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固有スキル【生成AI】で異世界全自動化 〜魔法陣はAIで組み、国はAIが建て、気づけば俺の仕事がなくなりました〜  作者: 歩人


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第89話: 40点の告白

 パン屋の扉の前に——レンは立っていた。


 閉店の札がかかっている。「本日の営業は終了しました」。エルナの丸い字。少し斜めに傾いている。何度も書き直した跡がある。一枚目は「閉店」の「閉」が間違っていたのだろう。二枚目の上から三枚目を貼っている。


 そういう——不器用なところが、好きだ。


 扉の向こうから——かすかに音が聞こえる。水の音。洗い物をしているのだろう。閉店後の片付け。明日の仕込み前の清掃。エルナの日常。


 レンは——手を上げた。


 ノックしようとして——止まった。


 何を言うか。


 まだ決めていない。昨夜から何度も考えた。朝も考えた。政務の最中も考えた。ダリウスの報告を上の空で聞きながら考えた。歩いている間もずっと考えた。


 ——で、何も思いつかなかった。


 AIなら三秒で出力できる。完璧な100語。論理的で、感動的で、一分の隙もない告白文。あれを読めば——たぶん、スムーズにいく。


 読まない。


 読まないと決めた。


 レンは——息を吸った。夕暮れの空気。パン屋の周辺に漂う小麦粉と酵母の匂い。焼き上がりの残り香。一日の終わりの、甘くて温かい匂い。


 ノックした。


 三回。


 中から音が止まった。足音が近づいてくる。軽い足取り。革のブーツが木の床を踏む音。


 扉が——開いた。


「閉店だって——」


 エルナが顔を出した。


 エプロンがまだ濡れている。洗い物の途中だったらしい。袖を捲り上げた腕に、水滴がついている。小麦色のウェーブヘアが後ろで束ねられている。作業用の結い方。ほつれた毛が頬にかかっている。


 緑色の目が——レンを見た。


「……あんた? なに、閉店だよ」


「わかってる。パンを買いに来たんじゃない」


「じゃあ何」


「入っていいか」


 エルナが——少しだけ、目を細めた。レンの声の温度が、いつもと違うことに気づいたのだろう。レンは自分でもわかっている。声が微妙に上ずっている。心拍数が上がっている。AIに計測させたら「ストレス指数:高」と出るに違いない。計測しない。今日はAIを使わない。


「……入れば」


 エルナが扉を開けた。




 店内は薄暗かった。


 営業用の精霊灯は消えている。作業場の小さなランプだけが点いている。カウンターの上に、売れ残りのパンが二つ。ライ麦パンと、くるみパン。明日は値引きして売るのだろう。エルナは売れ残りを絶対に捨てない。


 小麦粉の匂いが——店内に満ちていた。


 石造りの窯の余熱が、まだほんのりと温かい。木のカウンター。使い込まれた棚。壁にかかった祖母のレシピ帳。もう何度も見た光景だ。この店に初めてパンを買いに来た日のことを覚えている。転生して間もない頃。何もわからなくて、何もできなくて、腹が減っていて——エルナが無愛想にパンを投げてよこした。


「何、突っ立ってんの。座りなさいよ」


 エルナがカウンターの椅子を引いた。自分は向かい側に立っている。エプロンの紐を結び直しながら。


 レンは——座らなかった。


 立ったままだった。


「……座れば?」


「いや——立ったままで言う」


「何を」


 エルナの目が——レンを見上げた。怪訝そうに。少しだけ警戒するように。レンの態度がいつもと違うことを、エルナの勘が察知している。


 レンは——口を開いた。


 AIの告白文が脳裏をよぎった。完璧な100語。「セレスティア」を「エルナ」に入れ替えれば——いや、だめだ。あの文章はセレスティア向けに最適化されている。エルナには響かない。エルナに響く言葉は——もっと、下手で、もっと不器用で、もっと——。


