最大の誤算
――テュイルリー宮殿の執務室。
ナポレオンはマリー=ルイーズとの新婚生活に思いを馳せ、のんびりと彼女にどんなプレゼントを贈ろうかなどと考えていた。そこへ、ベルナドットがどこか落ち着かない様子で現れた。
「陛下、少々よろしいでしょうか。……ローマへの出発を前に、奇妙な申し出を受けまして」
ナポレオンは顔を上げず、鼻で笑った。
「何だ、デジレがまた『陛下のいるパリに残りたい』とでも言い出したか?」
「いえ、それどころではなく……スウェーデンからメルネルという若者が参りまして。私に、彼らの国の王太子になってほしいと」
一瞬の沈黙の後、ナポレオンはペンを放り出し、椅子に深く背を預けて爆笑した。
「ははは! スウェーデン王太子だと? 貴公がか? ベルナドット、それは今年一番の傑作だ。あの北の頑固者たちが、わが帝国の元帥を王に迎えるなど、天変地異が起きてもあり得ん」
「陛下、私も冗談だと思いましたが、彼は大真面目なのです」
「勝手にしろ」
ナポレオンは涙を拭いながら、投げやりに手を振った。
「どうせ議会で袋叩きに遭って、すごすごと戻ってくるのが落ちだ。ローマ総督の地位は空けておいてやる。立候補するだけならタダだ、好きに遊んでこい」
ナポレオンにとって、それは退屈な政務の合間の「余興」に過ぎなかった。
ベルナドットが本当に北の王冠を手にするなど、あり得るはずがない。そもそも、ローマ総督の地位を不意にしてまで、破綻した北の王国の世継ぎになりたがる男などいるはずがないと、高をくくっていたのだ。
「……承知いたしました。では、形ばかりの手続きだけ済ませてまいります」
ベルナドットは慇懃に一礼し、部屋を退出した。
扉が閉まった後、彼は首の傷をなぞり、ふっと口角を上げた。
「……陛下。あなたは、誰から戦争のやり方を習ったかを忘れられている」
宮殿の廊下を歩くベルナドットの足取りから、先ほどまでの迷いは消えていた。彼はかつてマントヴァで、崩壊寸前だったナポレオンの軍団を自らの兵を率いて救い出した、あの戦場を思い出していた。
一八一〇年八月、スウェーデンのオレブロ議会。
古色蒼然たる石造りの議場は、不自然なほどの熱気に包まれていた。議壇に立ったベルナドットの代理人フルニエが、懐から一通の書簡を取り出す。それは「公約」という名の、あまりに巨額な買収劇であった。
「ベルナドット元帥は約束されました。当選の暁には、八百万フランに及ぶ私財を投じ、この国の負債をすべて肩代わりすると!」
その瞬間、議場の各所から、待っていたかのような、しかし実に見事なタイミングで歓声が上がった。数人の若手議員たちが雷に打たれたかのように立ち上がり、周囲の空気を巻き込んでいく。
「債務が消えるだと?」
「これこそが救世主だ!」
フルニエは、どよめきが収まるのを待たずに畳みかける。
「元帥がかつて、捕虜となった我が国の兵士たちをどれほど紳士的に扱ったか。それだけではない。復興期のハノーヴァーで見せた統治を思い出していただきたい。彼はフランス皇帝の姻戚でありながら、占領地の法と民を誰よりも尊重したのだ!」
議場の中ほどで、一人の老議員が立ち上がろうとした。伝統を重んじ、どこの馬の骨とも知れないフランス人を拒もうとする反対派の重鎮だ。
しかし、彼が口を開くより早く、後方の席から地鳴りのような歓声が飛んだ。
「ベルナドット殿下、万歳!」
呼応するように、別の場所からも拍手が沸き起こる。まるで精緻な舞台装置が作動しているかのように、反対派の反論は熱狂の渦に呑み込まれ、かき消されていった。
それは瞬く間に、壁を震わせるほどの大合唱となる。
伝統を重んじるスウェーデン貴族や聖職者たち、保守派の議員たちの抵抗は、フランス人元帥によって提示された「救済策」と、議場を巧みに先導する目に見えぬ力の前には、あまりにも無力だった。
それは選挙という名の、鮮やかな制圧であった。
結果は――満場一致。
ベルナドットはマントヴァで崩壊しそうになっていたナポレオン軍を救い、その後もナポレオンの勝利に貢献し続けます。ナポレオンはベルナドットから戦争のやり方を学んでいったのです。




