第80話: 別にあたしには関係ない
使節団到着から三日目。
エルナは工房を早めに閉めた。
理由は単純だ。パンが——まともに焼けなかったから。
今日だけで三回失敗した。一回目はライ麦パンの発酵が足りなくて石みたいに硬くなった。二回目はクルミパンに塩を入れすぎた。三回目は——窯の前でぼんやりしすぎて、全体が真っ黒になった。
三回目の失敗で、エルナは自分に白旗を上げた。
「今日はもう無理」
誰に言うでもなく呟いて、窯の火を落とした。
エプロンを外して、裏口から出ようとした時——。
「エルナ! 今ひま?」
ハンナが裏口に立っていた。右手にワインの瓶。左手にチーズとハムの包み。
「……なに、それ」
「女子会」
「は?」
「女子会だよ。あたしとエルナとメイラさんで。場所はエルナの工房の二階。もう決まってるから」
「決まってない。あたしは聞いてない」
「今聞いた。はい、決定。メイラさんはもう上で待ってるよ」
「——は?」
二階に上がると、メイラが小さなテーブルにカップを並べていた。丸眼鏡の奥のグリーンの瞳が、少し疲れている。
「あ、エルナさん。お邪魔してます」
「メイラさん、あんたまで」
「ハンナさんに『緊急会議だから』って呼ばれて……断れなくて」
「ハンナ、あんたね——」
「はいはい、座って座って。今日は真面目な話があるの」
ハンナがワインを注いだ。エルナの分は多め。
三人がテーブルを囲んだ。工房の二階はエルナの住居スペースで、質素だが清潔だ。窓から夕陽が差し込んでいる。テーブルの上に、小麦粉の袋とレシピ帳が積まれている。
「さて」
ハンナがカップを掲げた。
「今日の議題は一つ。——あの姫様について」
エルナのカップを持つ手が止まった。メイラが視線を落とした。
ハンナだけが、いつもの笑顔だ。
「まず事実確認ね。セレスティア姫がレン君に政略婚を提案した。これは確定。市場の噂じゃなくて、ダリウスさんが公式に認めた」
「……公式なんだ」
「そう。で、レン君はまだ返事してない。一週間の猶予があるって」
「一週間」
「うん。つまり——まだ決まってないってこと。ここ重要だからね、エルナ」
エルナがワインを一口飲んだ。苦い。いや、ワインのせいじゃない。
「それで? あたしにどうしろって言うの」
「どうしろとは言わない。でも、あんたの気持ちは聞きたい」
「気持ちなんか——」
「あるでしょ。昨日からパン焦がしまくってる人が、気持ちないわけないでしょ」
メイラが小さく微笑んだ。
「エルナさん。わたしも——少し、聞いてほしいことがあるんですけど」
「メイラさん?」
「後で。まずはエルナさんの話を」
エルナは——カップをテーブルに置いた。
「……あたしさ」
声が低い。いつもの辛辣さが消えて、ただの十六歳の女の子の声になっている。
「あの姫様を見た時、最初に思ったのは『きれいな人』だった。それは本当。すっごいきれいだった。髪も、目も、ドレスも、立ち方も。全部が完璧で——あたしとは真逆」
「真逆じゃないよ」
「真逆だよ。あの人はティアラをつけて国を動かす人。あたしはエプロンつけてパンを焼く人。比べようがない」
「だから比べるなって——」
「比べなくても、わかるのよ。並んだ時に、どっちが——」
エルナが言葉を切った。
窓の外を見た。夕陽がオレンジ色に街を染めている。遠くに、セントラリアの使節団の旗が見える。
「……あたしが怖いのはさ」
「うん」
「あの姫様が、ただきれいなだけじゃないってこと。頭もいいし、国を背負う覚悟もある。レ——あいつの話についていける知性がある。AIの話とか、政治の話とか。あたしにはちんぷんかんぷんなことを、あの姫様は理解できる」
「それは——」
「あたしは、パンしか焼けない」
その言葉が、工房の二階に静かに落ちた。
ハンナが——目を見開いた。そしてテーブルを叩いた。