「エルナ」


「なに」


「俺は——えーと、その、つまりだ」


 言葉が——出てこない。


 前世で何百回もプレゼンをした。投資家の前でピッチをした。取締役会で新規事業の提案をした。口は回る方だ。言葉には不自由しない。


 ——はずだった。


 なのに今、言葉が出てこない。口が動かない。脳が空転している。エルナの緑色の目が自分を見ている。小麦粉の匂い。ランプの揺れる光。心臓がうるさい。


「君と出会ってから、パンの焼ける匂いが好きになって」


 出た。なぜそこから始めた。パンの匂いの話をしてどうする。告白だぞ。恋の話をしろ。パンの話じゃない。


「それはつまり——前世で言うと——えっと——」


 やめろ。前世の話をするな。IT用語を出すな。今それは要らない。


「——いや違う、えーと——」


 エルナが——腕を組んだ。無表情。いや、微妙に眉が動いている。呆れなのか。困惑なのか。それとも——。


「最初は一人でこの世界を何とかしようとしてて」


 そうだ。転生した直後。何もわからなかった。スキルだけ持って、一人で。全部AIに任せれば何とかなると思っていた。効率的に。最適に。完璧に。


「でも君のパンを食べて——」


 あの日のことを覚えている。エルナのパンを初めて食べた時。ゴーレムが焼いたパンと比較して、スペック上は差がないはずなのに——何かが違った。温度が違った。不均一なのに、均一なものより美味かった。


「あのパンを食べて、効率だけじゃないって思って——それは技術的に言えば最適化関数の定義域が——」


「……」


「いや、今のは忘れてくれ。えーと——つまり、俺は——」


 レンの額に汗が浮いている。夕方なのに。窯の余熱のせいだ。——いや、違う。自分の心拍のせいだ。


「AIに聞いたんだ。最適なパートナーは誰かって」


 エルナの目が——一瞬、揺れた。


「AIは——姫様って答えた。成功確率87%。完璧な告白文まで作ってくれた。論理的で、感動的で、一分の隙もない100語の——」


「……ふうん」


 エルナの声が——低くなった。


 まずい。誤解される。急いで続ける。


「それで俺は——閉じた。AIの出力を閉じた」


「……」


「あの告白文は完璧だった。でも——俺の言葉じゃなかった。AIが作った言葉だ。きれいで、正しくて、効果的で——でも俺の中から出てきた言葉じゃない」


 レンは——一度、口を閉じた。


 息を吸った。パン屋の匂い。小麦粉。酵母。薪の灰。エルナの匂い。


「だから——俺の言葉で言う。下手だけど。長いけど。要点がまとまらないけど」


 エルナは——黙っていた。


 腕を組んだまま。カウンターに背中を預けて。緑色の目がレンを見上げている。表情が読めない。いつもの辛辣な笑みはない。怒りも、呆れもない。ただ——静かに、待っている。


「俺は——君がいなかったら、たぶん——ヴィクトルと同じになってた」


 その言葉は——レンの中から、自然に出た。


「全部AIに任せて、全部最適化して、効率だけで回して——それで何かを失ったことにも気づかない、そういう人間になってた。でも君が——」


 声が詰まった。


「君が、いつも——横からツッコんでくれたから。『便利だけど味気なくない?』って。『あんたの不器用な言葉の方が好き』って。——それで俺は、何度も立ち止まれた」


 エルナの目が——微かに見開かれた。


「君は魔法が使えない。スキルもない。AIも使えない。でも——俺が出会った中で、一番正しい答えをいつも持ってる。データじゃない。分析じゃない。君の直感が——いつも、一番正しい」


