奥のほうに、小さな包みがあった。和紙でくるまれて、紐で軽く結ばれていた。
手に取った。
手のひらに乗せると、ほとんど重さはなかった。
京都公演の翌日だった。
午後に東京へ向かう新幹線まで、まだ少し時間があった。荷物はもう詰めてあった。それでも、ホテルの部屋にいるのが落ち着かなかった。
あの店の前を、もう一度通りかかった。
通りかかった、というのは、たぶん本当ではなかった。足が、自然にそっちへ向かっていた。
昨日と同じ棚の前に立った。
藍色のチャームは、戻した場所にまだあった。銀色の糸で織られた小さな花が、棚の上の光を少し受けていた。
手に取った。
昨日と同じ軽さだった。指先で房を揺らしてみた。薄藤色の小さな房が、わずかに揺れた。
昨日の夕方、棚に戻したときの感覚が、まだ手のひらに残っていた。
戻したのに、なぜまた、ここに立っているのか。
考えるより先に、絵が浮かんだ。
美夏がヴァイオリンケースを肩にかけて歩いていた。長い黒髪が、ケースの肩紐のあたりにふわりとかかっていた。そのすぐそばで、薄藤色の小さな房が揺れていた。
歩くたびに、髪と房が、同じ高さで揺れた。
僕はそこで、止まった。
ケースの色に合う、ではなかった。
美夏に似合う。
僕はそう感じてしまっていた。
手の中のチャームを、しばらく見ていた。
戻すこともできた。昨日と同じように、棚に戻して、店を出ることもできた。
でも、戻さなかった。
店の人に、包んでください、とだけ言った。
ウィーンに戻ってから、引き出しから出さなかった。
何度か、出そうとはした。グループチャットで連絡を入れるとき、ふと思い出して、引き出しの取っ手に指をかけた。けれど、開けなかった。
今日じゃない、と思った。
今日じゃない、が、続いた。
栞のときには、こんなことを考えなかった。譜面に使えるだろ、と差し出して、それで済んだ。
チャームには、それと同じ顔ができない。
包みを、引き出しの奥にもう一度しまって、引き出しを閉めた。
閉まる音が、思ったより小さかった。
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夏休みに入って、数日が経っていた。
ギムナジウムの校舎は、学期中の喧騒が嘘のように静かだった。それでも、進路指導の面接や、空いた練習室を求めて、生徒たちはそれなりに出入りしていた。
午前の練習を終えた美夏は、ロビーに近い廊下のベンチに腰を下ろして、譜面をまとめていた。窓から差す光が、楽譜の白いところで一度跳ねていた。
ピアノ科の練習室から戻ってきたルーカスが、隣の椅子に荷物を置いた。
「もう終わり?」
「うん。これから進路指導の先生に、ちょっと相談があって」
美夏が譜面を閉じようとしたとき、あいだに挟んでいた一枚が、わずかにはみ出した。
淡い藍色に、薄紫のあじさい。
ルーカスの視線が、ほんの一瞬そこで止まった。
新しい栞だ。たぶん京都の。ルイさんのお土産かな。
なんとなく、そう思った。
それだけだった。ルーカスは自分の譜面を開いて、午後の練習の音を、ぼんやり頭の中で鳴らしはじめた。
美夏も、もう一度譜面を整えて、ケースの取っ手に手をかけた。
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進路指導室は、廊下のいちばん奥にあった。
ドアの前のベンチに、美夏は腰を下ろした。先生はまだ前の生徒と話しているらしく、ドアの奥から、低い声がときどき洩れてきていた。
膝の上に、譜面のケースを置いた。窓の外で、夏の雲がゆっくり動いていた。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
画面を開くと、グループチャットだった。美夏とルーカスとルイの、三人だけの。
「少し話がある。今、学校いる?」
ルイからだった。
美夏は、ベンチに座ったまま指を動かした。
「いるよ。進路指導室の前にいる」
ほどなく、ルーカスからの返信が出た。
「僕も学校にいます。練習室にいるので、ロビー行けます」
ルイの返信が続いた。
「じゃあロビーに行く。三十分くらいで着く」
「はい」
「うん」
美夏は画面を閉じた。
たぶん、十二月の話だろう、と思った。日程か、選曲か、移動の手配か。三人で確認したほうが早いことが、何か出てきたのかもしれなかった。