「エルナ!」
「なに」
「パンしか焼けない、じゃない! パンを焼けるのよ!」
「同じ——」
「全然違う! あんたのパンは、この国で一番美味しいの! 手作りギルドの一号認定で、セントラリアから定期発注が来て、あんたの手で焼いたパンがアルゴリズのブランドになったの! ——それを『パンしか焼けない』って言うな!」
ハンナの声が大きい。近所迷惑だ。でも——止まらない。
「あんた、あの姫様に負けてないって!」
「負けてるよ。スペックが違いすぎる」
「スペックって何よ。レン君の口癖がうつってるじゃん」
「——うるさい」
「あんたの方が100倍いいって!」
「何が100倍なのよ……」
「全部! パンだって、笑い方だって、怒った顔だって!」
「最後のは褒めてないでしょ」
「レン君は怒った顔が好きだと思うよ」
「……はぁ?」
「だってあの人、エルナに怒られるたびにちょっと嬉しそうにしてるもん。あたし見てたもん」
「あいつが嬉しそう——嘘でしょ」
「嘘じゃないって。ね、メイラさん」
メイラがカップを両手で包んだ。少し考えてから——頷いた。
「……嘘じゃないです。レンさんは——エルナさんに叱られている時が、一番人間らしい顔をしています」
エルナが——メイラを見た。
メイラは微笑んでいる。穏やかな、だが——どこか切ない笑顔。
「メイラさん……」
「わたし、ずっと見てましたから。レンさんの顔。——エルナさんの前だと、数字や分析をやめて、ただの男の子に戻るんです。あの顔は——わたしの前では、見せてくれなかった」
空気が——変わった。
ハンナが口を閉じた。エルナが目を伏せた。
メイラが——カップに視線を落とした。
「ごめんなさい。重い話になっちゃいましたね」
「メイラさん——」
「大丈夫です。わたしは、もう——覚悟してますから」
メイラの声は穏やかだった。震えていない。泣いていない。ただ——静かに、事実を受け入れている声だった。
「わたしが話したかったのは、別のことなんです」
「別のこと?」
「セレスティア様のことです」
メイラは今朝、偶然セレスティアと顔を合わせた。
アルゴリズ学院の廊下で。セレスティアが視察の一環で学院を訪れた時、メイラが案内役を務めたのだ。
セレスティアは——メイラが想像していた以上に、真剣だった。
学院の教育方針、ハルシネーション教育の理念、子供たちの思考訓練のカリキュラム。全てに的確な質問をし、問題点を指摘し、改善案まで提示した。ただの視察ではなかった。彼女は本気で学ぼうとしていた。
「セレスティア様は——すごい方でした」
メイラがカップの中のワインを見つめている。
「知性も、覚悟も、美しさも。全部が——本物でした。……正直に言うと、圧倒されました」
「メイラさん……」
「あの方を見て、思ったんです。『わたしには、あの強さがない』って」
メイラの丸眼鏡が、窓からの夕陽を反射した。
「レンさんのことが好きでした。それは——もう隠しても仕方ないですけど。でも、セレスティア様を見て——はっきりわかったんです」
「何が?」
「わたしの『好き』は——覚悟が足りなかった。セレスティア様は、国を懸けてレンさんに向き合っている。政略婚でも何でも、国の未来のためにプライドを捨てて提案できる。——わたしは、自分の気持ちすら素直に言えないまま、ずっと見ているだけだった」
メイラが眼鏡を外した。レンズを拭いている。手が——微かに震えている。
「強がりじゃないです。これは——自分への正直な評価です。わたしは研究者だから、データから逃げちゃいけない。自分のデータからも」
エルナが——メイラの手に、自分の手を重ねた。
小麦粉だらけの手。メイラのインク染みの手。
「メイラさん」
「はい」
「あんたは——十分強いよ」
「え?」
