第90話: 嫌いじゃないわ
翌朝——レンは執務室で、一枚の条約草案を睨んでいた。
草案の表題には『アルゴリズ=セントラリア王国間婚姻同盟条約(第三稿)』と記されている。ダリウスが徹夜で仕上げた外交文書だ。格調高く、一分の隙もない。条文の隙間から官僚の意地と睡眠不足が滲み出ている。
——この条約は、もう使わない。
レンはAIに問いかけなかった。答えは昨夜、自分で出した。
40点の告白。
あの不格好な言葉が、パン屋の薄暗い店内で、小麦粉の匂いの中でこぼれ落ちた瞬間のことを思い出す。エルナの「……でもまあ、しょうがないわね」という声が、まだ耳に残っている。
——さて。次は、もっと厄介な相手に向き合う番だ。
コンコン、と扉が鳴った。
「失礼します。セレスティア殿下が面会を求めておられます」
ダリウスの声だった。いつにも増して硬い。外交案件の緊張感か、それとも条約草案が無駄になることへの胃痛か。おそらく両方だろう。
「通してください」
「……レンハルト殿。この場に私も同席すべきでしょうか」
「いえ。二人で話します」
「承知しました。……胃薬の予備は引き出しの左上です」
「それは俺じゃなくてダリウスさんが使うやつでしょう」
ダリウスが無言で扉を開けた。
セレスティアは、白と青のドレスに身を包んで入ってきた。プラチナブロンドの長髪がティアラの下で揺れている。背筋はまっすぐで、足取りに迷いはない。
だが——深い青の瞳が、微かに揺れていた。
王女は窓際に歩み寄り、アルゴリズの朝の市場を見下ろした。精霊灯の消えた通りに、人々が動き始めている。遠くからパンの焼ける匂いが——風に乗って、ここまで届くはずはないのに、なぜかそんな気がした。
「座ってください。お茶でも——」
「結構よ」
セレスティアが振り返った。唇には薄い笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。
「単刀直入に聞くわ、レンハルト殿。——いえ、レン」
名前の呼び方が変わったことに、レンは気づいた。「殿」が外れている。外交の鎧を脱いだ、ということだ。
「あなたの答えを聞かせて」
長い沈黙はなかった。
「——政略婚は、受けられません」
セレスティアの瞳が——一瞬だけ、揺れた。だが次の瞬間には、もう表情を取り戻していた。
「理由は、AIの分析結果ではなくて?」
「違います。AIは『姫様との婚姻が最適解だ』と言いました。成功確率87%でしたかね」
「……87%。悪くない数字ね」
「悪くないです。でも、俺はその数字を閉じました」
セレスティアが少し眉を上げた。
「閉じた? あなたが? AIの出力を?」
「ええ。昨夜——告白しました。AIが書いた完璧な100語じゃなくて、自分の言葉で」
「……結果は?」
「40点」
セレスティアが——一瞬、目を見開いた。そして、ふ、と笑った。
初めて見る笑い方だった。高飛車でも、王女の微笑でもない。もっと素の、不意を突かれた人間の笑顔だった。
「40点って……あなた、本気で言ってるの?」
「エルナの採点は辛いんですよ」
「……パン屋の娘に40点をつけられた男が、わたくしを断るのね」
セレスティアは窓辺に背を預けた。朝日が逆光になって、プラチナブロンドの髪が白く光っている。
「パン屋の娘に負けるとはね」
声は平坦だった。だが——その言葉を口に出すこと自体が、セレスティアにとっては一つの決着だったのだろう。
「……でも、あなたの選び方は嫌いじゃないわ」
レンは黙って聞いていた。
「87%の最適解を閉じて、40点の告白を選んだ。——あなたらしいわ」
「褒めてるんですか?」
「半分は呆れてる。半分は——」
セレスティアが言葉を切った。深い青の瞳が、まっすぐにレンを見据えた。
「半分は、認めてる」
レンは条約草案を取り出した。婚姻同盟条約の第三稿を、セレスティアの前に置いた。