ドアの奥で、椅子が動く音がした。
前の生徒が、ドアを開けて出てきた。そのまま廊下のほうへ歩いていった。
美夏は立ち上がった。
ドアの内側で、先生がこちらを見て、軽く手で招いていた。
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進路指導を終えるころには、ルイが来ると言っていた時間が近づいていた。
ロビーには、ルーカスがすでに来ていた。窓際のソファに腰を下ろして、譜面の表紙のあたりを指で軽くなぞっていた。美夏が近づいていくと、顔を上げて、
「お疲れ」
と言った。
「お疲れ。早かったね」
「練習室、ロビーのすぐそこだったから」
美夏は、ルーカスの斜め向かいのソファに座った。譜面のケースを足元に置いた。窓の外で、夏の光がロビーの床まで斜めに入ってきていた。
数分待つほどもなかった。
入口のほうで自動ドアが開いて、ルイが入ってきた。ヴィオラのケースは持っていなかった。リュックがひとつだけだった。
「悪い、待たせた」
「ぜんぜん」
ルーカスが少し腰を浮かせかけた。ルイは小さく笑って、ルーカスの隣のソファに腰を下ろした。
「夏休みなのに呼び出して、ごめんな」
「いえ、大丈夫です」
「私も大丈夫」
美夏は短く答えた。膝の上に手を置いた。
ルイは、リュックの横ポケットからスマートフォンを取り出した。画面を開いて、二人のほうへ少し傾けた。
「夏生からの伝言で」
画面には、夏生から来たメッセージのスクリーンショットが映っていた。長くはなかった。
「夏休みのうちに、なるべく早めにロウアー・スローターに来ないかって」
ルイは、画面の文字を指で示した。
「十二月までまだ時間はあるけど、本番の前に、演奏する立場で一度、教会の空気を感じておいてほしいって。前に行ったときとは聴き方が違うはずだから、って」
「ああ、それは」
ルーカスが頷いた。前回ロウアー・スローターの教会に立ち寄ったときは、ただ場所を見せてもらっただけだった。あのとき耳に入っていた音と、譜面を抱えて立つときに耳に入る音は、たぶん別のものになる。
「あと、選曲のことも。『海と光』はもちろん入れるけど、それ以外も、何曲か候補を考えたいって。家にいる時間があるほうが、相談しやすいから、って」
「うん」
美夏は画面を目で追った。夏生の文面は、いつもの夏生らしく、簡潔だった。
「いつ頃の話なの?」
「できれば、三、四日後くらいから、って言ってる。あんまり後ろにずらしたくないらしい」
ルイは画面をスワイプして、別のメッセージを開いた。
「教会のほうにも、一応連絡してある。夕方なら、何度か空けてくれるって」
画面には、教会の管理人とのやりとりが映っていた。短い英語のメッセージだった。
「ルーカス、その辺り、予定どう?」
「三、四日後なら、大丈夫だと思います。僕は今日と明日、進路面接が一回ずつあって、それが終われば、特に動かせない予定はないので」
ルーカスは譜面の表紙に置いた手を、少し動かした。
「行けると思います。家のほうも、たぶん大丈夫」
「そうか」
ルイが頷いて、美夏のほうを見た。
「美夏は?」
美夏は、一拍だけ、間を置いた。
「私も、たぶん大丈夫」
短く答えた。
「今日、進路指導も終わったところだったから」
「じゃあ、その方向で、夏生に返しておく」
ルイはスマートフォンの画面を閉じて、自分の隣に置いた。
「具体的な日は、家のほうの予定と合わせて、また連絡する」
「はい」
「うん」
話の中身は、美夏のなかで、ひとつずつ場所を見つけていった。教会の空気、選曲、三、四日後。
ロウアー・スローターに帰る。
その言葉が、自分のなかで、ふっと近くなった。
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話が一段落したところで、ルイは腰を上げた。
「じゃあ、僕はもう行くよ。あとで日程まとめて送る」
「はい、ありがとうございます」
「うん。気をつけて」
ルイはリュックを肩にかけ直して、ロビーの入口のほうへ歩いていった。自動ドアが開いて、夏の光が一瞬、ロビーの奥まで差し込んだ。
ドアが閉まると、光も静かに引いた。
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ロビーには、美夏とルーカスだけが残った。