 レンの声が——震えた。


 震えるな。最後まで言え。


「だから——俺は——」


 言葉が止まった。


 長い。長すぎる。前置きが長すぎる。エンジニアの悪い癖だ。要件定義と背景説明に時間をかけすぎて、結論にたどり着けない。


 エルナが——口を開いた。


「長い」


 やっぱり言われた。


「結論は?」


 レンは——息を止めた。


 AIの出力が脳裏をよぎった。完璧な100語。「二つの国のためではない。二人の人間として」。きれいな言葉。きれいな構成。


 ——使わない。


 俺の言葉で。


「好きだ」


 三文字。


 たった三文字。


 AIなら100語かけた内容を——三文字で。


 前置きは500語あったのに、結論は三文字。


 効率最悪だ。


 でも——俺の言葉だ。




 沈黙が——落ちた。


 パン屋の中に、沈黙が落ちた。


 ランプの炎が揺れている。窯の余熱が頬に触れている。窓の外で、精霊灯が点滅した。夜が始まっている。


 エルナは——動かなかった。


 腕を組んだまま。カウンターに背中を預けたまま。緑色の目がレンを見ている。表情が——読めない。


 五秒。


 十秒。


 十五秒——。


 レンの心臓が、壊れたタイマーのように鳴っている。返事が来ない。何か言ってくれ。何でもいい。辛辣なツッコミでも、呆れた溜息でも、「は?」でもいい。この沈黙が一番きつい。


 エルナが——口を開いた。


「……40点」


 レンの心臓が——止まった。


「合格ラインまであと60点」


 40点。


 100点満点の——40点。


 前置き500語の告白が、40点。AIなら87%の成功確率を出したのに。AIの完璧な告白文なら——たぶん90点くらいは取れた。それを捨てて、自分の言葉で行って——40点。


 赤点だ。


 不合格だ。


 レンは——立ち尽くした。


 足の感覚がなくなった。膝が震えそうだ。頭の中が真っ白になった。前世のピッチで投資家にノーを突きつけられた時と同じ感覚。いや——もっと痛い。比較にならない。


 沈黙が——さらに、長くなった。


 ランプの炎が揺れている。窓の外で風が吹いた。扉が軋んだ。


 エルナが——。


「……でもまあ、しょうがないわね」


 声が——小さかった。


 いつもの辛辣な声じゃなかった。もっと——小さくて。もっと柔らかくて。少しだけ——震えていて。


 レンは顔を上げた。


 エルナが——エプロンで顔を隠していた。


 両手でエプロンの裾を持ち上げて、鼻から下を覆っている。緑色の目だけが見えている。その目が——レンを見ている。レンを見ていて——。


 頬が——赤かった。


 エプロンの上端から覗く頬骨のあたりが、ランプの光だけでは説明できない赤さに染まっている。耳の先まで。


 レンは——呼吸を忘れた。


「……それは、合格ってこと?」


 声が掠れた。自分の声じゃないみたいだった。


「……自分で考えなさいよ」


 エルナの声がエプロンの向こうから聞こえた。くぐもっている。でも——震えていることだけは、はっきりとわかった。


「あんたの得意分野でしょ、分析」


 レンは——反射的にAIを起動しかけた。表情認識。感情分析。頬の赤みのRGB値から感情状態を推定——。


「えーと、表情認識によると——」


「AI使うな!」


 エルナが——エプロンから顔を出した。


 怒った顔。眉が吊り上がっている。唇が尖っている。いつもの辛辣な顔——なのに。なのに——目が潤んでいた。頬は赤いまま。怒りと——もう一つの感情が、ごちゃ混ぜになった顔。


