第91話: 40点は消さない
セレスティアの馬車が去った翌日——レーヴェンからの使者が、アルゴリズに到着した。
使者は一人の官吏だった。レーヴェン王国の外交官で、ヴィクトルの側近でもある。痩せた中年の男で、目の下に深い隈があった。ダリウスと同じ種類の疲労の色だ。
使者が持ってきた書状の内容は、端的に言えばこうだった。
『ヴィクトル陛下より、レンハルト・コード・アルゴリズ殿へ。セントラリアとの同盟締結を祝す。つきましては、近日中にレーヴェンにて会談を開催したい。議題は三つ。第一に、セントラリア同盟を踏まえた大陸情勢の協議。第二に、AI技術の相互運用に関する覚書。第三に——私的な相談』
——私的な相談?
レンは書状を読み返した。ヴィクトルの書状は常にAIが生成した完璧な外交文書だが、最後の一行だけが——妙に素っ気なかった。AIの文体ではない。ヴィクトル自身が付け足したのだろうか。
「ダリウスさん、ヴィクトルからの使者に返書をお願いします。会談の日程を調整します」
「承知しました。——三つ目の議題、お心当たりは?」
「……たぶん、リーネさんのことです」
ダリウスが——珍しく、無言で頷いた。恋愛は管轄外だが、その影が外交に落ちていることくらいはわかる。
同じ日の午後——レーヴェン王国、ヴィクトルの執務室。
窓の外には、AIが設計した完璧な都市が広がっている。ゴーレムが掃除した通りに塵ひとつなく、精霊灯は最適な照度で灯り、建物は左右対称に並んでいる。美しいが——生活の匂いがしない。
ヴィクトルは机の前に座っていた。
目の前のAIインターフェースには、リーネとの関係修復のための推奨行動が表示されている。箇条書きで、優先順位つきで、成功確率のパーセンテージつきで。
——『推奨行動1: 花束を贈る(成功確率: 72%)』
——『推奨行動2: 手紙を書く(成功確率: 68%)』
——『推奨行動3: 24時間の冷却期間をさらに延長する(推奨)』
ヴィクトルは推奨行動を見つめていた。
花束。手紙。冷却期間。
——どれを選べばいい?
いつもならAIの推奨に従う。それが最適解だ。最適解に従えば、結果は最善になる。それが——ヴィクトルの世界のルールだった。
だが。
あの夜の花火を思い出す。
リーネが「花火、きれいね」と言った。ヴィクトルは——最適な鑑賞位置と火花の占有率を計算した。リーネは「もういい」と言って立ち上がった。AIは「24時間の冷却期間を置いてください」と出力した。ヴィクトルはそれに従い——追いかけなかった。
あの時、追いかけていれば。
AIに聞かずに、自分の足で。
——でも、何と言えばいい?
ヴィクトルにはわからなかった。AIなしでは、言葉が出てこない。AIが「最適な謝罪文」を生成してくれる。でもリーネは——AIの言葉を聞き分ける。完璧な100語の手紙より、不器用な一言を待っている。
それがわかっているのに——一言が出てこない。
扉が開いた。
「ヴィクトル」
リーネが入ってきた。淡い金髪が揺れている。深い青の瞳に——疲れた色が浮かんでいた。花火の夜から、ずっとだ。
「リーネ。……最適な関係維持のためのコミュニケーション頻度を計算した。週に三回の対面会話と、日に一度の——」
「わたしたちのことも、AIに決めてもらうの?」
リーネの声は——静かだった。怒っていないのが、逆に痛かった。
「……最適な関係維持のためのコミュニケーション頻度は——」
「もういい」
同じ言葉だった。花火の夜と、同じ言葉。
リーネが踵を返した。扉に向かって歩く。足音が——静かだ。怒りの足音じゃない。諦めの足音だ。
「リーネ——」
ヴィクトルが立ち上がった。
だが——次の言葉が出なかった。
AIインターフェースが点滅した。『推奨発言: 「待ってくれ」 → 成功確率: 41%』。
