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パリ陥落

 パリ東方の戦場は、泥沼の消耗戦と化していた。


 シレジア軍の陣営は【ランスの戦い】の後、内側から瓦解しかけていた。総司令官ブリュッヘルは、後方の天幕で「フランス兵に象をはらまされた」とうわ言を繰り返す錯乱状態にある。だが、現場の兵も将も、誰もがこの勇敢な老将を愛し、その快復を祈っていた。


 問題はグナイゼナウだった。

 その的外れな命令に激怒した最前線のヨルク将軍は、「これ以上邪魔をするなら処刑する」と彼を脅し、天幕に引きもらせて完全に排除した。


 代わりに軍の実務を回したのは、グナイゼナウよりはるかに現場が見えている次席参謀ミュッフリンクだった。


「ミュッフリンク、あの阿呆あほうの気合など泥濘でいねいでは役に立たん! 皇帝を止めるのは我が兵の銃剣だ!」


「分かっています、ヨルク閣下。即座に戦列を再編します!」

 ヨルクの凄絶せいぜつな執念と、ミュッフリンクの確かな実務能力。二人の連携が、迫り来るフランス軍の猛攻を肉の壁となって受け止め続けた。


 一方で、連合軍の主力たるボヘミア軍を動かしていたのは、もはや軍事的な合理性すら超えた「天啓」だった。


 総司令官シュヴァルツェンベルクはナポレオンの影におびえ、退却すら視野に入れた凡庸な慎重論を繰り返していた。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、そのすべてを無視した。


 今、ナポレオンはここにはいない。アレクサンドルの脳裏に、聖なる確信がひらめく。

「これこそが天啓だ。奴が虚空を追って首都を空けた今こそ……全軍、パリへ直進せよ!」


 シュヴァルツェンベルクの制止を黙殺し、南方からアレクサンドルは主を失った首都へと大軍を押し進めた。


 ビューローは北方軍の本隊を率い、北部から情報の空白地帯となったパリへ向けて強行軍を敢行した。

「ヴォロンツォフ、準備はいいか。……行くぞ、パリの喉元のどもとへ!」


三月三十日

 パリ北部の防衛線を敷くマルモン軍に対し、ヴォロンツォフ率いる前衛部隊が猛然と襲いかかった。クラオンでの雪辱に燃えるヴォロンツォフは、貴族らしい優雅さを狂気に変え、自らサーベルを振るって敵の陣地を切り裂いていく。フランス軍の放つ凄絶な砲火をかいくぐり、北方軍の圧倒的な物量と洗練された連携が、またたく間にモンマルトルの丘の防衛線を押し潰した。


 血煙の向こうで、ついにビューローの軍勢はパリを一望するモンマルトルの丘を制圧。そこへ、北方軍自慢の最新鋭重砲兵隊が続々と不気味な砲列を敷いていく。


「射程を確認しろ。パリの市街すべてが、射程内(きかがくのとうしき)に収まっているか?」

 ビューローの問いに、砲兵隊長が静かにうなずいた。

「いつでもいけます、閣下。一発でルーヴルを粉砕してみせましょう」


 ビューローは満足げに鼻を鳴らし、胸のセラフィム勲章を誇らしげに揺らした。

「撃つ必要はない。大砲がここにあるという事実そのものが、ナポレオンへの死刑宣告だ。……さあ、デジレ夫人。あとは、あなたの出番です」


 その光景を眺めていたボイエンは、震える手で日記帳を閉じた。

「我々は、とてつもない歴史の転換点にいます。チェルニショフがナポレオンを欺き、ヴィンツィンゲローデとテッテンボルンが足止めのために部下を捕虜に差し出し、ビューロー閣下が書類を整理するようにパリに大砲を並べた。これこそが、新たな時代の戦争なのです」


 パリ、花の都。その運命はナポレオンの剣ではなく、モンマルトルに並んだ北方軍の砲口と、市内でナポレオンの兄と密談するデジレの知性に委ねられたのである。


 パリ市内。デジレはナポレオンの兄ジョゼフと、その妻である姉のジュリーを訪ね、静かに、しかし断固として告げた。

「お兄様、ジュリー。もうお止めなさい。たとえパリを火の海にしたところで、あの人の砲口が揺らぐことはないわ。これ以上の抵抗は、もはや道理に合わないことよ」


 デジレの忠告、そしてモンマルトルを制圧したビューローの圧倒的な重砲火を前に、パリ防衛責任者のマルモン元帥はついに折れた。

「……略奪も暴行もしないと、ベルナドットは約束したのだな。ならば、これ以上の抵抗は無意味だ」



 ナポレオンはパリ陥落の報に接し、死に物狂いで馬を飛ばした。

「まだだ! パリが略奪に遭い、民衆が怒り狂った時こそが、わが逆転の好機だ! 混沌こんとんこそが私の味方なのだ!」


 しかし、彼が目にしたのは、期待した「燃えるパリ」ではなかった。

 北方軍の兵站へいたんは、ベルナドットの事務仕事によって極限まで整えられていた。兵士たちには温かい食事と十分な手当が与えられ、パリの街角で略奪が起きるすきなど一分たりとも存在しなかったのである。


「なぜだ……。なぜロシア兵やプロイセン兵が、パンを奪わずに、静かに行進しているのだ!」


 ナポレオンが気づいたときには、すべてが終わっていた。東でチェルニショフを追い回している間に、背後の補給路は絶たれ、パリの門は内側から開かれ、自慢の軍勢は袋のねずみとなっていた。


「……全軍、捕虜か」


 皇帝は力なく剣を落とした。

 かつて自分が愛した女性デジレが守り抜いた街を、かつての部下ベルナドットが「知性と物流」で完全に制圧した。


 そこには、ナポレオンの天才が入り込む余地のない、冷徹なまでの「正解」が横たわっていたのである。

 ビューローらは、ヴィトリと囮とパリ攻略戦あわせて、600人の死者と2000~3000人の負傷者です。これだけの損害で、ナポレオン含むフランス軍10万人を丸ごと捕虜にしたというわけです。

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