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第25章 見えない距離

 夏生(なつき)が歩きながら言った。


「この先、主催者が席を取ってくれてる。小さい立食だけど、今回のツアーの打ち上げも兼ねてね」


 美夏(みなつ)は頷いた。ルーカスも黙って歩いていた。


 会場は劇場から歩いて数分のところにあった。古いレンガの建物の一階に入った小さなサロンで、窓から通りの灯りが見えた。白いテーブルクロスの上に、グラスと軽い前菜が並んでいた。スタッフが静かに動いていた。にぎやかすぎない、上品な会だった。


 サロンに入ると、主催者が手で促した。場の中央に、四人が並んだ。


 主催者が短い挨拶を始めた。


 三箇所のツアーだったこと。ブルターニュの海辺、ブルージュの小さなホール、そしてウィーンの今夜。それから、ヴィオラのルイ、ヴァイオリンの美夏、ピアノのルーカス、そしてプロデューサーの夏生を、順に名前で呼んだ。四人はそれぞれ、軽く頭を下げた。


 軽い拍手があった。


 挨拶が終わると、場の空気がほどけた。話し声が戻ってきた。四人は入口寄りのテーブルに着いた。


 主催者がルイのほうへ手を上げた。ルイは応じて、奥のテーブルへ歩いていった。何度か頷きながら、グラスを受け取った。


 夏生が美夏とルーカスのほうを見た。


「飲み物、何がいい?」


「炭酸水でいい」


「僕も同じで」


 ルーカスが言った。


 夏生はスタッフに頼んで、二人にグラスを渡した。


「俺もちょっと取材対応してくる。長くはならない」


 美夏は頷いた。


 夏生も奥のほうへ歩いていった。


 しばらくして、夏生が戻ってきた。


「みーちゃん、ルーカス、疲れたら早めに戻っていいからな」


 美夏は頷いた。ルーカスも軽く礼をした。


 そこへ、劇場関係者に連れられてエマが入ってきた。関係者が夏生のほうを示すと、エマは小さく頷いて、テーブルのほうへ歩いてきた。


「お誘いいただいてしまって」


 エマが笑いながら言った。明るい声だった。


「ミア、会食は遠慮するって帰ったわ」


 それから、夏生のほうを見た。


「夏生さんに、偉そうな感想を言ってすみませんでしたって伝えてほしいって」


 夏生は少し笑った。


「そんなこと気にしなくていいのに」


「そう言っておくわね」


 エマはグラスを受け取って、夏生の隣に立った。


 しばらく、場の話題は公演のことだった。エマと夏生は、軽く言葉を交わしていた。


 夏生がグラスを揺らしながら、懐かしそうに言った。


「そういえば、ルイってさ、昔よくあったよな。約束してたのに、エマと練習してて時間忘れてたやつ」


「あったわね」


 エマは笑って受けた。


「私が引き止めてたこともあるし。でも、ルイのほうが止まらなかったのよ。もう一回、もう一回って」


「あー、それな」


 夏生も笑った。美夏はグラスを持ったまま聞いていた。声が届く位置にいた。ルーカスも同じだった。


「周りから見たら、付き合ってるみたいだったけどな」


 エマは少しだけ間を置いた。それから、軽く笑った。湿っぽくない笑い方だった。


「私は好きだったわよ」


 美夏の手が、グラスの縁で止まった。


「でも、ルイがどうだったかは、最後までよくわからなかった」


 エマはそれだけ言って、グラスを少し傾けた。明るい声のままだった。


 夏生は「そっか」と短く返した。それ以上は聞かなかった。


 美夏は動かなかった。


 視線を上げられなかった。エマのほうも、夏生のほうも、見られなかった。ただ、自分の手の中のグラスの表面だけが、やけにはっきり見えた。


 隣で、ルーカスが少し動いた気配があった。こちらを見た気がした。でも、美夏はそのほうも見られなかった。


 少し経ってから、美夏はグラスをテーブルに置いた。


「にぃに」


 声は静かだった。


「少し疲れたから、先に戻るね」


 夏生は美夏の顔を見た。一拍だけ、何か言いかけて、やめた。


「……わかった」


 ルーカスが、ほとんど同時に動いた。


「僕も一緒に帰ります。夜遅いので」


 自然な声だった。


 夏生はルーカスのほうを見た。この場を自分が離れるわけにはいかなかった。主催者の席だった。少し間があった。


「……じゃあ、頼んでいいか」


「はい」


 ルーカスは頷いた。


 美夏は小さく頭を下げて、出口のほうへ歩き出した。ルーカスがその少し後ろについた。


---


 ルイは少し離れたところで、主催者と話していた。


 話の途中で、ふと視線が上がった。


 扉のほうへ目が動いた。美夏の背中があった。その少し後ろに、ルーカスがいた。二人は外へ出ていこうとしていた。扉が静かに閉まった。


 主催者の声が続いていた。ルイは頷いていた。グラスを持つ手は動かなかった。


 目の奥に、ふたりの背中が残った。


---


 夜のウィーンは静かだった。


 サロンを出ると、空気が冷たかった。石畳が街灯の光を薄く返していた。美夏とルーカスは並んで歩いた。どちらもしばらく話さなかった。


 通りを一つ曲がって、路面電車の線路のそばまで来た頃に、美夏が言った。


「ごめん、ちょっと疲れた」


「うん」


 ルーカスはそれだけ返した。