41%。低い。
ヴィクトルは——口を閉じた。
リーネが扉を開けた。振り返らなかった。
扉が閉まった。
ヴィクトルは——椅子に座ったまま、閉じた扉を見ていた。
AIが「関係状態: やや不安定。推奨: 冷却期間を48時間に延長」と出力した。
ヴィクトルはそれに従った。
——追いかけなかった。また。
廊下を歩くリーネの頬を、涙が一筋伝った。
声は出さなかった。王宮の廊下で泣くわけにはいかない。
——あの人は変わらない。花火の夜から、何も変わっていない。
リーネは窓の外を見た。完璧に設計された都市。完璧に管理された空。完璧に最適化された、人間の温度のない世界。
——わたし、花火がきれいだって言っただけなのに。
歩き続けた。涙を拭う手が——震えていた。
アルゴリズに話を戻す。
セレスティアの出発から二日後の夕方——レンは工房通りを歩いていた。
セントラリアとの同盟条約の事後処理が一段落し、ダリウスに「今日はもう帰りなさい」と追い出された。ダリウスに追い出されるのは珍しい。よほど疲れた顔をしていたのだろう。
夕焼けの市場通りを歩いていると——あちこちから声がかかった。
「レンハルト殿、セントラリアとの同盟、おめでとうございます!」
「殿下と結婚しなかったのか? もったいない!」
「エルナちゃんを選んだんだろ? わかってたよ!」
——噂が早すぎる。
レンは苦笑しながら手を振った。ハンナの情報網は精霊ネットワークより速い。
エルナの工房の前に着いた。閉店準備の看板が出ている。中からパン生地を叩く音が聞こえた。
扉を開けた。
「エルナ」
「ん? ああ、レン」
エルナが手を止めずに言った。カウンターの向こうで、明日の仕込みをしている。腕まくりをしたワンピースに、粉だらけのエプロン。金色がかった髪が夕陽に照らされている。
「閉店後に来るなら、せめてパン買ってってよ」
「買う。ライ麦のやつ」
「はいはい。棚の右端」
レンはパンを取って、カウンターに銅貨を置いた。
「あのさ」
「何」
「帰り、一緒に歩かないか」
エルナの手が——一瞬、止まった。
「……別にいいけど。仕込みが終わってからね」
「待ってる」
「そこ邪魔。奥で座ってて」
レンは工房の奥の椅子に座った。エルナがパン生地を成形する音が、規則正しく響いている。ゴーレムの均一なリズムとは違う、人間の不規則だけど確かなリズム。
窓の外が——少しずつ暗くなっていった。
仕込みが終わったのは、日が落ちてからだった。
エルナがエプロンを外し、手を洗い、髪の粉を払った。
「行くよ」
「ああ」
二人は工房を出た。
秋の夜の空気が冷たかった。精霊灯が通りを照らしている。ゴーレムたちが夜間の清掃作業を始めていて、静かな機械音が遠くに聞こえる。
しばらく黙って歩いた。
市場通りを抜け、住宅区に入ると、人通りが減った。精霊灯の間隔も広くなり、影が長くなった。
「ねぇ」
「何?」
「あの姫様——セレスティア。あの人、最後になんて言ってた?」
「色々言ってた。どの部分?」
「40点のこと」
「ああ。……『ちょっと低すぎる』って」
「へぇ。姫様の方があたしより甘いんだ」
「いや、エルナが厳しすぎるんだと思う」
「採点基準が違うだけよ。あたしの基準は、ちゃんと心がこもってるかどうか」
「こもってたろ」
「こもってたけど、言い方がひどかった。ローカルホストとか言い出した時点で減点だからね」
「……あれは緊張してて」
「緊張してるのはわかったよ。手、震えてたじゃん」
「見てたのか」
「見てたに決まってるでしょ。レンの顔、真っ赤だったし」
レンは頭を掻いた。
「……恥ずかしい」
「あたしの方が恥ずかしかったわ」
二人が歩いていた。肩が触れそうな距離で。
レンが——手を伸ばした。
エルナの手に触れた。
エルナの手が——びくっ、と震えた。
