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終章 るいと、いっしょ

 七月二十一日に、美夏(みなつ)は七十歳になった。


 村はずれの家の窓からは、牧草地の向こうに教会の塔が見えた。夕方の六時を過ぎても、空はまだ高かった。はちみつ色の石の壁が、少しずつ橙を吸いはじめていた。


 窓は開けてあった。川の音は、この家には細く、遠く届いた。四十年以上ここで暮らして、美夏はその遠さに慣れていた。


 窓のそばには、ケースが二つ並んでいた。


 ヴァイオリンケースのファスナーには、薄藤色の房が下がっていた。京都の同じ店で二人で選んだ、三つめのチャームだった。


 ヴィオラケースは、三年前から閉じたままだった。


 テーブルの上に、カップがひとつあった。その横に、今朝届いた封筒が置いてあった。昔、二人で歌を返しに行った町の、小さな学校からだった。


 カップを持つ手の甲に、薄いしみが浮いていた。左手の指先は、弦を押さえてきたぶんだけ硬かった。


-----


 玄関の扉が開いた。


「ママ、いる?」


 リアンだった。仕事の帰りに、ときどきこうして寄っていく。


 台所でグラスに水を汲んで、リアンは向かいの椅子に座った。


「来週、レオン帰ってくるって」


「子どもたちも?」


「うん。おじいちゃんとおばあちゃんのお墓にも、子どもたちを連れていきたいって」


 美夏は、窓の向こうの教会の塔を見た。


「じゃあ、にぎやかになるね」


 棚の上に、小さな木の汽車がひとつ置いてあった。春に来たとき、レオンの下の子が置いていったものだった。


 リアンが、鞄から薄い端末を出した。


「ママ、ちょっと見てほしいの」


 四十四になっても、何かを見せるときのリアンは、子どものころと同じ顔をした。


「今つくってるアプリ」


 画面は白かった。まんなかに、大きなボタンがひとつあった。その上に、小さな文字があった。


 「今、泣いていいですか?」


「『大人も泣いていいボタン』っていうの」


「長い名前」


「わかりやすいでしょ」


 リアンは、端末を美夏のほうへ滑らせた。


「大人って、泣く場所がないじゃない。泣いたら、元気出してとか、前を向こうとか言われる」


「うん」


「これは、泣いていいって言うだけ。そのあとは、どうしたいか選べるの。ひとりで泣いてもいいし、誰かの言葉を聞いてもいいし、話してもいい」


 画面の端に、小さなバケツの絵があった。


「これは?」


「涙のバケツ。泣いたら、ちょっとずつたまるの」


「たまったら、どうなるの?」


「どうもならない」


 リアンは少し笑った。


「数えたりもしないよ。ただ、たまるだけ」


 それから、画面の下のほうを指さした。


「ここの流れは、夏生(なつき)おじさんが、まだ改良の余地があるって」


「にぃに、まだ口出してるの?」


「昨日も改善案送ってきた。三つ」


 美夏は声を立てて笑った。


-----


 美夏は、大きなボタンに指を置いた。


 押した。


 画面の文字が変わった。


 「もちろん」


 部屋の明かりが、少しだけ落ちた。台所の換気扇が止まって、川の音が少し近くなった。


「Anywhere Homeにもつながってるの」


 リアンが言った。


「何も話さなくてもいいの。音だけ聴くこともできるよ。それぞれの家に残してある音も」


 リアンは椅子を引いて、美夏の隣へ移った。


 画面に、いくつかの言葉が浮かんだ。美夏は、そのなかの「音を聴く」に触れた。


 ファイルの一覧が出てきた。この家に残っている音だった。


 誕生日の歌。子どもたちが弾いた、たどたどしいピアノ。台所の笑い声。どこかの町の小さなホールで録った拍手。


 美夏は、日付の古いほうへ指で送っていった。


 「海と光」が、いくつもあった。


 いちばん下に、いちばん古い日付のものがあった。


 十二月二十六日。


 美夏の指が止まった。


 再生した。


-----


 石の床の上で、何かが小さく鳴った。


 若い男の声がした。


「いつでも」


 夏生の声だった。


 衣ずれの音がした。


 それから、ヴィオラが鳴った。


 低い音だった。


 その隣に、ヴァイオリンが入った。


 十五歳の音だった。まだ細くて、少し硬かった。それでも、ルイのヴィオラのすぐ隣にあった。


 気づくと、手の甲に涙がひとつ落ちていた。


 リアンは、隣で同じ音を聴いていた。


 美夏は、少し笑った。


「ほんとに、泣いていいんだね」


「もちろん」


 リアンが言った。


-----


 ヴィオラの低い音が、部屋のなかに続いていた。


 三歳の夏。「るいと!」と呼びながら、ダイニングを走っていったこと。


 すぐそばで鳴った、ヴィオラの低い音。


 初めて蓋を開けた、赤みがかったヴァイオリン。


 火曜日の教会。


 「海と光」。


 ウィーン。ロンドン。


 ルーカスの字で書かれた、薄い譜面。


 子どもたちの、小さな拍手。


 ブルターニュの台所の歌。


 知らない土地から届いた、いくつもの歌。


 るいとの隣を歩いた、遠い国の道。


 生まれたばかりのリアンの、小さな握りこぶし。


 レオンの、よく通る泣き声。


 この家の階段を、幼い子どもたちが駆け下りてくる音。


 ママの、歌う声。パパの、肩に置かれた手。


 白くなったるいとの髪。


 窓のそばに並んだ、二つのケース。


 旅から、この家へ帰ってきた日。


 るいとを見送った日。


 そして、川の音。


-----


 ヴィオラとヴァイオリンが、最後の音を並んで伸ばした。


 音が消えた。


 録音は、そこで終わった。


 窓の外から、川の音が細く届いていた。


 美夏は、ヴァイオリンケースの薄藤色の房を見ていた。


「私の人生は、ずっと」


 隣で、リアンが顔を上げた。


「るいと、いっしょ」


 美夏は微笑んで、もう一度、再生ボタンを押した。

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