「これは使いません。でも——同盟は別の形で結びたいんです」
「別の形?」
「技術と伝統魔法の相互交流協定です。政略婚じゃなくて、純粋な国家間パートナーシップです」
セレスティアの目が——鋭くなった。王女の目だ。外交官の目だ。
「具体的には?」
「アルゴリズのAIガバナンスモデルと、セントラリアの伝統魔法技術の相互提供。人材交流プログラム。共同研究機関の設立。——対等な関係で」
「対等、ね」
「ええ。どっちが上とか下とかじゃありません。お互いの強みを出し合う。セントラリアには伝統魔法の蓄積がある。アルゴリズにはAIと自動化のノウハウがある。組み合わせれば——」
「わたくしの国を立て直せる」
セレスティアが低い声で言った。
そこには——政略婚を提案した時とは違う、もっと切実な響きがあった。
「セントラリアは伝統に誇りを持っているわ。でも——誇りだけでは国は回らない。AIの波はもうすぐ大陸を覆い尽くす。わたくしの国が取り残されるのは時間の問題よ」
「だから政略婚を?」
「それが一番確実な方法だったから。——でもね」
セレスティアが婚姻条約の草案を指先で押し返した。
「同盟は別の形で結びましょう。わたしにも誇りがあるの。AIに選ばれた相手と結婚するなんて、御免だわ」
最後の一文で——声が少し震えた。それを隠すように、セレスティアは顎を上げた。王女の姿勢に戻る。
「あなたの知恵を借りたい。わたくしの国を立て直すために」
一拍、置いた。
「——借りるのよ。もらうんじゃないわ」
レンは——少し笑った。
「借りるんですね。返済条件は?」
「セントラリアの伝統魔法の全アーカイブへのアクセス権。それが返済よ」
「……本当ですか。あれ、門外不出って聞いてますけど」
「門外不出を解くのが、わたくしの仕事よ。王女ですもの」
セレスティアの声に、また地が出た。ちょっとだけ得意げな響き。
レンは右手を差し出した。
「取引成立ですね。——いや、同盟ですか」
セレスティアは一瞬、差し出された手を見つめた。
そして——白い手袋を外した。
素手で、レンの手を握った。
握手は短かった。だが——確かだった。
扉の外から、甲冑の音が近づいてきた。
「姫殿下、お時間です。——お帰りの準備を」
アルデンが入ってきた。白銀の騎士鎧が朝日を反射している。端正な顔は——いつもの厳めしさの奥に、何かが隠れていた。
セレスティアがアルデンを見た。じっと。
「アルデン」
「はい、姫殿下」
「あなた、少し嬉しそうよ?」
アルデンの顔が——一瞬にして赤くなった。銀髪の下の鋼色の瞳が泳いだ。騎士道精神の体現者が、見事に動揺していた。
「き、気のせいです!」
「気のせいかしら。さっきから口元が緩んでるわよ」
「それは——朝食が美味しかったからで——」
「アルデン。あなた、朝食まだ摂ってないでしょう」
「…………」
アルデンが黙った。言い訳の余地がなくなった騎士は、直立不動の姿勢で天井を見つめていた。
レンは——声を出さずに笑いそうになるのを堪えていた。
セレスティアが小さくため息をついた。呆れと、もう一つ、名前のつけにくい感情が混ざったため息だった。
「……まったく。忠臣というのは、困ったものね」
アルデンがレンの前に立った。
二人は——向き合った。騎士と王。銀髪の剣士と、寝癖だらけの黒髪のAI使い。
アルデンの鋼色の瞳に、もう敵意はなかった。決闘で交わした剣の重さ。引き分けの後に芽生えた、奇妙な信頼。密偵としてアルゴリズを揺さぶった罪。——それら全てが、今この瞬間に凝縮されている。
「認めよう、レンハルト」
アルデンが言った。
「……いや。レン」
名前の呼び方を変えた。それだけで——二人の間の空気が変わった。
「お前の戦い方は、私とは違うが——弱くはない」
「お前もな」
レンが応えた。そして、
「あの工作は許してないけど」
