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第27章 初夏の栞

 六月の夕方だった。


 ギムナジウムから戻った美夏みなつは、寮の部屋で机の上にカバンを置いた。窓の外で、ウィーンの空がまだ明るかった。日が長くなっていた。


 椅子に座って、スマートフォンを手に取った。


 通知が短く震えた。


 ルイだった。


 画面の中で、メッセージの上に写真が一枚、小さく表示されていた。


 開いた。


 石畳の坂道だった。両側に木造の古い家並みが続いていて、奥のほうに、五重塔のシルエットが見えた。朝の光が低く差していて、人影はほとんどなかった。空気が澄んでいることが、写真でもわかった。


 日本の、たぶん京都だった。


 添えられた文は短かった。


「七月の初めに帰る。」


 それだけだった。


 美夏はしばらく、写真を見ていた。


 息を一度、深く吐いた。吐いてから、自分が息を止めていたことに気がついた。


 画面を閉じた。それから、もう一度開いた。写真はちゃんとあった。消えていなかった。


 胸の中で、何かが小さく温まっていた。それが何なのか、まだ名前にはなっていなかった。ただ、肩のあたりが少し軽くなっていた。


 美夏は指を動かして、ブラウザを開いた。


 今までは、怖くて開けなかった。遠さが具体的になることが、どうしても一段だけ重かった。でも今日は、違う気がした。


 楽団の公式サイトを開いた。アジアツアーの日程が、ページの上のほうに並んでいた。


 北京、上海、ソウル、台北、香港、シンガポール。そして今は、京都。最終公演は、東京。


 指で、東京の最終公演の日程を少しなぞった。


 六月末。そのあと、ウィーンへ。


 ちゃんとあった。終わりがちゃんと書いてあった。


 美夏は画面を閉じた。


 場所はまだ遠い。でも、その向こうには終わりがあった。終わりが書いてあるというだけで、遠さの感触が少し違った。


 椅子の背にもたれて、窓の外を見た。ウィーンの夕暮れが、まだ高いところに残っていた。屋根の連なりの上で、光がゆっくりと色を変えていた。


 もう一度だけ、写真を開いた。


 京都の朝の光は、ここの夕方の光と、どこかでつながっているような気がした。


-----


 京都の朝だった。


 公演が終わった翌日の朝、ルイはホテルを出て、人の少ない通りを歩いていた。昨夜の本番は順調に終わって、翌日の午後まで少し時間があった。朝の気配の残るうちに、少し歩きたくなった。


 石畳の坂を上って、二年坂のあたりで立ち止まった。まだ店が開く前で、通りは静かだった。木造の家並みが並んでいて、その奥に塔が見えた。


 どこか遠くで、低く鐘の音が一度だけ鳴った。


 響きは長く尾を引いて、坂の石に吸い込まれていった。


 ルイはスマートフォンを取り出して、写真を撮った。


 画面を確認して、一度はそのまま戻そうとした。でも、止まった。美夏のアイコンを開いて、写真を選んだ。添える文を少し考えて、短くした。


「七月の初めに帰る。」


 送ってから、スマートフォンをポケットに戻した。


 少し歩いて、角を曲がったところに、小さな土産物屋があった。まだ開けたばかりらしく、店の人が表を竹箒で掃いていた。砂と石を撫でる音が、規則正しく続いていた。ルイは会釈して、中に入った。


 木の棚に、いろいろなものが並んでいた。和紙のノート、扇子、金平糖、焼き菓子の詰め合わせ。夏生なつきたちに配れそうな無難なものを、ルイは目で探した。


 その途中で、手が止まった。


 木の棚に、西陣織の小さなチャームがいくつか並んでいた。布の地に、細かな金糸と色糸で花の模様が織り込まれていて、紐の先に小さな房がついていた。ひとつひとつ、色が違った。


 ルイは棚の前に少し近づいた。


 薄い藍色に、銀色の糸で小さな花が織られているものがあった。派手ではなかった。落ち着いた色なのに、光の当たり方で少しだけ表情が変わった。


 手に取った。


 軽かった。


 紐の先の房を、指先で揺らした。薄藤色の小さな房が、ふわりと揺れて、また静かに戻った。


 ヴァイオリンケースのポケットのファスナーにつけたら、似合いそうだな、と思った。美夏のケースの色とも合う気がした。


 美夏が肩にケースをかけて歩くと、房が少しずつ揺れる。そんな絵が、一瞬浮かんだ。


 手の中のチャームを、少し見た。それから、棚にそっと戻した。


 同じ店の別の棚に、和紙の栞が並んでいた。落ち着いた柄で、譜面にはさむのに使えそうだった。ルイはひとつを選んだ。淡い藍色の地に、薄紫のあじさいが静かに描かれていた。