「……何」
「手」
「見ればわかる」
「繋いでいいか」
「……好きにしなさいよ」
手が、繋がれた。
エルナの手は——温かかった。パン生地をこねていた手。粉の匂いが微かに残っている。指先に薄いタコがある。
レンの手は——少し冷たかった。書類を触っていた手。インクの染みが親指についている。
二人の手が——合わさった。ぎこちなく。でも、確かに。
しばらく無言で歩いた。精霊灯の光が二人の影を長く伸ばしている。
「……ねぇ」
「何?」
「40点の告白、ちゃんと保存しといてあげる」
「消してくれ」
「絶対消さない」
「頼むから」
「嫌。あたしの一生の宝物にするの。レンが『ローカルホストに——いや違う』って言ったところ、永久保存版」
「エルナ——」
「何年後かに、子供に聞かせてあげる。お父さんの告白、40点だったのよって」
「子供!? 気が早すぎないか!?」
「誰も今すぐの話してないでしょ。将来の話。……レンと同じくらい鈍感な子が生まれたら、あたし泣くからね」
「……遺伝するのか? 鈍感って」
「知らないわよ。AIに聞けば?」
「AI使うなって言ったの君だろ」
「使っていい場面と悪い場面があるの。恋愛で使うのは禁止」
「その判定基準が曖昧すぎる」
「あたしが基準。あたしが禁止って言ったら禁止」
レンは——笑った。
エルナも——笑った。
手を繋いだまま、二人は暗い通りを歩いていた。
翌日——。
レンが執務室に入ると、いつもの顔ぶれが揃っていた。
カイルが窓際で腕を組んでいる。イグニスがレンの肩に乗っている。ダリウスが机の前で書類を整理している。
レンが座ると、カイルが口を開いた。
「よう、レン」
「ああ」
「やっと言えたか」
レンは——カイルの顔を見た。カイルは笑っていた。からかいではなく、まっすぐな、仲間の顔で。
「……ああ。言えた」
「遅すぎだ。俺がエルナちゃんに『レンはお前のことが好きだ!』って叫びたかったの、何回あったと思う?」
「頼むからそれはやめてくれ」
「やめたから感謝しろ。我慢するの大変だったんだぞ」
イグニスがレンの肩の上で、ふん、と鼻を鳴らした。
「鈍感すぎた。精霊界のどの炎よりも鈍い。こねた粘土の方がまだ反応が早い」
「お前——」
「事実を述べたまでだ。エルナの気持ちに気づかない期間、計測したら大陸歴で——」
「やめろ」
「——四百七十二日だ」
「数えてたのかよ!」
「暇だったからな。お前の鈍感を見守るのは、精霊にとって娯楽のようなものだ」
扉が開いた。
老師グレンが杖をついて入ってきた。白い眉の下の目が——笑っている。
「おお、小僧。聞いたぞ。エルナの嬢ちゃんとくっついたそうじゃないか」
「……じいさんまで」
「わしの時代は、もっとさっさと——」
「「「うるさい」」」
レン、カイル、イグニスが同時に言った。
グレンが杖を地面に突いて、ふがふがと笑った。
「まあよい。遅くとも、たどり着いたことに変わりはあるまい」
午後。
マルクが執務室を訪れた。手には計算帳。いつも通りだが、今日は——口元の笑みが少しだけ深かった。
「レンハルト殿。セントラリアとの同盟——あの条約、読ませていただきました」
「マルクさんの意見は?」
「技術・魔法の相互交流。それに伴う人材の往来。物資の流通経路の拡大。——つまり、市場が広がるということです」
マルクが計算帳を開いた。
「セントラリアとの交易路が正式に開放されれば、アルゴリズの商業圏は1.7倍に拡大する試算です。手作りブランドの海外展開も視野に入る。エルナさんのパンも、セントラリアの食卓に並ぶかもしれない」
「市場の話ですか」
「市場の話です。——恋愛は私の管轄外ですが」
ダリウスと同じことを言った。レンは笑いそうになった。
「ただ——」
マルクが計算帳を閉じた。珍しく、数字ではなく言葉を選んでいる顔だった。