「自分の気持ちをちゃんと見つめて、認めて、言葉にできる人は強い。あたしは——それすらできないから」
メイラの瞳が——潤んだ。
ハンナがすんすんと鼻をすすっている。
「ちょっと、ハンナ泣かないでよ」
「泣いてない! 鼻水が出ただけ! ——うぅ、二人ともいい子すぎて……」
「あんたが泣くと話が進まないんだよ」
「だって……!」
ハンナが盛大に鼻をかんだ。
エルナが——少しだけ笑った。
「……ハンナ。メイラさん。あたし——まだ整理できてない。自分の気持ちが何なのか。好きなのかどうかも——ほんとにわかんない」
「わかってるでしょ」
「わかってない。……たぶん」
「パンは嘘つかないよ、エルナ。あんたの焦げたパンが、全部答えてる」
エルナは——反論しなかった。
三人の女子会は、日が落ちるまで続いた。ワインが一本空になり、チーズとハムもなくなった。話題はセレスティアのことから、レンの鈍さのことに移り、ハンナがカイルとルッツのことを「いい体してるよね、二人とも」とまとめて評価し、メイラが「ハンナさん、それは評価の軸がおかしいです」と真顔で突っ込み、エルナが「全員おかしい」と呆れた。
笑い声が、工房の二階から漏れていた。
同じ夕方。学舎の裏庭。
ルッツは素振りをしていた。
三百回目。汗が顎から滴り落ちる。腕が痺れ始めている。でも止めない。止めたら——考えてしまうから。
メイラのことを。
昨日から、メイラの様子がおかしい。いつもの穏やかな笑顔が——どこか、薄い。微笑んでいるのに、目が笑っていない。授業中は普通にしているけれど、授業が終わると——一人で窓の外を見ている。
ルッツにはわからない。メイラが何を考えているのか。AIとか魔法理論とか、難しいことは全然わからない。
でも——メイラが元気じゃないことだけは、わかる。
「三百五十……三百五十一……」
剣を振るたびに、風を切る音がする。
今朝、メイラとすれ違った。廊下で。
「おはようございます、メイラさん!」
声が裏返った。いつものことだ。メイラの前だと喉が勝手にバグる。
「おはよう、ルッツくん。今日も朝早いのね」
メイラが微笑んだ。でも——その笑顔が、いつもと違った。
何が違うのかは、うまく言えない。ルッツは言葉が得意じゃない。文字を読むと眠くなるし、難しい話は頭に入らない。
でも——人の表情なら読める。剣の稽古と同じだ。相手の動きを見て、次を読む。メイラの笑顔は——防御の型だ。何かを隠している時の、前に出さない構え。
「四百!」
最後の一振りを終えて、ルッツは剣を下ろした。
息が荒い。全身から汗が噴き出している。でも頭の中はすっきりしない。
「兄貴」
カイルが裏庭の隅に座っていた。
「おう。終わったか」
「はい。——兄貴、聞いていいですか」
「何だ」
「メイラさんが——なんか、最近元気なくて」
カイルが——ルッツを見た。
青い目が、いつもの大雑把な光とは違う、鋭い光を帯びている。
「お前、気づいてたか」
「はい。昨日から。笑ってるけど、目が笑ってない」
「……お前、メイラの前だと挙動不審のくせに、そういうのはちゃんと見てるのな」
「剣の稽古で鍛えた眼です」
「恋の眼だろ」
「ち、違います! ——いや、違わないかもしれないですけど、今はそういう話じゃなくて」
「だったらどういう話だ」
「メイラさんが辛そうなんです。俺に何かできることないかなって」
カイルが——立ち上がった。ルッツの肩に手を置いた。
「ルッツ」
「はい」
「お前にできることは一つだ。そばにいろ」
「そばに……」
「難しい言葉はいらない。難しい理屈もいらない。メイラが辛い時に、横にいる。それだけでいい」
「……それだけでいいんですか」
「それが一番難しいんだよ」
カイルが手を離した。
「俺はな、ルッツ。お前の不器用さが嫌いじゃない。器用な奴は、器用に逃げる。お前は不器用だから、逃げない。——それが、お前の武器だ」