 美夏はそのあと、何も言わなかった。ルーカスも聞かなかった。街灯と街灯のあいだを、二人分の足音だけが続いた。


 美夏の寮の前まで来ると、美夏は小さく頭を下げた。


「ありがとう、ここまで」


「うん。おやすみ」


 美夏は寮の中へ入っていった。ルーカスはその背中を少し見てから、自分の寮のほうへ歩き出した。


---


 数日が経った。


 学校が始まった。ギムナジウムの廊下に、いつもの顔が戻ってきた。練習室の予約が埋まり始め、レッスンが再開した。美夏も普通に授業に出ていた。普通に練習もしていた。


 でも、少しだけ元気がなかった。


 廊下で会ったときの笑い方が、前より短かった。練習の合間に、窓の外を見ている時間が増えた気がした。


 ルーカスはそれに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。


 金曜日の練習の帰り、ルーカスは美夏の隣を歩きながら、できるだけ軽く言った。


「週末、付き合ってくれない?」


 美夏は少し顔を上げた。


「何?」


「旅の疲れは旅で癒せ作戦」


 美夏は一瞬、きょとんとした。


「……何それ」


「シェーンブルンの温室。あそこ、歩いてると少し旅してる気分になるから」


 美夏は小さく笑った。少しだけだった。でも、この数日の中で一番ちゃんと笑った気がした。


「ルーカス、旅好きだもんね」


「作曲するのに、いつも旅に出るし」


「だから温室?」


「気候帯ごとに空気が違うんだよ。歩くだけで、ちょっとあちこち行った気になる」


 美夏は少し考えてから、頷いた。


「じゃあ、行こうか」


---


 土曜日の午後は、空が高かった。


 シェーンブルンの庭園は広く、まだ少し冬の名残があった。落葉樹の枝は細く、芝生の色は薄かった。風は冷たかったが、日差しが落ち着いていた。ルーカスと美夏は、正面から伸びる長い砂利道をゆっくり歩いた。


 温室は庭園の奥にあった。高いガラスの屋根が、光を斜めに通していた。入口のドアを押すと、空気が変わった。湿って、あたたかく、少しだけ土の匂いがした。


「ほら」


 ルーカスが言った。


「ほんとだ。空気が違う」


 美夏が言った。


 中に入ると、背の高い植物が天井まで伸びていた。ヤシのような葉、太い幹、大きな花。歩くと、すぐに温室の区画が変わった。乾いた空気の場所、湿った空気の場所、花の匂いが濃い場所。そのたびに、いる場所が変わる感じがした。


「すごいね」


 美夏が言った。


「でしょ。少しだけ旅してる気になる」


 ゆっくり歩いた。ベンチが所々に置かれていた。ルーカスは一つのベンチを見つけて、美夏に座るように手で示した。美夏は座った。ルーカスも隣に座った。


 しばらく、二人で葉の影の揺れを見ていた。


「あのね」


 美夏が言った。


 ルーカスは顔を向けずに、「うん」と返した。


「エマさんのこと、考えちゃうんだ」


 ルーカスは黙っていた。


「大人で、堂々としてて、きれいだった」


 美夏は自分の手を見ていた。


「るいとの昔のこと、知ってると思ってたのに。音楽院の頃とか、リハーサル室に残ってた話とか、知らないことがたくさんあった」


 少し間があった。


 ルーカスは頷いた。


「あの夜、公演の音は、少し遠かった気がする」


 美夏は続けた。


「ブルターニュのときと、違う感じがした。うまく言えないけど」


 風はなかった。温室の中は静かだった。遠くでスプリンクラーの音が微かにしていた。


 美夏は少しだけ笑った。目が、少し潤んだ。


「何が嫌なのか、自分でもよくわからないの。ただ、遠かった」


 ルーカスはその横顔を見た。


 この数日、自分の中にあった感覚が、輪郭を持った気がした。


 美夏の揺れの中心にいるのは、もしかしてルイさんなのかもしれない。


 少し、痛かった。


 でも、口が動いてしまった。


「気になるなら、聞いてみてもいいんじゃない」


「わからないままのほうが、しんどいこともあるし」


 美夏に楽になって欲しかった。


 美夏は顔を上げた。


「……そうかな」


「うん」


 美夏はしばらく、揺れる葉のほうを見ていた。それから、小さく頷いた。


「そうだね」


 少しだけ、前を向いた気がした。


 そのとき、美夏のコートのポケットで、スマートフォンが短く震えた。


 美夏は取り出して、画面を見た。


 ルーカスは隣で、何も言わずに待っていた。


 美夏は少しの間、画面を見ていた。


 それから、ルーカスのほうへ、黙って画面を見せた。


「言ってなかったけど、来週から楽団のツアーでしばらくウィーンを離れる」


 それだけだった。


 美夏は画面を下げた。スマートフォンを膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


「……聞こうと思ったのに」


 小さな声だった。


「また、離れちゃう」


 ルーカスは何も言えなかった。


 温室の中は、あたたかかった。湿った空気が、肌に静かに触れていた。ガラス越しの光が、二人の足元に斜めに落ちていた。


 美夏はスマートフォンを握ったまま、揺れる葉のほうを見ていた。ルーカスはその横顔を、黙って見ていた。


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