 ハンナが言っていた。「レンさんは怒った顔が好きだと思うよ」と。


 ——正解だ、ハンナ。


「わ、わかった。AI使わない。使わないから——」


「当たり前でしょ! 告白しといてAIで表情分析って何! あんたの頭の中どうなってんのよ!」


「いや、癖で——」


「癖を直しなさいよ!」


 エルナがカウンターを叩いた。売れ残りのくるみパンが跳ねた。


 レンは——笑った。


 笑えてしまった。こんな場面で。緊張で死にそうだったのに。心臓が口から飛び出しそうだったのに。エルナの怒った顔を見たら——笑えてしまった。


 ああ。やっぱり、この人だ。


 AIの完璧な相手じゃなくて。政略婚の最適解じゃなくて。87%の成功確率じゃなくて。


 40点の告白を「しょうがないわね」と受け取ってくれる——この人だ。


「……でさ」


「何よ」


「40点は——合格なの? 不合格なの?」


「…………」


 エルナが——もう一度、エプロンで顔を隠した。


 緑色の目だけが見えている。目尻が——ほんの少し、下がっている。怒りではなく。呆れでもなく。


「……追試は認めてあげる」


「追試」


「一回で合格できると思わないでよ。あんたの告白、前置きが長すぎ。構成がめちゃくちゃ。途中でパンの匂いの話と前世の話がごっちゃになってるし、最適化関数とか言い出すし。——40点は甘い方よ」


「……甘いのか」


「本当は35点くらい。結論の三文字で5点オマケした」


「オマケ……」


 レンは——もう一歩、近づいた。


 カウンター越しの距離が縮まった。エルナが——後ずさらなかった。エプロンで顔を隠したまま、動かなかった。


「追試の条件は?」


「……パンの匂いが好きとか、意味わかんないとこから始めない。最適化がどうとか言わない。前世の話をしない。——あたしの名前を呼んで、結論から言う」


「結論から」


「そう。あんたはいつも前置きが長い」


「……エルナ」


 呼んだ。


 エルナの肩が——ぴくりと動いた。エプロンを握る手に力が入った。


「好きだ。君が」


 結論から。


 前置きなし。


 四文字。


 エルナが——エプロンの向こうで、何かを飲み込んだ。


「……30点」


「下がった!?」


「二回目だから減点した」


「そんなのありか!?」


「あたしの採点だから、あたしのルールよ」


 理不尽だ。完全に理不尽だ。AIに抗議を申し立てたい。——いや、AIは使わない。今日は使わない。


「……じゃあ何点なら合格なんだ」


「100点」


「100点の告白って何だよ」


「知らない。あたしもされたことないから」


 エルナの声が——少しだけ、笑っていた。


 エプロンの向こうで。見えないけど。声の温度でわかった。


「……でも」


 エルナが——エプロンを下ろした。


 顔が見えた。


 頬は赤い。目は潤んでいる。唇は——ほんの少しだけ、笑みの形をしていた。強がりの笑顔。泣きそうなのを堪えている笑顔。素直になれない、いつものエルナの笑顔。


「40点でも30点でも——あんたが自分の言葉で言ったんだから。しょうがないわよ」


 しょうがない。


 エルナの「しょうがない」は——祭りの誘いを受けた時と同じだ。弁当を届けに行った時と同じだ。パン焼きを手伝うと言った時と同じだ。


 「しょうがない」は——エルナの、一番素直な「はい」だ。


「エルナ——」


「はい、一回でいいから」


「え?」


「名前呼ぶの、一回で十分。何回も呼ばないで。——恥ずかしいから」


 最後の二語が——ほとんど聞こえなかった。


 でも聞こえた。


 恥ずかしい。エルナが。恥ずかしいと言った。


 レンの中で——何かが弾けた。嬉しさだ。純粋な、分析不可能な、データ化できない嬉しさ。


「……ありがとう」


「お礼とか——いいから」


「いや、言いたいから。ありがとう。AIの言葉を捨てて、自分で言って——よかった」


 エルナが——目をそらした。窓の方を見た。窓の外は夜だ。精霊灯が灯っている。市場通りの向こうに、アルゴリズの街並みが広がっている。二人で作った——いや、みんなで作った街。


