第86話: わたしはそれでいい
大陸祭の翌日。
午後の学舎は、静かだった。
子供たちは祭りの翌日で休講。教室には誰もいない。窓から差し込む午後の光が、教卓や机の上にやわらかな影を落としている。
メイラは教卓に座って、報告書を書いていた。
第二期生の授業進捗レポート。フィオの成績推移。新しいカリキュラムの提案書。——やることは山ほどある。ペンが紙の上を走る音だけが、静かな教室に響いている。
丸眼鏡の奥のグリーンの瞳が——時折、窓の外に向く。
昨夜の祭りのことを、考えないようにしていた。でも——考えてしまう。
遠くから見た。レンさんとエルナさんが、屋台を歩いているのを。花火の前に、並んで丘を上っていくのを。
見に行くつもりはなかった。カイルくんに誘われて祭りには行ったけれど、途中で一人になって——ふと見上げた丘の上に、二人のシルエットが見えた。
花火が上がった時、二人の距離が——近かった。
メイラはそこで、目をそらした。
それ以上は見なかった。見たら——もう、強がりが続かないから。
コン、コン。
教室のドアがノックされた。
「メイラ、いるか?」
レンの声。
メイラの心臓が——跳ねた。
いつものことだ。レンさんの声を聞くと、心拍数が上がる。魔法理論を解析する時と同じ——いや、違う。もっと制御できない種類の反応。
「はい、います」
声が震えないように。いつもの穏やかな声を意識して。
レンがドアを開けて入ってきた。片手にインクの瓶を持っている。
「報告書、今日までだったよな? そろそろ回収に来たんだけど」
「ちょうど仕上がったところです」
メイラは教卓の上の報告書を揃えた。数枚の紙を、きちんと角を合わせて。
レンが教卓に近づいてきた。報告書を受け取り、ぱらぱらとページをめくる。
「……相変わらず丁寧だな。グラフまでつけてある」
「データは視覚化した方が伝わりますから」
「フィオの成績、ここ一ヶ月で急上昇してるな。メイラの教え方がいいんだろ」
「フィオちゃんが努力した結果です。わたしは——きっかけを作っただけ」
レンが——顔を上げた。
「メイラ」
「はい」
「いなかったら、学舎は成り立ってない。本当に——助かってる」
メイラは——微笑んだ。
いつもの、穏やかな笑顔。
「ありがとうございます」
——嬉しい。レンさんに認めてもらえるのは、嬉しい。
でも。
「助かってる」は、「好きだ」ではない。
「信頼できる仲間」の言葉。「恋する相手」の言葉ではない。
わかっている。ずっと前から。
レンが報告書を鞄にしまいかけた時。
メイラは——口を開いた。
自分でも予期しなかった。言うつもりはなかった。でも、今日、この教室で、二人きりで、午後の光の中で——言葉が、喉の奥から上がってきた。
「レンさん」
「ん?」
「わたし、ずっと——」
——好きでした。
言おうとした。言葉は喉まで来ていた。舌の上に乗っていた。あと少し、声にするだけ。
でも——。
昨夜の花火が蘇った。
丘の上の二人のシルエット。近い距離。花火の光に照らされた、あの——。
メイラは言葉を飲み込んだ。
「……いえ、何でもありません」
レンが首を傾げた。
「何だよ、気になるだろ」
「本当に何でもないんです。ちょっと、報告書のことで追加したいことがあったかなと思ったんですけど——やっぱり、大丈夫です」
「そうか? 追加があるなら後で持ってきてくれ」
「はい」
メイラは微笑んだ。
レンは——気づいていない。メイラが何を言おうとしたのか。何を飲み込んだのか。
鈍感だな、と思った。いつもの、優しい苛立ち。
でも——その鈍感さが、今は少しだけ、ありがたかった。
気づかれたら、強がりが崩れてしまうから。
レンが鞄を肩にかけた。
「じゃあな、メイラ。報告書、ありがとう」
「レンさん」
呼び止めた。今度は——覚悟して。
「なんだ?」
「昨日の花火……楽しかったですか?」
レンの表情が——ほんの一瞬、変わった。隠しきれない何かが、目の奥に光った。
「……ああ。楽しかった」
「エルナさんと一緒に見たんですよね」
「……なんで知ってるんだ」
「ハンナさんから聞きました」
