パリ陥落
――シャンパーニュ平原、三月二十五日。
パリへ撤退するマルモン軍と、パリへの進軍を諦めたかのように右往左往していたオーストリア軍。両軍は思いもよらない遭遇戦となり、ロシア軍の増援と圧倒的な兵力差によってフランス軍は粉砕され、包囲された。
「陛下、敵の殿、パクトー師団が未だ頑強に抵抗しております! 四方を我が騎兵に包囲されながら、方陣を組んで一歩も退きません!」
報告を聞いたロシア皇帝、アレクサンドル一世は、愛馬の手綱を握ったまま動かなかった。
彼の瞳は、硝煙の向こうで血を流しながらも執念深く大砲を放ち続けるフランス国民衛兵の陣列を捉えていた。しかし、アレクサンドル一世の脳裏に映っていたものは違った。(ああ、聞こえる……。これは神の御言葉だ。フランスの傲慢を砕き、欧州に真の平和をもたらすための、天上の試練だ)
アレクサンドルは、己を「神に選ばれし光の使者」だと確信していた。
「もう十分だ」アレクサンドルが静かに、しかし戦場の喧騒を圧するような透明な声で呟いた。
「これ以上の流血は、神の御心ではない。彼らは、迷える子羊に過ぎん。私が直接、降伏を勧めよう」
「陛下!? 危険すぎます! まだ敵の銃火の中にあります!」
側近たちが色を失って制止するのも聞かず、アレクサンドルは馬の腹を蹴った。濃緑色の軍服が、戦場の曇天の下で奇妙なほど鮮やかに浮かび上がる。彼は少数の護衛と共に、弾丸が飛び交う最前線へと、まるで神の手の平に導かれるように直進していった。フランス軍の方陣の直前、わずか数十歩の距離でアレクサンドルは馬を止めた。
フランス兵たちが、泥と血に汚れた顔を上げ、突如現れた「光り輝く標的」に銃口を向ける。引き金に指がかけられた、その刹那――。アレクサンドルは、ふっと聖母のような慈愛に満ちた微笑を浮かべ、両腕を天に向けて大きく広げた。
「勇敢なるフランスの兵士たちよ! 銃を収めよ!」
彼の声は、吹き荒れる風を引き裂いて響き渡った。その背後から差し込んだ一筋の陽光が、彼の金髪をまるで光背のように照らし出す。
「お前たちの戦いは見事だった! だが、天はお前たちの命をここで散らすことを望んではいない! 私はロシア皇帝アレクサンドルである。我が名と、万物の主たる神の御名において誓おう。今すぐ武器を捨てれば、お前たちの命と名誉は完全に保証される!」
その瞬間、フランス兵たちの動きが完全に凍りついた。数秒前まで殺意に燃えていた若きフランス兵たちの手が震え、銃口が次々と地面へと下がっていく。彼らの目には、アレクサンドルが、迫り来る敵の君主ではなく自分たちを救いに来た救世主のように、映った……のではなく、逆らったものを未来永劫一族ごと消すことを躊躇しない狂気の宗教指導者として映り、魂からの恐怖に震えたのであった。
「……突撃を、止めよ」
背後で、連合軍の騎兵たちを指揮していた将軍も恐怖に飲まれて呟いた。
アレクサンドルの「神がかった」説得により、頑強だったパクトー師団は即座に降伏を受け入れた。
数千の敵兵が武器を投げ捨てる音を背景に、アレクサンドルは満足げに天を仰いだ。その瞳には、すでにこの戦場の勝利ではなく、その先にある、自らが神の代理人として入城する「聖地パリ」の幻影がはっきりと見えていた。
――三月三十日、午前六時。
パリ東方の戦場は、泥沼の消耗戦と化していた。
シレジア軍の陣営は【ランスの戦い】の後、内側から瓦解しかけていた。総司令官ブリュッヘルは、後方の天幕で「フランス兵に象を孕まされた」とうわ言を繰り返す錯乱状態にある。だが、現場の兵も将も、誰もがこの勇敢な老将を愛し、その快復を祈っていた。
問題はグナイゼナウだった。
その的外れな命令に激怒した最前線のヨルク将軍は、「これ以上邪魔をするなら処刑する」と彼を脅し、天幕に引き籠もらせて完全に排除した。