ルイが座っていたソファのところに、夏の光が斜めに落ちていた。さっきまで三人だった場所に、光だけが残っていた。
「美夏」
ルーカスが、声をかけた。
いつもより少しだけ静かな声だった。美夏は立ち上がりかけた動作を止めて、ルーカスのほうを見た。
ルーカスは、しばらく言葉を探しているように見えた。それから、
「少しだけ、いい?」
と言った。
美夏は頷いた。
ルーカスはソファから立ち上がって、窓のほうへ二、三歩歩いた。窓の外で、夏休みの中庭が静かに白く光っていた。それから、振り返って、美夏のほうを見た。
「変なふうに聞こえたら、ごめん」
ルーカスは、言葉を一度切った。
「言わないままにするのも、ありだとは思ってた。でも、たぶん、それだと自分のなかで終わらないままになる」
美夏は、座ったまま、ルーカスを見ていた。何の話か、まだはっきりとはわかっていなかった。けれど、何かをちゃんと聞かなくてはいけないことだけは、わかった。
「美夏のことが、好きなんだ」
ルーカスは、ゆっくりそう言った。
美夏の指が、膝の上で、わずかに動いた。
「驚かせてしまったかな?」
ルーカスは、続けた。
「ただ、伝えないままにしておくのは、ちょっと違うなと思って。自分のなかで、ちゃんと区切りをつけたかった、っていうほうが、たぶん近い」
美夏は、息を吸った。何かを言おうとして、唇が少し動いた。けれど、すぐには言葉にならなかった。
ルーカスは、それを待ってくれていた。
窓のほうから、夏の光がルーカスの肩のあたりに落ちていた。彼は急がなかった。美夏が言葉を探していることに、気づいているようだった。
美夏は、自分のなかで、いくつかの言葉を探した。
ルーカスのことは、大切だと思っている。一緒に音楽をしてきて、信じている人だ。それは本当だった。だから、嬉しいと言えた。嬉しい、と言うことはできた。
でも、その先に置く言葉が、見つからなかった。
いや、見つからなかったのではなかった。
見つかった言葉が、ルーカスの隣ではなかった。
それを、ちゃんと言わなくてはいけない、と思った。曖昧にしてしまうのは、いちばん優しくないことだった。
「……ありがとう」
美夏は、ようやく言葉を出した。
声が、少し震えていた。
「言ってくれて、嬉しかった。ほんとに、嬉しかった」
「うん」
「ルーカスのこと、大切に思ってる。それは本当」
美夏は、自分の膝のあたりに視線を落とした。
「でも、そういうふうには、返せない」
言葉が、小さくなった。
「ごめん」
ルーカスは、何も言わずに、しばらくそこに立っていた。
窓のほうの光が、彼の肩から少し落ちて、床のほうへ動いた。
「うん」
ルーカスは、それだけ言った。
「ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
声が、いつもより低かった。けれど、ルーカスは無理に笑おうとはしなかった。痛みをなかったことにしようともしなかった。
ただ、
「困らせたなら、ごめん」
とだけ、付け加えた。
美夏は、首を横に振った。
「ううん」
うまく続けたかったけれど、声が出なかった。
ロビーの遠くで、誰かの足音が、廊下のほうへ消えていった。
二人のあいだに、夏の光だけが、しばらく残っていた。
◇
校舎を出てしばらく歩いたところで、僕は足を止めた。
ポケットに、いつもの重みがなかった。
反対側のポケットにも、リュックの横にも、なかった。
さっきソファに置いて、そのままだった。
息をひとつ吐いてから、来た道を引き返した。
校舎の自動ドアを、もう一度くぐった。
ロビーの手前の廊下まで来たところで、僕は足を止めた。
奥のほうで、声が、ぽつりぽつりと続いていた。
ルーカスの声だった。いつもよりずっと低く、慎重な響きだった。続いて、長い間があった。
「……ごめん」
美夏の声が、かすかに届いた。
そのあとで、ルーカスの声がした。
「ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
間があった。
「困らせたなら、ごめん」
それから、美夏の声がした。
「ううん」
短い、小さな声だった。
それきり、二人とも何も言わなかった。
僕は、廊下の角の手前で、立ち止まったままでいた。