アルデンの顔が——苦いものを噛んだように歪んだ。
「……面目次第もない」
「まあ、おかげでゴーレムの防衛システムを強化できたから、結果的にはプラスだった。——データ分析的にはな」
「お前は——何でもそうやって数字にするのか」
「嫌か?」
「嫌だ。——だが、嫌いじゃない」
アルデンが右手を差し出した。
白銀の籠手を外した、素手の右手。剣ダコだらけの、硬い手のひら。
レンがその手を握った。
強く。短く。
「次に会う時は——」
「ああ。敵としてじゃなく」
「そうだ」
握手が解かれた。
アルデンが一歩下がり、騎士の礼をとった。深い、敬意のこもった一礼。
レンは——その礼を、まっすぐに受け止めた。
執務室にダリウスが戻ってきた。手には新しい条約草案を持っている。
「レンハルト殿。同盟条約の修正稿を作成しました。婚姻条項を削除し、技術・魔法相互交流協定に差し替えております」
「早いですね。いつ書いたんですか」
「昨夜の時点で、二つの草案を用意しておりました。婚姻版と、非婚姻版と」
「……読めてたんですか」
「恋愛だけは、私の管轄外ですが」
ダリウスが淡々と言った。
「レンハルト殿がどちらを選ぶかは——昨夜、エルナ殿の工房に向かった時点で、明らかでした」
「見てたんですか!?」
「定時巡回の報告書に記載がありました。——私は管轄外です。管轄外の事象に対しても、行政官として備えるのは職務の範囲内です」
ダリウスの鉄面皮が——わずかに、ほんのわずかに、緩んでいた。
「……良い結果で何よりです」
「ダリウスさん——」
「条約の署名日程ですが、セレスティア殿下のご出発前に設定いたします。署名式の会場、列席者、調印後の宣言文——手配は完了しております」
「待ってください。なんでもう完了してるんですか」
「備えるのが、職務です」
ダリウスが踵を返した。扉の手前で、一瞬だけ足を止めた。
「……辞表は出しません。今日のところは」
調印式は、午後に行われた。
アルゴリズの大広間。かつてレンが建国を宣言した場所だ。精霊灯が柔らかな光を灯し、ゴーレムたちが整然と立ち並ぶ回廊に、セントラリアとアルゴリズ双方の要人が列席していた。
レンとセレスティアが、条約に署名した。
『アルゴリズ=セントラリア王国間技術・魔法相互交流協定』。
政略婚ではなく、対等なパートナーシップ。知恵と知恵の交換。
署名を終えたセレスティアが——レンに向き直った。
公式の場だ。王女の姿勢で、格式高い口調で。だが目には、さっき執務室で見せた素の光がまだ残っていた。
「レンハルト・コード・アルゴリズ。本日より、セントラリア王国はアルゴリズの同盟国となります。わたくしたちの協力が、両国の民に繁栄をもたらすことを」
「セレスティア姫様。アルゴリズは全力で応えます。——対等に」
会場に拍手が起きた。
カイルが後ろの列で「おーし!」と声を上げた。ダリウスが隣で「静粛に」と小声で制した。カイルは聞いていなかった。
調印式の後——セレスティアの馬車が、アルゴリズの正門前に用意されていた。
セントラリアの白い馬車。王家の紋章——獅子と百合——が金箔で描かれている。護衛の騎士たちが整列し、アルデンが馬車の傍に立っていた。
セレスティアが馬車に乗り込む前に、振り返った。
レンの隣に——エルナがいた。
エルナは朝の工房仕事を終えたばかりで、エプロンに粉がついたままだ。セレスティアの前に出るには、あまりにも普段着すぎる格好だった。
セレスティアがエルナを見た。
深い青の瞳と、緑の瞳が——交差した。
「パン屋の——」
セレスティアが言いかけて、止まった。
「……エルナ」
名前で呼んだ。
エルナが背筋を伸ばした。
「はい」
「次に会う時は、あなたのパンを持ってきなさい」
セレスティアの声は王女のそれだったが——どこか柔らかかった。
「味見してあげるわ。わたくし、舌には自信があるの」