「兄貴……」
「よし。腹減った。飯食いに行くぞ」
「はい!」
ルッツは剣を鞘に収めた。
カイルの後ろをついて歩きながら——考えた。
そばにいる。それだけでいい。
本当にそれでいいのかな。
本当に、それだけで——メイラさんは笑ってくれるのかな。
わからない。でも——やってみるしかない。
剣と同じだ。振らなきゃ当たらない。兄貴が言ってた。
——振らなきゃ、当たらない。
夜。
エルナは工房の二階で、一人になった。
ハンナとメイラが帰った後、散らかったテーブルを片付けて、窓を開けた。夜風が入ってくる。星が見える。
明日はまたパンを焼く。今度はちゃんと焼く。焦がさない。失敗しない。
——あたしには、パンがある。
それだけが、今の自分の確かなものだ。
ティアラはない。王族の血筋もない。魔法の才能もない。AIのことなんかわからない。
でも——パンなら焼ける。あたしの手で。あたしの温度で。あたしだけの味で。
「……あんたの不器用な言葉の方が好き」
——なんで今、そんなことを思い出したんだろう。
いつだったか。レンが何かを説明しようとして、全然うまくいかなくて、訳のわからない前世の言葉を並べて、最後に「あ、わかんないよな。えーと……」と頭を掻いた時。
あたしが「長い。結論は?」と言ったら、レンが「……えーと、すごい」と言った。何がすごいのかさっぱりわからなかったけど。
あの時の——あいつの顔が、なぜか消えない。
エルナは窓枠に肘をついた。
星を見上げた。
明日、レンに会ったら——何を言おう。
「ふうん。姫様と結婚するんだ。よかったね」
そう言うつもりだった。平気な顔で。いつもみたいに。
——でも。
パンが焦げた理由を、あたし自身が一番よくわかっている。
「別にあたしには関係ない」
声に出して言った。
夜空に向かって。誰にも聞こえないように。
——嘘つき。
ハンナの声が頭の中で聞こえた。
エルナは——窓を閉めた。
明日のパンの仕込みをしなければ。
パンのことだけ考えよう。パンだけ。
——あいつのことは、パンを焼いてから考える。
小麦粉の袋に手を伸ばした。
明日は、焦がさない。
絶対に。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第80話「別にあたしには関係ない」。第7アーク第3話です。
今回はエルナ、メイラ、ハンナの三人の話です。女子会回。
ハンナの「あんた、あの姫様に負けてないって!」「レン君は怒った顔が好きだと思うよ」——ハンナはコメディ要員であると同時に、エルナの一番の理解者です。恋愛に関する洞察力だけは精霊並み。本人の恋愛運だけがゼロなのが永遠のネタですが。
メイラの「わたしには、あの強さがない」は、セレスティアという「覚悟を持った女性」を目の当たりにしたことで、自分の気持ちの輪郭がはっきり見えてしまった瞬間です。メイラは研究者だから、自分のデータからも逃げない。それが彼女の強さであり、同時に——辛さでもあります。
そしてルッツ。メイラの笑顔が「防御の型だ」と見抜く場面を書きたかった。剣の稽古でしか物を見られない男が、剣の稽古の目でメイラを見ている。不器用だけど、ちゃんと見ている。カイルの「そばにいろ。それが一番難しい」もいい台詞が書けたかなと思います。
エルナの「別にあたしには関係ない」。タイトル通りの嘘。自分でもわかっている嘘。でも——まだ、本当のことが言えない。パンだけが正直です。焦げたパンが、言葉にできない感情の全てを語っている。
次話ではいよいよ、レンとアルデンの対峙が始まります。Arc6の工作の真相が——。
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