第79話: 政略婚という最適解
使節団到着から二日目の朝。
レンは会議室で、セレスティアと向かい合っていた。
長い楕円形のテーブル。セントラリア側にはセレスティアとアルデン、外交官が二名。アルゴリズ側にはレンとダリウス。
窓から朝日が差し込んでいる。テーブルの上に地図と書類が広げられ、前日の視察報告がまとめられている。
セレスティアは昨日一日かけて、アルゴリズの主要施設を視察した。ゴーレム工房、手作りギルド、アルゴリズ学院、精霊ネットワーク管理所。全てを見て回り、的確な質問を投げ、全ての数字を頭に入れた。
——この姫、記憶力がバグってるな。
レンは内心で舌を巻いていた。昨日の視察中、セレスティアはメモを一切取っていない。だが今朝の会議で、昨日見た数字を正確に引用している。ゴーレムの稼働数、手作りギルドの加盟店数、学院の生徒数、精霊ネットワークの接続端末数——全て合っている。
「さて、レンハルト殿」
セレスティアが切り出した。朝の光がプラチナブロンドの髪を輝かせている。
「本題に入ってもよろしいかしら」
「どうぞ」
「昨日の視察で、わたくしはこの国の実力を理解いたしました。正直に申し上げて——驚いています」
「驚いたんですか? どの辺がです?」
「すべてですわ。ゴーレムの稼働効率、精霊ネットワークの統合設計、そして何より——ゴーレム恐慌を経験した後の、半自動化への転換。手作りギルドの設立。失業対策。これらを一人の人間が、AIの助けを借りて設計した」
セレスティアの青い目がまっすぐにレンを見ている。
「わたくしの国は、伝統に固執して時代に取り残されつつあります」
声が——変わった。
外交的な丁寧語は変わらないが、その奥に——本音が混じっている。氷の下に、わずかに温度がある。
「セントラリアは伝統魔法の名門。それは誇りです。ですが——誇りだけでは国は回りません。周辺国がAIや自動化を導入し始めている中、わたくしの国だけが『昔のやり方』にしがみついている」
「……改革派がいないんですか」
「います。わたくしが、その筆頭ですわ。ですが貴族議会が強い。『伝統を守れ』の一言で、あらゆる改革案が潰される」
レンは黙って聞いていた。
セレスティアの表情が——一瞬だけ、政治家ではなく一人の十九歳の女性に見えた。国の未来を背負う重さが、青い瞳の奥に影を落としている。
「だから——わたくしは提案がありますの」
テーブルの上に、一枚の書類が置かれた。
ダリウスが素早く手に取り、目を走らせた。次の瞬間、ダリウスの眉が——跳ね上がった。
「……レンハルト殿」
「なんだ」
「これは——政略婚の提案書です」
空気が凍った。
アルデンの拳がテーブルの下で握り締められているのが、レンの位置からも見えた。
「政略婚ですわ」
セレスティアが言った。淡々と。だが——その淡々とした声の奥に、覚悟がある。
「アルゴリズの技術と、セントラリアの伝統魔法を統合すれば、大陸最強の同盟になります。レンハルト殿のAIガバナンスと、わたくしの政治力。互いに足りないものを補い合う——理想的な関係ですわ」
「……いきなりですね」
「いきなりではありませんわ。わたくしは半年前から検討していました」
セレスティアが書類を示した。
「数字をお見せしましょう。現在のアルゴリズの国力指標と、セントラリアの国力指標。単独では、どちらも大陸の中堅。ですが——両国が技術と伝統を統合した場合」
書類のグラフを指で示す。
「軍事力は現在の二・三倍。経済規模は一・八倍。外交影響力は三倍以上。——東のノイマン王国にも匹敵する大陸第二位の同盟になります」
レンは書類を受け取った。
数字を読んだ。
——否定できない。
論理的には完璧だ。セレスティアの分析は正確で、前提条件も現実的。楽観的な見積もりではなく、保守的な数字で計算しても、同盟のメリットは明白だった。
前世のCTO脳が数字を処理する。投資対効果。リスクリターン比。相乗効果の最大化。どの角度から見ても——。