レンが頭を掻いた。困った時の癖。
「あいつ、口が——」
「レンさん」
メイラの声が——静かに、教室に響いた。
「レンさんは、エルナさんしか見ていないですよね」
レンの手が、止まった。
沈黙。
午後の光が、埃の粒子を照らしている。窓の外で鳥が鳴いている。遠くで子供たちの声がする——祭りの余韻で遊んでいるのだろう。
「メイラ——」
「わたしは、それでいいんです」
メイラの声は——震えていなかった。
丸眼鏡の奥の目が、まっすぐにレンを見ている。
「……いいんです」
もう一度、言った。
自分に言い聞かせるように。
「エルナさんは、いい人です。レンさんを人間に引き戻してくれる人です。わたしには——それはできませんでした。わたしはレンさんの魔法に興味を持って近づいて、レンさんの技術に感嘆して、レンさんの——」
声が、揺れた。
「——レンさんの、不器用なところが、好きに——」
止めた。
深く息を吸って。吐いて。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
「メイラ」
「大丈夫です。大丈夫ですから」
メイラは笑った。丸眼鏡の奥の目が、潤んでいた。でも——笑っていた。
「わたしはそれでいい。レンさんがエルナさんと幸せになってくれるなら——わたしは、それでいいんです」
レンは——何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。AIに問いかけることもできた。最適な応答を生成させることもできた。でも——それは、違う。
「……メイラ。俺は——」
「言わなくていいです」
メイラが首を横に振った。
「レンさんが優しいのは知っています。でも今、優しい言葉をもらったら——泣いてしまうので」
「……」
「行ってください。報告書は、来週の分も早めに出します」
レンは——鞄の紐を握りしめた。
何かを言うべきだと思った。でも、何を言っても——傷つけてしまう気がした。
「メイラは——すごいやつだ」
「知ってます」
メイラが笑った。泣きそうな笑顔。でも——強い笑顔。
「わたし、天才ですから」
「……ああ。間違いなく」
レンが教室を出た。ドアが閉まった。足音が廊下に遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなった。
教室に——静寂が戻った。
メイラは教卓に両手をついた。
肩が震えている。
笑顔が——崩れた。
涙が、頬を伝った。丸眼鏡のレンズに落ちて、視界がぼやけた。
「……っ」
声を出さなかった。声を出したら——本当に崩れてしまうから。
好きだった。
ずっと好きだった。
レンさんが魔法陣の構造を楽しそうに語る時の目が好きだった。技術の話に夢中になりすぎて周りが見えなくなる癖が好きだった。困ると頭を掻く仕草が好きだった。
でも——エルナさんを見る目は、わたしに向ける目と違った。
わたしに向ける目は、「信頼できる仲間」の目。温かくて、穏やかで、でも——それだけ。
エルナさんに向ける目は——不器用で、戸惑っていて、でも——レンさんらしくないくらい柔らかくて。
それを見た時から、わかっていた。
わかっていて——認めたくなくて——ずっと、強がりを続けてきた。
でも。
昨日の花火で——終わりだと思った。
あの二人の距離を見て。あの二人の空気を感じて。
——もう、強がりが、限界。
メイラは眼鏡を外した。袖で目を拭った。涙が袖に染みる。
「……ばか」
小さく呟いた。誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。
教室のドアが——開いた。
「よ——」
カイルだった。
大きな体を教室のドアに挟むようにして立っている。手に紙袋を持っている。中身はたぶん——焼き菓子だろう。祭りの屋台の袋が見える。
「メイラ、フィオのやつが菓子を——」
カイルの声が止まった。
メイラが泣いているのを——見た。
教卓に手をついて、眼鏡を外して、袖で目を拭っている。小さな肩が震えている。
カイルの表情が——固まった。