「悪くないですね。あの姫様との政略婚より、こちらの方がリターンは大きい。長期的に見れば、ですが」
「損得の話ですか?」
「損得の話です。——全ての話は損得です。レンハルト殿が幸せなら、あなたの判断力が上がる。判断力が上がれば、国が良くなる。国が良くなれば、商売が繁盛する。——つまり、あなたの恋愛は私の利益です」
「……マルクさん、それ祝福のつもりですか?」
「祝福ではなく、投資評価です。——悪くない投資だったと、報告しておきます」
マルクが薄く笑って、踵を返した。
夕方。
学舎から帰ってきたフィオが、執務室の扉を蹴り開けた。
「先生!」
「扉はノックしろ」
「めんどい。——先生、結婚するの?」
「……いきなりだな。結婚はまだ先だけど——」
「エルナ姉ちゃんと付き合い始めたって、ハンナ姉ちゃんが言ってた。街中に叫んでた」
「ハンナ……」
「で。本当なの?」
レンはフィオの顔を見た。赤銅色のショートヘアが跳ねている。焦げ茶色の目が——真剣だった。
「ああ。本当だ」
「……ふうん」
フィオが腕を組んだ。12歳——いや、もう13歳になったか。小さな体で、大きな態度。
「エルナ姉ちゃんなら——まあ、許してあげる」
「フィオに許可を求めた覚えはない」
「あたしは先生の一番弟子だからね。口出す権利ある」
「一番弟子は自称だろ」
「自称じゃない。成績一番だもん」
フィオがふん、と胸を張った。それから——声が少し小さくなった。
「……先生」
「ん?」
「エルナ姉ちゃんのこと、ちゃんと大事にしなよ。あの人——あたしにいつもパン残しておいてくれるんだから。特別なパン。あたし用の」
「知ってる」
「知ってるならいい。——先生が変なことしたら、あたしが怒るからね」
「変なことってなんだ」
「AIに告白させるとか」
「やってない。自分で言った」
「ほんとに?」
「本当だ。40点だった」
フィオが——目を丸くした。
「40点って……先生、だっさ」
「うるさい」
「でもエルナ姉ちゃん、OKしたんでしょ?」
「した。……たぶん」
「たぶんって何。はっきりしなさいよ」
「エルナの答え方が曖昧なんだよ。『しょうがないわね』って——」
「それOKだよ。エルナ姉ちゃん、素直じゃないから。『しょうがない』はエルナ語で『嬉しい』だよ」
「……お前が通訳するのか」
「女の子の気持ちは、女の子の方がわかるの。先生より100倍ね」
フィオが扉に向かった。出ていく直前に振り返って——。
「先生」
「何」
「……おめでとう」
小さな声だった。照れくさそうに目をそらして、すぐに扉の向こうに消えた。
レンは——しばらく、閉じた扉を見ていた。
夜。
レンは一人で執務室に残っていた。
ダリウスが帰った後の静かな部屋で、明日の会議資料を読んでいた。セントラリアとの交流協定の実務計画。人材交流のスケジュール。伝統魔法のアーカイブへのアクセス権の詳細——。
イグニスが窓辺で炎を揺らしていた。
「主」
「ん」
「リーネのことだが」
レンの手が止まった。
「ヴィクトルからの使者が来た時、お前の顔が曇ったのを、俺は見逃していない」
「……ああ」
「花火の夜——ヴィクトルはリーネを追いかけなかった。AIの推奨に従って」
「知ってる」
「あの夜、お前は黙ってエルナの隣にいた。ヴィクトルはAIの言葉を選んだ。——同じ夜空の下で、正反対の選択をした」
レンは窓の外を見た。アルゴリズの夜景が広がっている。精霊灯が星のように灯っている。
「俺とヴィクトルは——同じスキルを持ってる。同じAIを使ってる。でも、使い方が違う」
「違う。お前はAIを道具にした。ヴィクトルはAIに自分を委ねた。——その差が、今、取り返しのつかない溝になっている」
「……リーネさんは、ヴィクトルの言葉を待ってる。AIじゃなくて、ヴィクトルの」