「数字だけ見れば……最適解です」
レンが呟いた。
セレスティアの目が光った。
「おわかりいただけて嬉しいですわ」
「ただ——」
「ただ?」
「政略婚って、つまり俺と姫様が結婚するって話ですよね」
「ええ。そうですわ」
セレスティアが平然と答えた。まるで予算案の承認を求めるような口調で。
「愛など後からついてきます。政治的な婚姻に、最初から感情を持ち込む必要はありませんわ」
「……すごいですね。そこまで割り切れるんですか」
「割り切っているのではなく、優先順位を理解しているだけですわ。国の存続が、個人の感情に優先する。それが王族の責務です」
レンは——書類をテーブルに戻した。
「即答はできません」
「もちろんですわ。熟考してくださいまし。わたくしは一週間、この国に滞在します。その間に——」
「セレスティア殿」
アルデンが口を開いた。声は抑えているが、緊張で微かに震えている。
「姫殿下。この場でこれ以上の議論は控えるべきかと」
「アルデン。わたくしの外交を遮るのは二度目ですわよ」
「——申し訳ございません。しかし、アルゴリズ側にも準備が必要でしょう。拙速な議論は両国のためになりません」
セレスティアが一瞬アルデンを見た。何かを読み取ったようだが——頷いた。
「そうですわね。では、レンハルト殿。続きは明日以降に」
「ああ。……ダリウスさん、この提案書のコピーをお願いします」
「すでに撮影済みです。三部複写で」
「仕事早いですね」
「これが仕事ですので」
会議が終わり、セントラリア側が退室した。
アルデンがドアを閉める直前、振り返ってレンを見た。鋼色の目に——警告と、もう一つ別の感情が交差した。
ドアが閉まった。
レンとダリウスが、二人きりになった。
「ダリウスさん」
「はい」
「率直に。この提案、どう思いますか」
「政治的には合理的です。数字も正確。セレスティア殿下の分析力は一級品です。——ただし」
「ただし?」
「政略婚の契約書を書くのは私です。あの量の法的文書を処理するのに必要な時間は——考えたくもありません」
「そこですか」
「冗談ではありません。……半分は」
ダリウスが書類をまとめながら、珍しく——声を落とした。
「レンハルト殿。一つだけ」
「なんだ」
「政治的に最適な答えと、あなたが出すべき答えは——必ずしも同じではないかと」
レンは顔を上げた。
ダリウスは書類に目を落としたまま、それ以上何も言わなかった。
噂は——恐ろしく速かった。
昼前にはもう、市場の隅々まで広がっていた。
「レン王とセントラリアの姫様が結婚するらしい」
「政略婚だって」
「姫様、すごい美人だもんねぇ」
「アルゴリズとセントラリアの同盟? そりゃ大きいわ」
エルナの工房にも、当然のように届いた。
午後の客が途切れた時間帯。エルナは工房の奥で、明日の仕込みの生地をこねていた。
ハンナが入ってきた。
「エルナ」
「なに」
「聞いた?」
「何を」
「レン君と——姫様の話」
エルナの手が——止まった。
一秒。二秒。三秒。
手が動き出した。何事もなかったかのように、生地をこね始めた。
「ふうん」
「ふうんって」
「聞いたよ。市場の噂でしょ。政略婚がどうとかって」
「それだけ? 反応薄くない?」
「別に。あたしには関係ないし」
エルナの声は——平坦だった。感情を削り取ったような、真っ平らな声。
ハンナは幼馴染の背中を見つめた。
エルナの手がいつもより力強くパン生地を叩いている。リズムがおかしい。いつもの心地よい不規則さではなく——感情をぶつけるような打ち方。
「エルナ」
「なに」
「嘘、下手だよ。あんた昔から」
「嘘なんかついてない。本当にあたしには——」
「関係ないなら、なんで生地をそんなに叩いてるの」
エルナの手が止まった。
パン生地が潰れている。こね過ぎだ。こうなると空気が抜けて、焼いても膨らまない。エルナほどの腕なら、普段は絶対にやらないミス。