「……あんたさ」


「ん?」


「AIの告白文。何点だった?」


「点数? AIの?」


「AIが作った完璧な告白。あれは何点だったと思う?」


「……わからない。完璧だったから——100点に近いんじゃないか」


「ふうん」


 エルナがカウンターに肘をついた。頬杖。赤みが少しだけ引いている。でもまだ残っている。


「あたしなら——0点」


「0点?」


「だって。誰が言っても同じ言葉でしょ。AIが作ったんだから。あんたが言う意味がない。——あんたの言葉じゃないなら、あんたじゃなくてもよかったってことじゃん」


 レンは——絶句した。


 エルナの分析が——AIより正確だった。


「40点の方がいい。だって、あんたにしか言えない40点だから」


 それは——レンがAIの出力を閉じた時に感じたことと、同じだった。


 俺の言葉じゃない。だから——意味がない。


 エルナは——AIを使わずに、その結論に辿り着いていた。最適化関数も、確率計算も、データ分析もなしに。直感で。


 やっぱり——この人の方が、ずっと正しい。




 窓の外に——炎が揺れた。


 レンは気づいた。窓の桟の外側に、小さな炎が一つ。


 イグニスだ。人型化せず、火の玉の姿で窓の外に浮いている。覗いていた。


 レンが睨むと——炎がぴくりと震えて、すっと消えた。見なかったことにしろ、というように。


「……何見てんの、外」


「いや。——何もない」


「ふうん」


 エルナが棚から何かを取り出した。売れ残りのくるみパン。


「はい」


「……なんだ」


「告白のお返し。——くるみパン一個」


「安くないか」


「40点の告白にはこれで十分。100点になったらフルコースパン食べさせてあげる」


「フルコースパンって何だ」


「知らない。今考えた」


 レンは——くるみパンを受け取った。


 まだ温かい。石窯の余熱で温度が保たれていたのだろう。手のひらに収まるサイズ。表面がきつね色に焼けている。くるみの破片が生地に練り込まれている。


 かじった。


 美味い。いつものエルナのパンだ。均一ではない。完璧ではない。でも——美味い。


「……美味い」


「当たり前でしょ。あたしが焼いたんだから」


 その声に——もう、震えはなかった。


 いつもの、強気な、辛辣な、でもどこか温かい——エルナの声。




 パン屋を出た。


 夜の市場通り。精霊灯が等間隔に灯っている。風が冷たい。春の終わりの夜風。


 レンの隣を——エルナが歩いていた。


 寮まで送ると言ったら、「別にいいけど」と言った。「別にいいけど」はエルナの「お願い」だ。もうわかっている。


 二人の間に——沈黙があった。


 居心地の悪い沈黙ではなかった。言葉にしなくてもいい沈黙。パンの匂いと、夜風と、精霊灯の光だけがある沈黙。


「ねえ」


「ん」


「さっきの——最適化関数がどうとかって。何の話だったの」


「……忘れてくれ」


「忘れない。40点の告白、全部覚えてるから」


「全部!?」


「当たり前でしょ。初めて告白されたんだから。——たとえ40点でも」


 レンは——頭を抱えた。


 あの混乱した告白が、一語残らずエルナの記憶に保存された。永久ストレージだ。削除権限がない。


「消してくれ。頼むから」


「絶対消さない」


「せめて前半の——パンの匂いのくだりだけでも——」


「むしろそこが一番面白かった。パンの匂いが好きになったのは、つまり最適化関数の定義域が——って、あんた何を言おうとしてたの」


「だから忘れろって——」


「一生忘れない。子供にも伝える」


「子供!?」


 レンの顔が——赤くなった。今度はレンの方が赤い。


 エルナが——笑った。


 声を出して。いたずらっぽく。でも——嬉しそうに。


「……あんたの告白、40点。——でも」


「でも?」


「あたしの人生で一番嬉しかった40点よ」


 その声は——エプロンで隠さなかった。


 レンの方を見て。まっすぐに。赤い頬のまま。


 レンは——何も言えなかった。