 みんな向けの焼き菓子の詰め合わせも何箱か手に取って、レジへ持っていった。


 会計のあいだ、ルイの視線が一度だけ動いた。


 戻した場所に、まだあった。


 目を逸らして、カードを差し出した。


 店を出てから、坂を少しだけ下った。朝の光が、石畳の細かな凹凸に薄く影を作っていた。


 ルイは、ポケットの中のスマートフォンを、一度だけ確かめるように指で触れた。


-----


 七月の初め、ルイはウィーンに戻った。


 翌日、ギムナジウムのロビーで、十二月の公演に向けたスケジュールの打ち合わせが入っていた。夏生も来る予定だった。


 美夏は午後の授業を終えて、ロビーに向かった。


 広いロビーには、放課後の生徒が何人か残っていた。奥のソファに、夏生(なつき)が座っていた。その隣に、ルーカスもいた。


 美夏が近づいていくと、夏生が軽く手を上げた。


「お疲れ」


「お疲れさま」


 美夏は夏生の向かいに座った。ルーカスが少し微笑んだ。


「るいとは?」


 美夏がそれとなく聞いた。


「あと十分くらいで着くって」


 夏生がタブレットを開きながら答えた。


 美夏は頷いた。


 膝の上で手を組んだ。組んでから、すぐにほどいた。指先が、ひとりでに落ち着かなかった。


 数分経った頃、ロビーの入口のほうで、見慣れた姿があった。


 ヴィオラのケースを肩にかけたルイが、こちらへ歩いてきた。手に紙袋を一つ持っていた。


 美夏の顔が、一瞬だけ緩んだ。


 嬉しそうな表情になりそうになって、すぐに戻した。自分でも気づくより早く、そうなっていた。


「お疲れ」


 ルイが言った。


「おかえりなさい」


 ルーカスが先に立ち上がって、軽く頭を下げた。


「おかえり」


 夏生も言った。


 美夏も小さく頷いた。


「おかえり」


 声が少し小さかった。


 ルイは美夏の隣に座った。紙袋を机の上に置いた。


「これ、京都で。みんなで少しずつ、持って帰って」


「おー、ありがとう」


 夏生が紙袋を覗いた。


「焼き菓子の詰め合わせ? これ、家にも分けてもいいか」


「もちろん」


 夏生は少し笑った。


「母さん喜ぶな。はるくんも」


 ルーカスも、


「ありがとうございます。寮で少しずついただきます」


 と会釈した。


「京都って、やっぱり響きが違いましたか?」


 ルーカスが紙袋を見たまま、少し身を乗り出して言った。


「寺とか古い木の建物って、ホールとは残り方が全然違いそうで。日本の伝統音楽も、前からちょっと気になってるんです。音の重なり方とか、『間』の取り方とか、西洋とは考え方が違うでしょう」


 ルイは少し考えてから、


「ちゃんと聴き比べたわけじゃないけど、空気は違った。朝の静けさもあって、音を想像しやすい場所だった」


 と答えた。


 ルーカスが、何か言いかけて口を開いた。


 夏生が小さく笑って、タブレットを開いた。


「ルーカス、その話、あとで。今、打ち合わせ先に」


「あ……はい」


 ルーカスが少し笑って、姿勢を戻した。


 夏生が十二月の予定を一通り説明し始めた。ロンドン公演、ロウアー・スローターの教会、リハーサル日程、移動、宿。ルーカスはピアノの搬入や調律のことで、具体的な質問をいくつかした。ルイが短く答えた。美夏は聞きながら、ときどき頷いた。話の中身は入ってきていた。でも、ルイの顔を見るたびに、一拍だけ呼吸がずれた。