「……今日は調子悪いだけ」
「昨日もパン焦がしてたじゃん」
「——うるさい」
「姫様が来てからずっと、エルナの焼くパンがおかしい。あたしにはわかるよ」
エルナが振り返った。
緑色の目が——揺れている。怒りと、悲しみと、名前のつかない何かが混ざっている。
「……仮にだよ」
「うん」
「仮に——政略婚が決まったとして。それはこの国にとって良いことなんでしょ。セントラリアと同盟が組めて、国力が上がって、みんなが安全になる」
「そうだね」
「だったら——あたしがどう思おうと関係ない。国のことなんだから。あたしはパン屋だし」
「パン屋だから関係ないってこと?」
「そうだよ。パン屋の娘が、姫様との政略婚にどうこう言える立場じゃないでしょ」
ハンナは——黙った。
そして、エルナの肩を掴んだ。
「エルナ。あんた、自分のこと過小評価しすぎ」
「してない」
「してる。あんたは——このアルゴリズで最初にレン君のパンを焼いた人でしょ。あんたのパンが、この国の顔になったんでしょ。手作りギルドの一号認定は誰? あんたでしょ」
「それとこれは違う」
「違わない! ——パン屋だから関係ないなんて、嘘だよ。エルナ」
ハンナの琥珀色の目が、真っ直ぐにエルナを見ている。いつものお調子者の顔ではない。幼馴染の、本気の顔。
「あんたはレン君のこと好きでしょ」
時間が——止まった。
工房の中に、パン生地の匂いが満ちている。窯の残り火がぱちりと弾けた。
「……好きとか、そういうのじゃないし」
「嘘」
「嘘じゃない。あたしは——」
「じゃあなんでパンが焦げるの。なんで生地を叩きすぎるの。なんで朝から目が赤いの」
エルナが——口を閉じた。
反論できなかった。
ハンナが一歩近づいた。
「ねぇ、エルナ。あたし、ずっと見てきたよ。あんたがレン君のパンを焼く時の手つき。他のお客さんのパンとは違うの。もっと丁寧で、もっと——気持ちが入ってる」
「……それは、常連さんだから」
「嘘つき」
エルナの目が——潤んだ。一瞬だけ。すぐに瞬きで消した。
「……仮に、仮にだよ。あたしが——その。少しだけ、気になってたとして」
「少しじゃないでしょ」
「うるさいな! ……仮にそうだとして。あの姫様と比べたら、あたしなんか——」
「比べるな」
ハンナが言い切った。
「あんたはあんた。姫様は姫様。ティアラとエプロンを比べてどうすんの」
「……ティアラの方がきれいに決まってるでしょ」
「パンの方が美味しいに決まってるでしょ」
エルナは——少しだけ笑った。泣きそうな笑い方だったが、笑った。
「ハンナ、それ比較の軸がおかしいよ」
「おかしくない。あたしの基準では完璧な比較だよ。——ね、エルナ」
ハンナがエルナの手を握った。小麦粉だらけの手を、ためらいなく握った。
「あたしは、あんたの味方だから。何があっても」
「……うん」
「だから、もう少しだけ——正直になりなさいよ。自分に」
エルナは——ハンナの手を握り返した。
小さく。でも、しっかりと。
夕方。
レンは一人で城壁の上にいた。
夕焼けの空。セントラリアの使節団の旗が、オレンジの光に照らされている。
ポケットの中に、セレスティアの提案書のコピーがある。数字は頭に入っている。論理的に完璧。否定できない。
——数字だけ見れば、最適解だ。
だが。
「政治的に最適な答えと、あなたが出すべき答えは、必ずしも同じではない」
ダリウスの言葉が頭に残っている。
あの官僚は、いつもは数字と手続きの話しかしない。感情的なことを口にするのは——極めて珍しい。
つまり——あのダリウスでさえ、言わざるを得なかったということだ。
風が吹いた。夕暮れの風。市場通りから、パンの焼ける匂いが漂ってくる。
——エルナの匂いだ。
レンは——立ち止まった。
なぜ今、パンの匂いを感じたのか。城壁の上からエルナの工房まで、距離がある。本当に匂いが届いているのかどうかもわからない。たぶん——気のせいだ。
気のせいだけど。