全部は聞いていなかった。けれど、聞こえてしまったその数行で、おおよそのことは、わかってしまった。
ルーカスが、何かを伝えた。
美夏が、それを曖昧にせず、ちゃんと返した。
二人とも、その答えのなかに立っていた。
角の向こうへ足を踏み出せば、見えてしまう。見えてしまえば、二人がこの数分のなかで整えたものを、こちらの足音で崩してしまう気がした。
僕は、来た方向へ静かに引き返した。校舎のロビーとは別の入口のほうへ回った。
しばらくして、二人がロビーを出ていく気配がした。
足音は二つ。少し間を空けて、別々のほうへ離れていった。
僕は、ロビーへ戻った。
窓際のソファだけに、夏の光が斜めに落ちていた。
ソファの隅に、僕のスマートフォンが、置いた向きのままで残っていた。
手に取ると、画面の表面が、ほんのり温かかった。
ポケットに入れた。
すぐにロビーを出るつもりが、しばらく動けなかった。
二人が座っていたソファのところを、もう一度見た。誰もいなくなった場所が、ふっと広く見えた。
さっき、僕がここを出ていくときと、同じ広さのはずだった。同じ広さのはずなのに、違って見えた。
なぜ違って見えるのか、自分でうまく言葉にできなかった。
-----
◇
寮の部屋に戻って、私はカバンを椅子の上に置いた。
窓のカーテンを少し引いた。夕方の光が、机の角に落ちていた。
ヴァイオリンケースを床に下ろして、椅子に腰を下ろした。
しばらく、何もしなかった。
ルーカスは、ちゃんと伝えてくれた。
驚かせたら、ごめん。
ルーカスはそう言った。本当は、驚かせたいわけでも、困らせたいわけでもなかったはずなのに、それでも、伝えないままにはしておけなかった。だから、伝えた。
その真っ直ぐさが、痛かった。
自分のなかでちゃんと区切りをつけたかったから、と、ルーカスはそういう静かな手触りで、言葉を置いてくれた。あんなふうに置かれた言葉を、私は曖昧なまま受け取れなかった。受け取ってしまったら、それはルーカスへの裏切りになる気がした。
だから、断った。
断る、という言葉が、いまだに馴染まない。けれど、たぶん、私がしたのはそういうことだった。
ありがとうと、大切に思ってると、ごめん、を一緒に渡した。
言葉に、嘘はなかった。自分の中から探して、置いた。けれど、置いた言葉のひとつひとつが、ルーカスのまっすぐさにぶつかって、痛かった。
ルーカスは、責めなかった。
ちゃんと言ってくれて、ありがとう、と言った。
困らせたなら、ごめん、と言った。
あの瞬間に、ルーカスのほうが、私よりずっと大人だった。
そして……
断った瞬間に浮かんだ言葉があった。
るいと。
逃げようがなかった。
窓のカーテンが、夕方の風に小さく揺れた。
私は椅子の背にもたれて、しばらく天井のほうを見た。
でも……。
私は、その「でも」のところで、止まった。
ちゃんと返事をしたのに、自分の本当の気持ちだけは、ずっと曖昧なままでいいのか。
怖いから言わない。
わからないふりをする。
子供のころからの関係を、変えたくないから、何も言わない。
そういう逃げ方を、私はずっとしてきた。
今日まで、その逃げ方は、わりとうまくいっていた。気づかなかったふりをしていれば、それで日々は流れていた。
でも、もう、できない。
窓の外で、夕方の街の音が、遠くから低く響いていた。
すぐに想いを伝えていいのかわからない。考えなければいけないことが、その音のように、あちこちに散らばっていた。
今日のルーカスのこと。最終学年から先の自分のこと。ママと、パパと、にぃに。るいとと、にぃにが積み重ねてきた静かな深さ。
ひとつずつ、確かにそこにあった。
全部を置き去りにして、ただ「好き」だと言うことは、できない。
それでも――
ルーカスは、受け取ってもらえないかもしれないと知りながら、伝えてくれた。
私も、そのくらいは、しなくてはいけないのだと思った。
窓の外で、夕方が、もう少し深くなっていた。
ヴァイオリンケースの黒い表面に、部屋の光が静かに落ちていた。
もう、逃げられないところまで来てしまったのだ、と知った。心のどこかが、ひとつだけ、もう動いてしまっていた。
想いを伝える。その方向に、ようやく、ぼんやりとした光がさしはじめていた。
窓の外で、夏の風が、カーテンをもう一度揺らした。
藍色のあじさいの栞は、楽譜のあいだに、まだ静かにはさまっていた。




