第87話: ありがとうございました
放課後の鐘が鳴った。
三度、低く、長く。アルゴリズ学舎の時計塔から響く音は、街を夕方の色に染め替える合図だ。子供たちが教室から飛び出していく。笑い声と足音が廊下に溢れて、やがて遠ざかっていく。
ルッツは——中庭のベンチに座っていた。
膝の上に両手を置いて、まっすぐ前を見ている。視線の先には何もない。学舎の白い壁と、その上に広がる夕空だけだ。橙色と紫が混ざり合った、今日一日が終わろうとしている空。
今日、言う。
心の中で——もう百回は繰り返した言葉だ。今朝も素振りをしながら繰り返した。昼飯を食いながら繰り返した。午後の鍛錬でカイルに「集中しろ」と怒鳴られている最中も、頭の中はその言葉でいっぱいだった。
俺、あなたが好きです。
たった、それだけ。
それだけの言葉が——どうしてこんなに、重い。
ルッツが学舎の廊下を歩いていると、フィオとすれ違った。
「あ、ルッツ。まだいたの」
「お、おう。ちょっと——用があって」
「用? 放課後に?」
フィオが怪訝な顔をした。ルッツが放課後の学舎に残っているのは珍しい。授業が終われば真っ先に飛び出して鍛錬場に向かうのがいつものルッツだ。
「あたし知ってるよ。メイラ先生、まだ教室にいるよ」
「——っ」
ルッツの顔が一瞬で赤くなった。
「べ、別にメイラさんに用があるとは——」
「言ってないけど、顔に書いてある」
フィオが腕を組んだ。先生譲りの、人を見透かすような目つき。この子は本当に鋭い。学舎で「疑う力」を鍛えた結果がこれだ。
「……ルッツ」
「な、なんだ」
「がんばれ」
フィオは——それだけ言って、背中を向けた。
手を振りながら廊下の角を曲がっていく。小さな背中。先生の影響で本をいつも抱えている。
ルッツは——拳を握った。
十八年生きてきて、今が一番怖い。ダンジョンの魔物より怖い。カイルの本気の打ち込みより怖い。
でも——兄貴が言った。
剣も恋も、振らなきゃ当たらねえ。
教室の戸を——開けた。
夕陽が、斜めに差し込んでいた。
窓が西向きで、この時間帯の教室は橙色の光に満ちる。教壇の上の花瓶に活けた白い花が、夕陽に染まって薄い桃色に見えた。机が整然と並んでいる。黒板には午後の授業の板書がまだ残っていた。メイラの丁寧な文字。記述魔法の構文規則。ルッツには半分も読めない。
メイラは——黒板を消しているところだった。
黒板消しを手に、背伸びをして上の方を拭いている。白いローブの袖が肘まで捲り上がっていて、華奢な腕が見えた。薄い金髪が夕陽に透けて、ほとんど光そのもののように輝いている。
丸眼鏡の奥のグリーンの瞳が——ルッツを見た。
「あら、ルッツくん。どうしたの? もう放課後よ」
「……はい」
声が——出た。かろうじて。
メイラが黒板消しを置いた。教壇を降りて、ルッツの方に歩いてくる。白衣のローブが揺れる。チョークの粉が指先に残っている。いつもの穏やかな笑顔。
「忘れ物?」
「いえ——違います」
「鍛錬は? カイルくんが待ってるんじゃない?」
「今日は——兄貴には断ってあります」
メイラが首を傾げた。ルッツが鍛錬を休む。それ自体が異常事態だ。
「座ってもいいですか」
「え? ええ、もちろん」
ルッツは——前から三番目の席に座った。自分がいつも座る席だ。授業中、ここからメイラの話を聞いていた。半分も理解できなかった。でも——メイラの声は好きだった。難しい理論を一生懸命かみ砕いて、わかりやすく説明してくれる声。
メイラが——向かいの席に座った。教壇ではなく、生徒の席に。ルッツと向き合う形で。
夕陽が二人の間を横切っている。
沈黙が——落ちた。
時計塔の鐘はもう鳴り終えている。廊下の足音も消えた。学舎の中は静かだ。遠くで鳥が鳴いている。窓の外の木の葉が、風に揺れて影を落としている。