代わりに軍の実務を回したのは、グナイゼナウより遥かに現場が見えている次席参謀ミュッフリンクだった。
「ミュッフリンク、あの阿呆の気合など泥濘では役に立たん! 皇帝を止めるのは我が兵の銃剣だ!」
「分かっています、ヨルク閣下。即座に戦列を再編します!」
ヨルクの凄絶な執念と、ミュッフリンクの確かな実務能力。この二人の連携のもと、二万のシレジア軍が、迫り来るフランス軍の猛攻を肉の壁となって受け止め続けた。
――同日、午前十一時。
パリ南方の戦場は、フランス軍の猛反撃を前に、凄絶な返り討ちにあっていた。
連合軍の主力たるボヘミア軍を動かしていたのは、もはや軍事的な合理性すら超えた「天啓」だった。
総司令官シュヴァルツェンベルクはナポレオンの影に怯え、退却すら視野に入れた凡庸な慎重論を繰り返していた。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、そのすべてを無視した。
今、ナポレオンはここにはいない。アレクサンドルの脳裏に、聖なる確信が閃く。
「これこそが天啓だ。奴が虚空を追って首都を空けた今こそ……全軍、パリへ直進せよ!」
進軍する気のないオーストリア軍をナポレオンが帰ってきた時の防波堤として置き去りにし、南方からアレクサンドルは自らロシア軍を率い、主が留守する首都へ三万の軍を進撃させ、戦闘を開始した。
降り注ぐ弾雨の中、アレクサンドルは自ら馬を駆って前線へ飛び出し、動揺する将軍たちを叱咤する。
皇帝の強烈な執念に突き動かされ、ロシア兵は数千の凄惨な死傷者を出しながらも、肉の壁を押し進めて防衛線の一角への力攻めを挑み続けた。
この南からの行軍に呼応するかのように、ビューローは北方軍主力であった五万の軍勢を率い、パリの北方にそびえる最終標的、モンマルトルの丘へ向けて強行軍を敢行していた。
彼らは道中で遭遇したフランス軍の抵抗を力づくで粉砕しながら進み、パリ北方の要塞都市サン=ドニのフランス守備隊を外側から封じ込めると、大軍を堂々と展開させ、フランス軍の防衛線を、完全に北側から蓋をした。
――午前、パリ市内。
デジレはナポレオンの兄ジョゼフの妻である姉のジュリーを訪ね、静かに、しかし断固として告げた。
「ジュリー、もうおやめなさい。ジョゼフ兄さんに手紙を書いて説得するのよ。たとえパリを火の海にしたところで、あの人の砲口が揺らぐことはないわ。これ以上の抵抗は、もはや無益な悲しみでしかないのよ」
妻からの手紙を受け取ったパリ防衛総司令官であるジョゼフは覚悟を決めた。デジレの忠告と、モンマルトルの丘から見える、迫りくるビューローの圧倒的な重砲の威圧を前に、これ以上の抵抗は無駄な死者を出すだけだと悟った。
『……これ以上の防衛は不可能と判断する。連合軍との降伏交渉を許可する。ジョゼフ・ボナパルト』
彼は震える手で一枚の命令書を書き上げ、防衛責任者であるマルモン元帥へと託すと、家族を連れてパリから退避した。
――同日、午後一時。
花の都パリ――この壮大な大終曲を飾るにふさわしい世界最高の大舞台を前に、ビューローは馬上から指揮棒をふるように剣を掲げた。
「ヴォロンツォフ、我らの総仕上げだ。……行くぞ、パリの喉元へ!」
パリ北方の要衝にして、街を一望する最後の砦――モンマルトルの丘。
この丘を中心に、北から東へと防衛線をひくマルモン軍に対し、ビューローの軍が北西から拠点を一つずつ落としていき、ランスの敗残兵も汚名をそそぐかのように、そのすぐ隣の北東から猛烈な攻撃を行う。
北からの攻撃に合わせるように、ヴォロンツォフ率いる軍が東から猛然と襲いかかった。クラオンでの雪辱に燃えるヴォロンツォフは、貴族らしい優雅さを狂気へと変え、自らサーベルを振るって敵陣を切り裂いていく。フランス軍が放つ凄絶な砲火をかいくぐり、ヴィンツィンゲローデの義勇兵たちがその後ろに続く。