メイラがカイルに気づいた。慌てて眼鏡をかけ直す。涙を拭う。笑顔を作ろうとする。
「あ、カイルくん。ごめんなさい、ちょっと——目にゴミが」
「嘘つくな」
カイルの声は——いつもより、ずっと静かだった。豪快で、声が大きくて、考える前に動くカイルが。今は——静かだった。
メイラの作り笑いが、崩れた。
「……ごめんなさい」
「謝んな」
カイルが教室に入ってきた。大きな足音が、静かな教室に響く。
メイラの前に立った。
何を言えばいいか、わかっていないのが——顔に出ていた。大きな手が所在なさげに動いている。紙袋を持ったり、反対の手に持ち替えたり。
「泣くなよ」
絞り出すように言った。
「……俺、泣いてる女が一番苦手なんだ」
メイラは——泣き止めなかった。
カイルの不器用な声が、逆に涙を誘った。優しいくせに、優しいと言わないこの人。
「カイルくん、優しいですね」
「うるせえ! 俺は優しくねえ!」
カイルの顔が赤くなった。怒っているのではない。照れているのだ。泣いている女の前で、どうしていいかわからなくて——声を張ることしかできない。
「優しくねぇし、気の利いたことも言えねぇし——」
カイルが紙袋をメイラに差し出した。
「これ。フィオのやつが、メイラ先生に渡してくれって。祭りの焼き菓子」
メイラは紙袋を受け取った。中を覗くと、砂糖がまぶされた焼き菓子が入っている。手作り屋台のものだ。形が少し不揃いで、焼き色にムラがある。
「フィオちゃんが?」
「おう。『先生、昨日祭り楽しめなかったでしょ。だから持ってって』だとさ」
メイラの涙が——また溢れた。でも今度は、少し違う涙だった。
「……あの子は、鋭いですね」
「鋭いっつーか、あのチビは見てるんだよ。人のこと、よく」
カイルが教卓の隣の椅子を引いた。座った。大きな体が、小さな椅子にぎりぎり収まっている。
「メイラ。レンのことだろ」
メイラは——驚かなかった。カイルが鈍感でないことは知っている。
「……はい」
「レンは——バカだ。鈍感で、気づかなくて。でもな」
カイルが天井を見上げた。
「あいつが悪いんじゃねぇ。メイラが悪いんでもねぇ。誰が悪いって話じゃねぇんだ。ただ——そういうもんなんだ」
「……はい」
「俺は恋愛のことはわからん。でもな——泣いてるお前を見て、何もできねぇ自分が一番腹立つ」
カイルの大きな手が——メイラの頭に、そっと置かれた。
ぽん、と。
一回だけ。
「泣くだけ泣いたら、菓子食え。甘いもんは効く。たぶん」
メイラは——カイルの顔を見上げた。
大きな体。金髪短髪。日焼けした肌。まっすぐな青い目。
この人は——自分が思っていたより、ずっと、ずっと不器用で。
そして——ずっと、ずっと温かい。
「……ありがとうございます、カイルくん」
「だから礼はいらねぇって。俺は何もしてねぇ」
「菓子を持ってきてくれました」
「それはフィオのやつだ」
「椅子に座ってくれました」
「座っただけだろ」
「頭を、撫でてくれました」
「撫でてねぇ! 叩いただけだ!」
「叩いてもいません。ぽんって置いただけです」
「……うるせぇ」
カイルが耳まで赤くなった。
メイラは——少しだけ、笑った。
泣きながら笑うのは、変な顔だと思った。でも——泣いているだけより、ずっといい。
メイラは焼き菓子を一つ、口に入れた。
甘い。砂糖の甘さと、バターの香りと、焼き加減のムラが生む食感の違い。手作りの菓子だ。
「……美味しい」
「だろ。手作り屋台の菓子はうめぇんだ。ゴーレムのやつより」
「エルナさんのパンと同じですね。均一じゃないから、いい」
「ああ。……って、メイラ。エルナの名前出して大丈夫か?」
メイラは——首を傾げた。
「大丈夫ですよ。エルナさんのことは、嫌いではありませんから」
「……そうか」
「嫉妬はしました。でも、嫌いにはなれませんでした。あの人は——まっすぐで、強くて、優しくて。レンさんが惹かれるのは、わかります」
メイラが二つ目の菓子を取った。
「わたしはね、カイルくん」
「おう」
「学舎の子供たちがいます。研究があります。フィオちゃんの成長を見届ける仕事があります。——自分の道は、自分で作ります」