ルッツは——膝の上の拳を見つめていた。
握りすぎて白くなっている。練習では千回言えた言葉が、今、出てこない。口を開いて、閉じて、また開いて。声が裏返りそうで、息を飲む。
言え。
今言わなかったら——いつ言うんだ。
「メイラさん」
声が——出た。裏返らなかった。自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
メイラが——少し目を見開いた。ルッツの声の温度が、いつもと違うことに気づいたのだろう。
「俺、あなたが好きです」
言った。
「ずっと前から」
言えた。
ルッツの目は——まっすぐメイラを見ていた。逸らさなかった。声も震えなかった。額に汗が浮いていた。耳の奥で心臓が鳴っていた。でも——逃げなかった。
「——返事を聞かせてください」
メイラの手が——膝の上で、小さく握られた。
丸眼鏡の奥の瞳が揺れている。驚き。戸惑い。そして——痛み。何かを飲み込むように、一度唇を噛んだ。
長い沈黙。
夕陽が少し傾いた。教室の影が伸びた。黒板の板書が橙色に染まっている。
メイラが——口を開いた。
「……ルッツくん」
声が——少しだけ震えていた。
「ありがとう。あなたの気持ちは、とても嬉しい」
嬉しい。
その言葉に含まれている温度が——ルッツにはわかった。嘘じゃない。本当に嬉しいと思ってくれている。でも——。
「でも、わたしは今——」
メイラの声が途切れた。
グリーンの瞳が——夕陽の中で揺れた。何かを言おうとして、言葉を探して、見つからなくて。
ルッツは——知っていた。
メイラがレンを好きなこと。ずっと前から知っていた。メイラがレンの話をする時の声の温度が変わること。レンが教室に来た時にだけ、眼鏡を直す仕草が増えること。レンが他の誰かと笑っている時に、メイラの笑顔が一瞬だけ固まること。
全部——見ていた。
見ていて——それでも好きだった。
「……わかりました」
ルッツは——笑った。
笑えた。
歯を食いしばるでもなく、唇を震わせるでもなく、ただ穏やかに——笑えた。自分でも不思議なくらい、自然に。
「聞けてよかったです」
メイラが——顔を上げた。
「言わないで後悔するより、ずっといい。兄貴に——カイルさんに言われたんです。剣も恋も、振らなきゃ当たらねえって」
「カイルくんが……」
「ええ。だから、振りました。——空振りでしたけど」
ルッツが頭を掻いた。いつもの癖。でも今は——少しだけ、その手が震えていた。
メイラの目に——涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい。わたし——」
「謝らないでください」
ルッツが——遮った。穏やかに。だが、はっきりと。
「メイラさんは何も悪くない。好きな人がいるのは——普通のことです。俺だってそうだから」
メイラが唇を噛んだ。涙が一滴、頬を伝った。丸眼鏡のレンズに、夕陽の光が反射した。
ルッツは——立ち上がった。
椅子を静かに戻した。背筋を伸ばした。まっすぐに、メイラに向き合った。
そして——深く、一礼した。
「ありがとうございました」
頭を下げた姿勢で——三秒。
その三秒の間に、ルッツは全部を飲み込んだ。
悔しさも。痛みも。もしかしたら、という淡い期待の残骸も。全部——腹の底に沈めた。
顔を上げた時——ルッツは笑っていた。
泣いていなかった。
走らなかった。
背筋を伸ばして——教室を出た。
廊下は——静かだった。
放課後の学舎。生徒はもういない。夕陽が廊下の窓から差し込んで、床に長い影を引いている。ルッツの足音だけが、規則正しく響いている。
一歩。
二歩。
三歩。
教室から離れるごとに——足が重くなる。
四歩目で——止まった。