敵の火点を潰しながらの完璧な援護射撃、そして北方軍の圧倒的な物量と洗練された連携。それらが怒涛の全奏となって、またたく間にモンマルトルの丘周囲の防衛線を押し潰し、丘に立て籠もるフランス軍を孤立させ無力化することに成功する。
ヴォロンツォフはモンマルトルの麓に立ち、ビューローに頭を下げた。
「我が師団が流した血、そしてロシアが舐めたすべての屈辱を、閣下の指揮により今ようやく清算できました。私のボロジノからの長き追撃の旅も、ここで終わりのようです」
血まみれのサーベルを、鞘に納めて息を整えると、次いで、硝煙と死臭の漂う戦火のなかに立つ、傷だらけの義勇兵の指揮官へと視線を向けた。
「……貴殿らの執念、しかと見届けた。凄絶な火力を恐れぬ見事な突撃、我がロシア正規兵の誇りに懸けて感謝する。復讐の義勇兵の名は、このモンマルトルの地に深く刻まれるだろう」
義勇兵の指揮官は、煤まみれの顔で小さく首を振った。
「…………もったいなきお言葉。ですが、我らに誇りなど残されてはおりませぬ。ただ、故郷を焼かれた死者たちの怨嗟が、ここまで我々の背を押してきたに過ぎんのです」
――同日、午後三時。
パリを防衛するフランス軍の眼前に、北方軍自慢の最新鋭重砲兵隊が続々と不気味な砲列を敷いていく光景が一望できた。それはまるで、花の都を取り囲む、死を告げる巨大な風琴のようであった。
「照準を確認しろ。パリの市街すべてが、射程内に収まっているか?」
砲兵隊長が静かに頷いた。
「いつでもいけます、閣下。一発でルーヴルを粉砕してみせましょう」
その頼もしい言葉を聞くと、ビューローは静かに剣を下ろし胸のセラフィム勲章を誇らしげに揺らした。戦場に求めた交響曲は、まさに今、これ以上ない完璧な形で完成しようとしていた。
「撃つ必要はない。大砲がここにあるという事実そのものが、ナポレオンへの死刑宣告だ。……さあ、デジレ夫人。あとは、あなたの出番です」
それは、血を流さずに勝利を確定させる「無音の終止符」であった。この狂乱の舞台を完璧に支配した指揮者は、ただ静寂の余韻に浸っていた。
その光景を眺めていたボイエンは、震える手で日記帳を閉じた。
「我々は、とてつもない歴史の転換点にいます。チェルニショフがナポレオンを欺き、ヴィンツィンゲローデとテッテンボルンが足止めのために部下を捕虜に差し出し、ビューロー閣下が書類を整理するようにパリに大砲を並べた。これこそが、新たな時代の戦争なのです」
パリ、花の都。その運命はナポレオンの剣ではなく、パリを取り囲む北方軍の砲口と、デジレの知性に委ねられたのである。
砲声が激しく響き渡る中、マルモン元帥の臨時司令部に、泥と煤にまみれた馬車が滑り込んでくる。降り立ったのは、華美なドレスを脱ぎ捨て、旅装に身を包んだデジレ・クラリーだった。部下たちが制止するのも聞かず、デジレはマルモンの執務室へと毅然とした足取りで押し入る。
「王太子妃殿下……!? 馬鹿な、なぜあなたがこんな戦火のただ中にいる!」
「これを受け取ってください、マルモン元帥。あなたにどうしても、私から直接お渡ししなければならなかったのです」
デジレは懐から、スウェーデン王室の封印が押された一通の手紙を取り出し、机の上に静かに置く。マルモンは驚きに目を見張りつつも、手紙を手に取り、厳かに封を切る。
『マルモン元帥、我が古き戦友へ
この手紙が貴殿のもとに届く頃、連合軍はすでにパリの目と鼻の先に迫っていることだろう。ジョゼフ公からの死守命令が貴殿を縛り、忠義と現実の間で苦悩しているであろうことは容易に想像がつく。だが、無益な流血はここで終わりにしなければならない。これ以上の抵抗は、フランスの栄光を救うものではなく、ただパリの街を灰にし、うら若き同胞の命を散らすだけだ。
