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第26章 遠い約束

 寮の部屋は静かだった。


 美夏(みなつ)はコートを脱いで、ハンガーにかけた。机の上にスマートフォンを置いた。暖房が低く唸っていた。温室から戻ってきたばかりの肌に、部屋の空気は少し乾いていた。


 シェーンブルンを歩いたときに袖に触れた葉の匂いが、コートの生地にまだ残っている気がした。袖口を軽く鼻に寄せてみた。湿った土と、緑と、温室の空気。全部、遠くなっていくところだった。


 椅子に座った。


 スマートフォンを手に取って、画面を開いた。さっきのメッセージがそのまま表示されていた。


「言ってなかったけど、来週から楽団のツアーでしばらくウィーンを離れる」


 短かった。


 美夏はしばらく画面を見ていた。それから、返信の欄に指を置いた。


「気をつけて」


 打ってから、少し見ていた。


 消した。


「いつ帰ってくるの」


 打った瞬間に、消した。


「うん、わかった」


 これは少しの間、残した。でも送れなかった。


 送ってしまえば、何かが終わる気がした。でも、何が終わるのか、自分でもよくわからなかった。


 結局、指を離した。


 スマートフォンを机に伏せた。画面の光が消えた。


 ベッドに入ってからも、スマートフォンは机に置いたままだった。手の届く場所に置かなかった。それでも、そこに光らないまま在ることだけは、ずっとわかっていた。


 天井を見ていた。


 温室の葉の影の揺れが、まだどこかに残っていた。


---


 一週間が経った。


 日常は戻っていた。廊下にいつもの顔があって、練習室の予約表が埋まり、授業が流れていた。美夏も普通に授業に出ていた。普通に練習もしていた。


 でも、少しだけ前と違っていた。


 練習のあとにスマートフォンを見る癖がついた。新しいメッセージがないことを確認して、画面を閉じる。そのひと呼吸が、前にはなかった動きだった。


 譜面に書き込みをするとき、以前なら、ある箇所で手が止まった。るいとならここ、こう言うかな、と考える瞬間があった。今はその瞬間が来ると、書き込みをせずに譜面を閉じた。


 ルーカスとは、以前と同じくらいの頻度で会っていた。


 ピアノ科とヴァイオリン科は教室が違っていて、毎日顔を合わせるわけではなかった。週に何度か、合奏の授業や昼休みに話した。それ以外のときは、お互いの練習時間があった。


 ただ、会ったときの話し方が少し変わっていた。前なら踏み込んでいたところで、今は踏み込まなかった。昼休みに食堂で席が一緒になったとき、


「今日の先生、ちょっと機嫌よかったね」


 みたいな、軽い話をした。美夏は笑った。笑ったあとに、次の言葉を探していると、ルーカスはまた何でもない話をしてくれた。


 水曜日の合奏の授業のあと、教室の前だった。美夏は自分でも気づかないうちに、小さく声に出していた。


「アジアツアーって、どこ回るんだろう」


 ルーカスはそれが質問だったのか少し迷ったが、


「楽団の公式サイトに載ってるんじゃない?」


 と普通に返した。


「……あ、うん」


 声に出していたとは、思わなかった。


 あとで見ようと思った。でも、その夜、結局見なかった。


 見てしまえば、遠さが具体的になる気がした。


---


 ルイは北京近郊の高速道路を車で走っていた。


 北京で三日続いた公演は、前夜に終わったばかりだった。翌朝、地方都市への移動が始まっていた。


 運転席には現地スタッフ、助手席には楽器ケースとツアー資料。ルイは後部座席にいた。隣にも一人、楽団のスタッフが座っていた。


 楽団は数台に分かれて動いていた。今朝ホテルのロビーで見かけたエマは、先に出る別の車に乗っていた。


 窓の外は、春の北京郊外だった。


 山並みが遠くに続いていた。新緑が萌え始めた頃で、山肌に淡い緑と、まだ顔を出している黄土色の岩が混ざっていた。薄い灰色の空から、光がほんのり透けて見えていた。


 カーブを曲がったときに、遠くの稜線に、細い線が見えた。


 最初は木の陰だと思った。少し目を凝らして、違うと気づいた。


 万里の長城だった。


 山の稜線に沿って、灰色の壁が続いていた。途切れて、また現れて、また山の向こうへ消えていった。視界の外にも、続いているはずだった。


 ルイはしばらく、その方向を見ていた。


 遠くにあるものが、遠いまま続いていた。


 隣のスタッフが何か話しかけてきた。英語だった。明日のスケジュールのことだった。ルイは短く応じた。そのあと、スタッフのスマートフォンが鳴って、別の話に入った。車内がまた静かになった。