カイルは——黙って、メイラを見ていた。
小柄で、華奢で、泣いた後の目が赤くて、丸眼鏡がずれていて——でも、背筋がまっすぐだった。
「お前、強いな」
「強くないです。泣いてたじゃないですか」
「泣いた後に菓子食って、前を向けるやつは強いんだ」
「……カイルくんの言葉ですか?」
「いや——じいさんの受け売り」
「グレン師の?」
「うちの村のじいさん。じーちゃんが昔言ってた。泣いた後に飯が食えるやつは大丈夫だって」
メイラは焼き菓子を見つめた。
不揃いな形。ムラのある焼き色。完璧じゃない。でも——美味しい。
「……わたし、大丈夫です」
「おう」
「大丈夫じゃなくても——大丈夫にします。自分で」
メイラが眼鏡をきちんとかけ直した。涙の跡を袖で拭った。
窓の外に夕陽が傾いている。大陸祭の翌日の、静かな午後。
「カイルくん」
「なんだ」
「明日から、また授業があります。第二期生のカリキュラムを見直さないと。新しい魔法理論の教材も作りたいし——」
「おい、もう仕事の話か」
「止まってたら、考えちゃうので。動いてる方が、いいんです」
カイルは——立ち上がった。小さな椅子がギシッと鳴った。
「メイラ」
「はい」
「俺は気の利いたことは言えねぇけど——」
カイルが後頭部を掻いた。レンの癖がうつったのか、それとも照れ隠しか。
「菓子が切れたら、また持ってくる」
「……ありがとうございます」
「礼はいらねぇっつってんだろ!」
カイルが大股で教室を出ていった。ドアの向こうで「くそ、なんか恥ずかしいな」と呟いているのが聞こえた。
メイラは——一人になった教室で、もう一つ焼き菓子を食べた。
甘い。
涙と砂糖が混ざって、変な味がした。でも——悪くなかった。
夕陽が教室を橙色に染めていた。
メイラは教卓の上を片付けた。報告書のコピーを整理し、ペンを引き出しにしまい、教室の鍵を持って立ち上がった。
窓際に立った。夕陽が丸眼鏡のレンズに反射して、小さな光の粒を壁に映した。
——好きだった。
レンさんのことが、好きだった。
でも。
好きだったのは——レンさんの横顔で、レンさんの言葉で、レンさんの不器用さで。
レンさんが好きだった自分のことも——嫌いじゃなかった。
だって、好きになれたということは——わたしの心が、ちゃんと動いていたということだから。
メイラは窓を閉めた。
明日から、また学舎がある。子供たちが来る。フィオちゃんが質問してくる。新しいカリキュラムを組まなきゃいけない。研究論文も書きかけだ。
やることは——山ほどある。
それがいい。
自分の道は、自分で作る。
誰かに選ばれなくても。誰かの隣にいられなくても。
わたしには——わたしの場所がある。
メイラは教室の鍵を回した。カチリと小さな音がした。
廊下を歩く。夕陽が長い影を作っている。
まだ少し、胸が痛い。
でも——足は止まらなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第86話「わたしはそれでいい」。第7アーク「恋と陰謀の宮廷」の第9話です。
メイラの失恋の回でした。
「レンさんはエルナさんしか見ていない。わたしはそれでいい。……いいんです」——自分に言い聞かせるように繰り返す「いい」が、全然よくないことを伝えています。でも、メイラはそれを選んだ。自分から身を引くことを。
カイルの不器用な慰めは、この話のもう一つの軸です。「泣くなよ……俺、泣いてる女が一番苦手なんだ」。気の利いたことは言えない。でも——そこにいた。菓子を持ってきた。頭をぽんと触れた。カイルにできることは、それだけ。でも、それだけで十分な時がある。
「泣いた後に飯が食えるやつは大丈夫」。カイルの村のおじいちゃんの言葉ですが、これは真実だと思います。
メイラの物語はここで終わりではありません。選ばれなかった人には、選ばれなかった人の美しい道がある。「自分の道は自分で作る」。その先にあるものは——もう少し先のお楽しみです。
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