「だがヴィクトルには言葉がない。自分の言葉を使ったことがないからだ」
イグニスの炎が——小さく揺れた。精霊の感情が、炎の色に映り込んでいた。
「主。——あの男を救えるのは、お前だけかもしれん」
「……わかってる。ヴィクトルが会いたいって言ってきたのは、たぶんそのためだ」
「お前にできるのか。他人の恋愛を」
「できないかもしれない。——でも、同じスキルを持ってるからこそ、言えることがある」
レンは資料を閉じた。
「AIを閉じろ、って。自分の言葉で話せ、って。——俺がそうしたように」
「40点の告白で?」
「……うるさいぞ、お前も」
その夜——レンがエルナの工房の前を通りかかった時、裏口の物陰から、声が聞こえた。
泣き声だった。
しゃくりあげるような、全力の、遠慮のない泣き声。
「うぅ……うわぁぁぁん……」
レンは足を止めた。
物陰から——ハンナが出てきた。目が真っ赤で、鼻も真っ赤で、頬に涙の跡がいくつも走っている。花柄のエプロンで顔を拭っていたが、拭っても拭っても涙が止まらない。
「ハンナ? どうした、何かあったのか」
「うぅ……レン君……あたし……あたし、一番応援してたのに……」
「は?」
「エルナとレン君が……手、繋いでるの……あたし昨日見ちゃって……物陰から……」
「見てたのか!?」
「見てたよぉ! だってあたしがずっとずっとずっと応援してきたんだよ!? エルナが素直になれない時も、レン君が鈍感すぎる時も、あたしが裏で全部……全部……」
ハンナの涙が——止まらなかった。嬉し泣きだった。盛大な、全力の嬉し泣き。
「エルナが幸せで……あたしが一番嬉しい……あたしが一番応援してた……うぇぇぇん……」
「落ち着け」
「落ち着けないよぉ! あんたたちが遅すぎるからあたしの涙の蓄積量がすごいことになってるの! 四百七十二日分だよ!?」
「その日数どこから出てきた」
「イグニスさんに聞いた!」
「あいつ……」
ハンナがエプロンで顔をごしごし拭いた。拭い終わった顔は——笑っていた。泣き腫らした目で、鼻水が出ているのに、満面の笑みだった。
「レン君」
「何だ」
「エルナをよろしくね。あの子、素直じゃないから。でも、世界で一番あんたのこと好きだから」
「……ああ」
「あ、でも二番目はあたしだからね。あたしの方がエルナのこと長く好きだったんだから。友達としてだけど」
「それは——カテゴリが違うと思うけど」
「カテゴリとかいいの! 大事なのは気持ちの量でしょ! あたしの気持ちの量、計算してみなさいよ! AIで!」
「AIでは計算できない」
「じゃあわかんないじゃん」
「わかんないけど——多いのはわかる」
ハンナが——また泣きそうな顔になった。
「……やめて。優しいこと言わないで。また泣く」
「泣くな」
「無理。あたし泣き虫だから。エルナに似てるって言われるけどエルナより百倍泣く。あたしが泣かない日なんてないの。でも今日は特別。特別に嬉しい涙だから」
ハンナが最後にぐしぐしと鼻をかんで、にっ、と笑った。
「あたし、結婚式の介添え人やるからね。絶対。他の人に譲らないから」
「まだ結婚の話は——」
「早すぎるなんて言わないで! あたしはもう式のメニュー考えてるんだから! パンはエルナが焼くに決まってるけど、ケーキは別に用意して——」
「ハンナ」
「何」
「ありがとう」
ハンナが——また目を赤くした。
「……ずるい。そういうの、ずるい」
ハンナは泣きながら笑って、花柄のエプロンをはためかせて、夜の通りを走っていった。
レンは——その背中を見送った。
深夜。
執務室に戻ったレンを、ダリウスの置き手紙が待っていた。
丁寧な筆跡で——。
『レンハルト殿。緊急報告が一件入りました。
北方国境の偵察ゴーレムが異常を検知。大規模な魔力反応を観測しています。