 一通り話が終わって、夏生のスマートフォンが震えた。画面を見て、少し顔をしかめた。


「悪い、ちょっと仕事。出てくる」


 夏生はスマートフォンを耳に当てながら、ロビーの外へ歩いていった。


 ルーカスも腕時計を見た。


「僕もそろそろ、進路面接があって」


「面接?」


 ルイが聞いた。


「はい。秋から最終学年なので。一人ずつ、先生と」


「そうか。頑張って」


「はい」


 ルーカスは立ち上がった。紙袋の中から、自分の分の焼き菓子を一箱取った。


 それから、美夏のほうを見て、


「美夏は明日だよね?」


「うん、明日」


 美夏が頷いた。


「お互い頑張ろう」


「うん」


 ルーカスは立ち上がってから、一度だけ二人のほうを見た。


 美夏は、いつもより少し静かだった。膝の上で指が、また組まれていた。ルイは、その静けさに、気づかないふりをしているように見えた。


 ルーカスは、その距離の取り方が、少しだけ前と違うことに気づいた。


 気づいて、すぐに目を伏せた。


 何も言わずに、小さく手を振ってロビーの奥へ歩いていった。


 美夏とルイが、二人だけになった。


-----


 ロビーの端のほうは、窓際に大きな観葉植物が置いてあって、人の気配が薄かった。美夏とルイは、そのまま同じソファに残っていた。夏生はまだ電話で話していた。


 美夏は、膝の上で指を組んだり、ほどいたりしていた。


 ルイは、ヴィオラのケースを横に置き直して、少し姿勢を変えた。


 沈黙が、少し長かった。


 美夏は口を開きかけた。


 やめた。


 もう一度、開きかけた。


 やめた。


 深く息を吸って、ようやく、


「……るいと」


 声が、少し小さかった。


「うん?」


 ルイは美夏のほうを見た。


 美夏は、膝のあたりに視線を落としたまま、続けた。


「エマさんって、るいとずっと一緒にいた人なんだよね」


 ルイは一瞬、黙った。


「……ずっと?」


「だって、好きだったって言ってたし」


 ルイの動きが、完全に止まった。


「……え? エマ?」


 本当にきょとんとした声だった。


 美夏は顔を上げた。


 ルイは、どこから説明していいかわからないような表情をしていた。演技ではなかった。


「エマと?」


「うん」


「……いつの話?」


「こないだの打ち上げで。エマさんが、昔好きだったって言ってたから」


 ルイは少しの間、視線を下に落とした。それから、少し苦笑した。


「音楽院のときの同期なんだ」


「うん」


「一緒に練習することは多かった。リハーサル室に残ったりね」


「うん」


「ウィーンの楽団に呼んでくれたのも、エマだよ。その意味で、世話になってる」


 ルイは膝の上に手を置いた。


「でも、僕はそういうふうに考えたことはなかった」


 声が、落ち着いていた。


「エマのほうがどう思ってたかは、知らなかった。でも僕は、一緒に音楽やってた同期以上には考えてない」


 美夏は、そこで少し息を吐いた。


 吐いてから、肩のあたりが少しだけ下がったことに、自分で気がついた。


 組んでいた指が、いつのまにかほどけていた。


 あ、と思った。


 名前のつく前のものが、胸の中で輪郭をはっきりさせかけていた。それを見られたくなくて、美夏は咄嗟に視線を逸らした。


「京都、どうだった?」


 慌てて、別の話題に移した。声が、少しだけ上ずった。


「あ、うん」


 ルイも少し、不意を突かれたような返事をした。


「静かだった。朝の時間、人が少なくて」


「写真、きれいだった」


「そう? よかった」


 ルイは、ヴィオラケースの取っ手に手を置いたまま、少し間を置いた。それから、


「……ああ、そうだ」


 机の上の紙袋の横に手を伸ばして、別の小さな包みを取り出した。


「これ、京都で見つけた」


 手のひらに、和紙の栞が乗っていた。淡い藍色に、薄紫のあじさい。


「譜面に使えるだろ」


 美夏は、受け取った。


 軽かった。和紙の手触りが、指先に少しざらついた。


「ありがとう」


 それだけ言うので、精一杯だった。


 それ以上言うと、声が変になりそうだった。


 ルイは、美夏のその反応を見ていた。


 強張っていた肩が、ほんの少しだけ下がったこと。組まれていた指が、いつのまにかほどけていたこと。慌てて別の話題に変えた不器用さ。栞を受け取ったときの、少しだけ強張った指先。


 全部、見えていた。


 ふっと、可愛いな、と思った。


 思ってしまってから、ルイは自分で少し驚いた。


 妹みたいなものだから、と、いつものように自分に言い聞かせかけて、止まった。


 言葉が、うまく形にならなかった。


 夏生がロビーに戻ってきた。電話は終わっていた。


「悪い、呼び戻された。もう出るわ」


「うん」


 美夏は頷いた。栞を、そっとカバンのポケットに入れた。


「ルイ、また連絡する」


「ああ」


 夏生が先にロビーを出ていった。


 ルイも立ち上がった。


「じゃあ、また」


「うん、また」


 ルイはヴィオラケースを肩にかけて、ロビーを出ていった。


 美夏は、しばらくソファに座ったままでいた。


 カバンのポケットに入れた栞の、軽さだけが残っていた。


 ポケットの上から、一度だけ、そっと手を当てた。


-----


 ルイは、自分の部屋に戻ってから、ヴィオラを置いて、少しの間、窓辺に立っていた。


 美夏の、さっきの顔が残っていた。


 ほっとしてしまったのか、でも、それを隠そうとした不器用さ。栞を受け取ったときの、強張った指先。


 それと、ロビーに着いたときに一瞬だけ緩んだ美夏の表情。ほんの一瞬、嬉しそうになって、すぐに戻った顔。


 ふっとまた、可愛い、と思った。


 ルイは窓の外を見た。


 七月のウィーンの夕方が、まだ高いところに光を残していた。屋根の連なりの向こうで、空がゆっくりと色を変えていた。


 妹みたいなものだから。


 いつもの言葉を、もう一度、口の中で転がしてみた。


 転がして、止まった。


 その言葉は、今日はうまく置き場所が見つからなかった。


 ルイは、窓のそばに立ったままでいた。


 わからないまま、ルイはしばらく、夕方の光のほうを見ていた。



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