壁に——背中をつけた。
天井を見上げた。白い天井。夕陽の反射で薄く橙色に染まっている。
「……痛ぇな」
声が——掠れた。
笑えていたのに。教室では笑えていたのに。メイラの前では——ちゃんと、笑えていたのに。
天井がぼやけた。
一筋だけ——涙が、右の頬を伝った。
拭わなかった。一筋だけだ。一筋だけ——許した。泣くなよ、と自分に言い聞かせた。兄貴の前で泣くな。でもここは一人だから。一筋だけなら——いいだろう。
好きだった。
メイラの声が好きだった。難しい理論を説明する時の、少し早口になる声。わからない生徒に根気よく教え直す時の、優しい声。レンさんの名前を呼ぶ時の——少しだけ特別になる声。
あの声が、俺に向くことは——なかった。
わかっていた。
わかっていて——好きだった。
それでいい。
言えた。それだけで——いい。
涙が顎まで伝って、落ちた。革鎧の胸当てに、小さな染みが一つできた。
足音が聞こえた。
重い。大きい。廊下の向こうから近づいてくる。
ルッツは——慌てて顔を拭った。袖で、雑に。涙の跡を消そうとした。消えたかどうかわからない。
カイルだった。
廊下の角から現れた。いつもの革鎧に大剣を背負っている。鍛錬場の帰りだろう。汗の匂いがする。
カイルの目が——ルッツを見た。
壁に寄りかかっているルッツを。少しだけ赤い目を。
カイルは——何も言わなかった。
何も聞かなかった。
「どうだった」とも。「大丈夫か」とも。「次がある」とも。
ただ——歩み寄って。
ルッツの隣を通り過ぎる瞬間——肩を、ぽんと叩いた。
大きな手。分厚い掌。鍛錬で硬くなった指。
一度だけ。
強すぎず、弱すぎず。
それだけだった。
カイルはそのまま歩き去った。背中が廊下の奥に遠ざかっていく。振り返らなかった。
ルッツは——その背中を見ていた。
肩に残っている温度。大きな手の重み。
「……兄貴」
声が——震えた。
教室では震えなかったのに。メイラの前では一度も震えなかったのに。
カイルの背中が見えなくなってから——ルッツは、もう一度天井を見上げた。
涙は——もう出なかった。
一筋だけだ。許したのは一筋だけ。
ルッツは壁から背中を離した。
背筋を伸ばした。深呼吸した。夕方の空気が肺を満たした。少し冷たくて、少し甘い。学舎の庭に咲いている花の匂いが混ざっている。
——明日から、また素振り千回だ。
恋は空振りだった。でも——剣は、まだ振れる。
ルッツは歩き出した。
背筋を伸ばして。前を向いて。
泣かない。走らない。
——それがルッツの矜持だった。
教室に——メイラが残されていた。
夕陽はもう沈みかけている。橙色だった光が深い紅に変わっていた。教室が赤く染まっている。ルッツが座っていた席。前から三番目。椅子が丁寧に戻されている。
メイラは——両手で顔を覆っていた。
丸眼鏡の下から、涙が止まらなかった。
ルッツの気持ちは知らなかった。いや——薄々は気づいていたのかもしれない。ルッツの声が裏返ること。ルッツの顔が赤くなること。ルッツの不器用な腕力アピール。全部——見ていたはずだ。
でも——目を逸らしていた。
レンさんのことで精一杯で。自分の気持ちで精一杯で。ルッツの想いに——向き合う余裕がなかった。
「ごめんね、ルッツくん」
声にならない声で呟いた。
あの子は——笑っていた。「聞けてよかったです」と。「言わないで後悔するより、ずっといい」と。
十八歳の男の子が、あんなふうに笑えるものだろうか。
わたしは——レンさんの前で、あんなふうに笑えなかった。言葉を飲み込んで、「何でもありません」と誤魔化して、一人で泣いた。ルッツは——言った。まっすぐに。逃げずに。
そして——「ありがとうございました」と頭を下げた。
振られた側が、お礼を言う。