 感動した時に黙る。それがレンの癖だ。言葉が出てこない。AIなら即座に最適な返答を出力できる。でも——今は、黙っていていい。


 黙ったまま——手を伸ばした。


 エルナの手に——触れた。


 小麦粉の跡が残っている手。パン生地を叩き続けてきた手。温かくて、少し荒れていて、でも柔らかい手。


 エルナが——手を引っ込めなかった。


 指が——絡んだ。


 ぎこちなく。不器用に。お互いどちらの指をどう組めばいいかわからなくて、何度かやり直して。


 AIなら「最適な手の繋ぎ方」を教えてくれるだろう。


 ——聞かない。


 二人で——歩き出した。


 夜の市場通り。精霊灯の光。遠くでゴーレムが巡回する足音。夜番の衛兵の松明。


 40点の告白で繋いだ手は——100点の告白より、ずっと温かかった。




 寮の前で。


「じゃあね」


「ああ。——おやすみ」


「……おやすみ」


 エルナが扉に手をかけた。半分開けて——振り返った。


「あんた」


「ん?」


「明日——朝、パン買いに来なさいよ。焼きたてのやつ、取っといてあげるから」


「……ああ。行く」


「別に特別じゃないからね。いつも通りだから」


「わかってる」


「わかってないでしょ、あんたは」


 エルナが——笑った。最後にもう一度、いたずらっぽく。


 扉が閉まった。


 レンは——しばらく、扉の前に立っていた。


 手のひらに——エルナの手の温度が残っていた。小麦粉の匂いが。


「……40点か」


 呟いた。


 笑った。


 AIの87%を捨てて、40点を選んだ。


 ——後悔は、まったくなかった。




 執務室に戻ると——イグニスが窓の桟に座っていた。人型化した姿。赤い髪が夜風に揺れている。


「遅かったな」


「……見てただろ」


「途中まで。パン屋の窓で気づかれて退散した」


「最初から見るな」


「MCP接続が開いていたからな。——結果は?」


 レンは——椅子に座った。深く息を吐いた。天井を見上げた。


「40点」


 イグニスの瞳が——炎の色に揺れた。


「40点。——合格か?」


「……合格、らしい。追試込みで」


「ふん」


 イグニスが——笑った。声を出して。精霊が声を出して笑うのは珍しい。周囲の温度が二度ほど上がった。


「40点か。お前にしては上出来だ」


「どういう意味だ」


「数百年で一番変な術者は、数百年で一番不器用な告白をした。——だが」


 イグニスが立ち上がった。窓の外を見た。月が傾きかけている。夜が深い。


「あのパン屋の娘が笑っていた。それが——全てだろう」


 レンは——何も言わなかった。


 ただ——手のひらを見た。


 エルナの手の温度が、まだ残っている。


 40点。


 自分だけの——40点。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第89話「40点の告白」。Arc7「恋と陰謀の宮廷」第12話。このアークの、そしてこの作品の恋愛パートにおける最大の見せ場です。


AIの完璧な100語の告白文を捨てて、前置き500語・結論2文字の不器用な告白を選んだレン。エルナの採点は40点。でも「しょうがないわね」——エルナの一番素直な「はい」です。


エルナの「0点」評価が核心です。AIが作った完璧な告白は、誰が言っても同じ。あんたじゃなくてもいい。でも40点の告白は、レンにしか言えない。だから40点の方が価値がある。——この理屈は、AIが絶対に出せない答えです。エルナはAIを使わずに、この作品のテーマそのものを言い当てました。


そして手を繋ぐシーン。AIなら「最適な手の繋ぎ方」を教えてくれる。聞かない。不器用に指を絡める。それでいい。


次話では、セレスティアがレンの答えを受け入れ、新しい形の同盟が結ばれます。そしてヴィクトルとリーネの対比——同じ夜、正反対の結末が待っています。

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