「……あいつ、今日パン焦がしたらしいな」
カイルが階段を上がってきた。
「聞いたのか」
「ハンナが言ってた。エルナがパン焦がすなんて、よっぽどだぜ」
「……そうか」
「お前、わかってないだろ」
「何が」
「だからそういうとこだ」
カイルが城壁の縁に腰を下ろした。大剣を横に置いて、夕焼けを眺めている。
「レン。お前に聞きたいことがある」
「珍しいな。お前が質問するの」
「俺だって考える時はある」
「嘘つけ」
「うるさいな。——いいから聞けって。あの姫様の提案、お前はどう思った」
「……論理的には正しい」
「論理はいい。お前はどう思った」
レンは——言葉に詰まった。
カイルの青い目が、夕焼けに照らされてまっすぐにレンを見ている。バカに見えて核心を突く男。考えるより先に感じる男。
「……わからない」
「嘘つけ。お前は頭が良すぎるんだよ。わかってるのに、わかりたくないだけだ」
「……」
「俺は難しいことはわからん。でもな、レン。お前が誰かの顔を思い浮かべて迷ってるなら——その誰かが答えだろ」
風が吹いた。
パンの匂いが——また、した。今度は気のせいじゃなかった。
レンは何も言わなかった。
カイルもそれ以上何も言わなかった。
二人で黙って、夕焼けを見ていた。
城壁の下を、エルナが工房を閉めて帰っていくのが見えた。エプロン姿のまま。小麦粉だらけの手で、髪を耳にかけている。夕陽に照らされた小麦色の髪が——金色に光った。
レンの目が——その後ろ姿を追った。
カイルが横目でそれを見て、何も言わずに立ち上がった。
「じゃあな。飯食ってくる」
「ああ」
「あと——あの騎士。アルデンとかいうやつ。あいつとは一回手合わせしたい。いい体してた」
「お前ほんとにそれしかないな」
「言っとけ」
カイルの足音が遠ざかった。
レンは一人、城壁の上に残された。
夕焼けが消えていく。夜が来る。
ポケットの提案書が——重い。
数字は完璧だ。
でも——数字じゃない何かが、胸の中で引っかかっている。
パンの匂い。
エプロンの背中。
「別にあたしには関係ない」と言うだろう声。
——関係ない、わけがないだろ。
レンは——自分の言葉に驚いた。
今、誰に対して思った?
エルナに対して? それとも——自分自身に対して?
夜風が吹いた。冷たい風が、頬を撫でた。
答えは——まだ出ない。
でも、出さなければならないことだけは、わかっている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第79話「政略婚という最適解」。第7アーク第2話です。
セレスティアの提案は論理的に完璧でした。数字で殴ってくるタイプの外交です。軍事力2.3倍、経済規模1.8倍、外交影響力3倍以上——レンの前世CTO脳も否定できない合理性。「数字だけ見れば……最適解だ」というレンの呟きは、この物語のテーマそのものです。
そしてセレスティアの「わたくしの国は伝統に固執して時代に取り残されつつある」という本音。彼女は単なる政略婚の駒ではなく、自国を改革したい王女なのです。国を変えたいのに、伝統という壁に阻まれている。レンとは違う形で「制度と戦っている」人。
エルナの「ふうん。姫様と結婚するんだ。よかったね」——この一言が書きたくてこの話を書いたようなものです。平坦な声。感情を削り取った声。でもパンは焦げている。生地は叩きすぎている。エルナの不器用な強がりが、ハンナの「嘘つき」に砕かれる瞬間。
ダリウスの「政治的に最適な答えと、あなたが出すべき答えは、必ずしも同じではない」も、官僚のダリウスだからこそ重い台詞です。数字を誰より理解している男が、数字じゃない答えがあることを示唆する。
次話「別にあたしには関係ない」。エルナの強がりの裏側を、もう少し深く掘ります。そしてハンナの女子会が始まります。
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