あの子は——わたしより、ずっと強い。
メイラは涙を拭った。眼鏡を外して、袖で目元を拭って、もう一度かけ直した。
視界がクリアになった。
教室は夕闇に沈みかけている。黒板の板書はもう読めない。窓の外に一番星が光り始めている。
「……わたしも」
メイラは立ち上がった。椅子を戻した。ルッツと同じように——丁寧に。
「わたしも、前を向かなきゃ」
教室を出た。廊下に——ルッツの気配はもうなかった。
メイラは——歩き出した。
寮に向かう夜道。精霊灯が一つずつ灯り始めている。足元に自分の影が伸びている。
この街に来て——いろいろなことがあった。レンさんに出会った。エルナさんに出会った。子供たちに魔法を教えることの喜びを知った。フィオという才能の塊みたいな生徒ができた。
そして今日——ルッツくんという、まっすぐな人に、好きだと言ってもらえた。
わたしの人生は——悪くない。
選ばれなかった。でも——選んでくれた人がいた。
それは——とても、温かいことだ。
メイラは——少しだけ、泣きながら笑った。
翌朝。
鍛錬場に、いつもより早くルッツがいた。
まだ夜が明けきらない薄暗がりの中で、素振りをしていた。いつもの片手剣。型にはまらない、カイルを真似た大振り。でも——今朝の素振りには、いつもと違う何かがあった。
力み——がなかった。
いつもは「強くなりたい」と力んでいた。もっと速く、もっと鋭く。そういう焦りが剣筋に出ていた。カイルに「力を抜け」と何度も言われた。抜けなかった。
今朝は——抜けていた。
何かを手放した後の——静かな剣筋。
カイルが鍛錬場の入り口に立っていた。いつから見ていたのか。大剣を肩に担いで、無言でルッツの素振りを見ている。
「……百八十三」
ルッツが数えている。声が淡々としている。いつもの熱血の声じゃない。でも——弱い声でもない。
「百八十四。百八十五。百八十六——」
カイルが、ふっと笑った。
声は出さなかった。口の端がわずかに上がっただけだ。
こいつ——少し、変わったな。
そう思った。
剣が——一つ、大人になっている。
「おい、ルッツ」
「はい、兄貴」
「今日は千二百回だ」
「……二百回増えてませんか」
「失恋した男は強くなる。いつもの量じゃ足りねえ」
ルッツの手が——一瞬、止まった。
カイルが——知っていた。全部。何も聞かずに——全部、わかっていた。
「……はい」
ルッツは——笑った。
昨日教室で見せた笑顔とは違う。もっと——雑で、もっと乱暴で、もっとルッツらしい笑顔。
「千二百回、やります。——兄貴」
「おう」
素振りの音が朝の鍛錬場に響いた。
一つ、二つ、三つ。
数えるルッツの声に——もう、裏返りはなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第87話「ありがとうございました」。Arc7「恋と陰謀の宮廷」第10話です。
ルッツの告白シーンを書きました。このキャラクターを書く上で一番大事にしたのは「品格のある敗北」です。振られた側がお礼を言う。泣かない。走らない。背筋を伸ばして教室を出る。——でも廊下で「痛ぇな」と呟いて、一筋だけ涙を許す。
カイルの無言の肩叩きは、二人の師弟関係の全てが詰まっています。何も言わないことが、一番の言葉になる。そういう関係を描けたのが嬉しいです。
そしてメイラ側の描写。振った側もまた、痛みを抱えている。「選ばれなかった。でも選んでくれた人がいた」——この一文が、メイラにとっての前を向くきっかけになります。
次話、レンが重大な決断を下します。AIの完璧な答えと、自分の不器用な答え。どちらを選ぶか。
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