「……わかりました。一番いいのを焼きます」
「一番いいの、ね。——期待するわ」
セレスティアが微笑んだ。今度は——王女の微笑ではなく、一人の女性の微笑だった。
そしてレンに視線を移した。
「レン」
「ああ」
「40点は——ちょっと低すぎると思うわよ。あなたの告白、そこまで酷くはなかったはずだけれど」
「……聞いてたんですか」
「聞いていないわ。でも、想像はつくもの」
セレスティアが馬車のステップに足をかけた。
「——次に会う時は、あなたの国がもっと面白くなっていることを期待するわ。わたくしの国を立て直す知恵を借りに来た時に、退屈だったら怒るわよ」
「退屈にはならないと思いますよ。うちの国は毎日何かが壊れてますから」
「まあ。それは心配ね」
「心配しなくて大丈夫です。壊れるたびに直すのが、うちのやり方ですから」
セレスティアが——笑った。
馬車に乗り込んだ。扉が閉まる直前に、声だけが聞こえた。
「嫌いじゃないわ、あなたの国」
馬車が動き出した。
白い車体が、朝の大通りを進んでいく。アルゴリズの市民たちが道の両側で見送っている。ゴーレムたちも——言われていないのに——通りの端に並んで、不動の姿勢で馬車を見送っていた。
レンは正門の前に立って、馬車が遠ざかるのを見ていた。
隣にエルナがいる。
「……行っちゃったね」
「ああ」
「きれいな人だった」
「……ああ」
「あたしとは全然違う」
レンがエルナを見た。エルナは馬車の方を見ていた。粉だらけのエプロン。小麦色のウェーブがかかった髪。大地のような穏やかな緑の瞳。
「エルナ」
「なに」
「君の方がいい」
エルナの頬が——赤くなった。
「……は? 何言ってんの。いきなり」
「事実だ」
「事実とか言うな。気持ち悪い」
「気持ち悪いって——」
「だって昨日まで何にも言わなかったくせに、急にそういうこと言うの、変じゃん」
「昨日言ったじゃん。40点で」
「40点だった自覚あるんだ」
「……あるよ」
エルナが——ふん、と鼻を鳴らした。
でも口元は——少しだけ、笑っていた。
「次はもうちょっとマシなこと言いなさいよ」
「善処する」
「善処じゃなくて実行しなさい」
「了解」
馬車が角を曲がった。白い車体が見えなくなった。
二人は——並んで立っていた。
春の風が吹いた。どこかからパンの焼ける匂いが——今度は本物の匂いが——風に乗って届いた。
「……あ。窯、火つけっぱなしだった」
「走れ!」
「あんたのせいだからね!」
「なんで俺のせいなんだよ!」
エルナが走り出した。レンがその後を追った。
アルゴリズの朝が、いつも通りに始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第90話「嫌いじゃないわ」。第7アーク「恋と陰謀の宮廷」第13話です。
セレスティアの退場を書きました。
彼女は最後まで王女でした。プライドを折らず、誇りを保ったまま、レンの選択を認めた。「パン屋の娘に負けるとはね」というあの台詞は、彼女なりの決着です。悔しさも、認める潔さも、全部あの一言に込めました。
そして同盟は「政略婚」ではなく「技術と魔法の相互交流」という形に。これはArc 8以降の戦争編で大きな意味を持ちます。セントラリアの伝統魔法とアルゴリズのAI技術の融合——その種がここで蒔かれました。
アルデンとレンの握手も、個人的に好きなシーンです。決闘で引き分け、密偵の過去を経て、素手で握手する。「嫌いじゃない」という言葉がセレスティアだけでなくアルデンからも出てくる——二人とも不器用なんですよね。
次話はArc 7最終話。全キャラクターが集結するエピローグです。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次話の励みになります!