 ルイはスマートフォンを取り出した。


 美夏からの返信はなかった。あの夜のメッセージには、既読がついていた。それ以上はなかった。


 画面を閉じた。


 離れたら、響いてる音が少しは静かになると思っていた。でも何も変わらなかった。


 車は緩くカーブした。長城の線はもう見えなくなっていた。


 代わりに、遠くの山並みがずっと続いていた。


---


 金曜日の放課後だった。


 夏生(なつき)がギムナジウムに顔を出した。ロビーのソファで美夏とルーカスを待っていた。


 手にはタブレットを持っていた。


「ちょっと、いい知らせ」


 美夏とルーカスはソファの向かいに座った。夏生はタブレットを開いた。


「クリスマスのイギリス公演、正式に決まった」


 美夏は顔を上げた。


「ロンドンで一公演。そのあと、希望者だけでロウアー・スローターに移動して、村の教会でもう一公演やる」


 夏生はタブレットを美夏のほうへ向けた。日程と会場名が並んでいた。十二月二十三日のロンドン、二十六日の教会。


「教会にピアノを搬入するんですか?」


 ルーカスが聞いた。


「するよ。昔からの知り合いに頼んで、小型のグランドを一台入れる」


 ルーカスは小さく頷いた。


 夏生は頷いて、少し笑った。


「『海と光』の完全版、あの教会でやる」


 美夏は、夏生の顔を見た。


 夏生は続けた。


「ロンドンは百人規模、教会は三十人くらい。クローズドでいい。それぞれの家族や友人と、村の人と、あとは声をかけたい人だけ」


「すごくいいですね。あの曲の始まりの場所ですから」


 ルーカスが先に言った。


 美夏はまだ、何も言えなかった。


 ロウアー・スローター。村の教会。ピアノ。『海と光』の完全版。冬。


 その言葉が、一つずつ遠くから届いた。


 あの教会の、石の冷たさを思い出した。高い窓から落ちる光。るいとが隣に立っていた空気。「弓、まっすぐに」の声。そこへ、ピアノが入る。ルーカスのピアノが入る。三人で、完全版の『海と光』を弾く。


 美しい景色だった。


 なのに、その景色の中に立っている自分たちが、今どういう距離にいるのか、まったくわからなかった。


「行けるよな、二人とも」


 夏生が確認するように言った。


「うん」


 美夏は頷いた。ルーカスも頷いた。


「ルイさんも、やるって?」


 ルーカスが聞いた。


「今日の昼、電話で話した。ツアー中だったけど、やるって返事来たよ」


 夏生はタブレットを閉じた。


「母さんとはるくんにも、もう伝えた。楽しみにしてる」


 美夏は小さく息をついた。


 演奏者として嬉しいはずの話だった。でも、それは今の自分から少し離れた遠い冬の約束だった。


「じゃあ、また詳細は追って送るよ」


「うん」


 夏生は手を上げて、ロビーを出ていった。


---


 その夜、美夏は机の前に座っていた。


 カレンダーを開いた。十二月のページまで送った。二十三日と、二十六日。そこだけが、他の日と少し違って見えた。


 ロウアー・スローターの冬を、頭の中に描いた。石畳の上の薄い霜。アイ川が水量を落として、それでも石の間を縫う音は変わらない。教会の扉を押すと、外の風だけが遮られる。石の冷たさはそのまま中にある。高い窓。床に落ちる光。そこにピアノが一台入って、椅子が並んでいる。


 三人で弾く『海と光』。


 景色は、ちゃんと見えた。


 ただ、その景色の中のるいとの顔が、今夜は少しぼやけていた。


 机の上のスマートフォンを見た。今夜も新しいメッセージはなかった。


 美夏は画面を開いた。打ちかけて消した文は、もう残っていなかった。代わりに、空白のままだった。


 しばらく見てから、画面を閉じた。


 冬の約束だけが、今より先に形を持っていた。

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