パターン分析の結果——魔王軍の大規模な動きと一致。
詳細は明朝の会議にて。
なお、同様の報告がレーヴェンにも届いている模様です。
ヴィクトル陛下からの会談要請は、この件も含まれている可能性が高いと判断します。
——ダリウス
追伸: 胃薬の補充を手配しました。引き出しの左上です。今度は私のではなく、あなたの分です。』
レンは置き手紙を読み終えた。
窓の外を見た。
北の空が——暗かった。星が見えない。厚い雲が、北方から流れてきている。
レンはAIに問いかけた。
「北方の魔力反応、分析できるか」
AIが応答した。
『大規模魔力反応。推定規模: これまでの魔王軍の活動の5倍以上。移動パターンは侵攻準備と一致。推定タイムライン: 2ヶ月以内に国境到達。推奨: 即時防衛態勢への移行』
——2ヶ月。
レンは椅子の背にもたれた。
セレスティアとの同盟は結んだ。ヴィクトルとの会談も控えている。エルナとの関係も——ようやく。
だが。
世界は待ってくれない。
花火が綺麗だった夜。手を繋いだ帰り道。40点の告白。セレスティアの誇り高い退場。アルデンの握手。ハンナの嬉し泣き。フィオの小さな「おめでとう」。
——全部、守らなきゃいけない。
レンは立ち上がった。
窓の外の北の空を見つめた。
AI使いの王と、脳筋の親友と、辛辣なパン屋の恋人と、生真面目な宰相と、計算高い商人と、伝統魔法の師と、火の精霊と、生意気な教え子と、泣き虫のおせっかいと——。
全員で、戦う。
「イグニス」
「何だ」
「明日からは——忙しくなるぞ」
「いつもだろう」
「今度は、いつもの比じゃない」
イグニスの炎が——赤から、白に変わった。戦闘態勢の色だ。
「望むところだ。——主」
北の空から、風が吹いた。
冷たい風だった。
戦争の匂いがした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第91話「40点は消さない」。第7アーク「恋と陰謀の宮廷」最終話、第14話です。
14話に渡った「恋と陰謀の宮廷」が完結しました。
このアークのテーマは「人間関係はAIで最適化できない」でした。
セレスティアの政略婚、アルデンの密偵工作、メイラの失恋、ルッツの品格ある敗北、そしてレンの40点の告白。全ての恋愛と人間関係が、「AIの最適解」を超えた場所で決着しました。
レンとエルナの手繋ぎシーン、書いていて照れました。「ローカルホスト」を永久保存すると宣言するエルナの容赦のなさは、この作品の恋愛パートの核心です。40点だろうが、不器用だろうが、自分の言葉で言ったからこそ価値がある。
一方で、ヴィクトルとリーネの対比が——このアークの中で最も痛いシーンになりました。花火の夜、追いかけなかった。その代償が、もう取り返しのつかない溝になっている。レンが「黙って見る」を選んだ時、ヴィクトルは「AIの推奨」を選んだ。同じ夜空の下で、二人のAI使いは正反対の道を歩き始めました。ヴィクトルとリーネの物語は、まだ終わっていません。彼が自分の言葉を見つけるのは、もっと先の話です。
ハンナの号泣シーンは、書いていて自分もちょっと泣きました。四百七十二日応援し続けた女の、全力の嬉し泣き。結婚式の介添え人を今から予約する強さ。ハンナ、お前は最高の親友だ。
そして——北方から、不穏な風が吹いています。
次のアークは「世界最適化戦争・防衛編」。魔王軍の大規模侵攻が始まります。レンとヴィクトルに共闘の必要が迫られる。AIで戦争を最適化するとはどういうことか。人を守るために、何を選ぶのか。
恋愛が終わり、戦争が始まる。
ここからが——本当の戦いです。
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