ここに、北方軍総司令官としての私の名誉にかけて約束する。貴殿が武器を収め、抵抗を止めるならば、連合軍によるパリ市内への略奪、暴行、破壊行為は一切行わせない。市民の生命と財産、そしてパリの美しい街並みは、完全に無傷のまま保たれることを確約しよう。かつて共に戦った戦友として、私は貴殿に不名誉な降伏を求めているのではない。パリを守るという、真に偉大な決断を求めているのだ。私の言葉を信じ、賢明な判断を下されることを切に願う。
スウェーデン王太子カール・ヨハン(ジャン=バティスト・ベルナドット)』
ジョゼフの命令書を受け取った後も抵抗を続けていたマルモン元帥は、デジレが持参した手紙を読み終えると、苦渋の表情でデジレを見つめる。
「ジャンは、妃殿下をこれほど危険な場所に寄越してまで、私を説得したかったというわけですか。……いや、これは奴の意志であると同時に、あなた自身の意志ですね、デジレ様」
「パリを、そこに生きる人々をこれ以上死なせたくないのです。……お願いです、マルモン元帥。どうか皇帝の幻影と心中しないでください」
マルモンはしばらく黙祷するように目を閉じた後、深く息を吐き出して目を開けると、傍らに控える副官に向き直る。
「伝令! すべての戦線に通達。即時、戦闘を停止せよ。……連合軍との停戦交渉に入る」
東でチェルニショフを追い回している間に背後の補給路は絶たれ、パリは包囲され、自慢の軍勢は袋の鼠となっていた。
それでも、ナポレオンは死に物狂いで馬を飛ばした。
だが、フォンテンブロー宮殿の執務室に駆け込んだ彼に、伝令兵は震える声で告げる。
「陛下……マルモン元帥はすでに戦闘を停止し、連合軍と退去交渉に入りました」
「馬鹿なッ! マルモンめ、余の許可もなく!」
ナポレオンは激昂し、机を激しく叩きつけた。書類が音を立てて跳ねる。
「我が弟のように目をかけ、元帥にしてやった男が余を裏切ったか! いかなる甘言に惑わされた!」
「……停戦直前、元帥の司令部にスウェーデン王太子からの親書が届きました。それを砲火の中、直接届けたのは……王太子妃、デジレ・クラリー殿下であると噂されています」
その瞬間、ナポレオンは石像のように硬直した。
「……デジレだと?」
脳裏に蘇る、二十年前のマルセイユの光。最初の婚約者の、あの初々しい笑顔。
ベルナドットが書き、デジレが届け、マルモンが応じた。自分の人生を彩った者たちが、最後の瞬間に手を取り合い、自分を終わらせるために動いたのだ。
「あいつらは……余の『幻影』から、フランスを救おうとしたのだな。デジレ、お前ならそう言うだろう……」
ナポレオンの顔から怒りが引き、血を吐くような困惑が広がる。椅子へ崩れ落ちそうになりながらも、最後の気力を振り絞って立ち上がった。
「まだだ! パリが略奪に遭い、民衆が怒り狂った時こそが、余の逆転の好機だ! 混沌こそが余の味方なのだ!」
しかし、パリから略奪や暴動の知らせはいつまで経っても届かない。
「なぜだ……。なぜロシア兵やプロイセン兵が、パンを奪わずに、静かに行進しているのだ!」
ベルナドットが育て上げた北方軍の巨大な兵站網は、自軍のみならず、合流したボヘミア軍やシレジア軍の胃袋までも完全に支えきっていた。極限まで管理された補給によって兵士には温かい食事と十分な手当が与えられ、パリの街角で略奪が起きる隙など寸分も存在しなかったのである。
皇帝は力なく剣を落とした。
「……余の、負けか」
そこには、ナポレオンの天才が入り込む余地のない、非情なまでの「正解」が横たわっていた。
ビューローらは、ヴィトリと囮とパリ攻略戦あわせて、600人の死者と2000~3000人の負傷者を出しただけです。これだけの損害で、ナポレオン含むフランス軍10万人を丸ごと捕虜にしたのです。
ただ、パリ攻防戦、連合軍は十万ぐらいしかいないので、ナポレオンの本隊が帰ってきて各個撃破される可能性は十分にありました。時間との勝負です。




