パリ陥落
三月三十日 午前6時
パリ東方の戦場は、泥沼の消耗戦と化していた。
シレジア軍の陣営は【ランスの戦い】の後、内側から瓦解しかけていた。総司令官ブリュッヘルは、後方の天幕で「フランス兵に象を孕まされた」とうわ言を繰り返す錯乱状態にある。だが、現場の兵も将も、誰もがこの勇敢な老将を愛し、その快復を祈っていた。
問題はグナイゼナウだった。
その的外れな命令に激怒した最前線のヨルク将軍は、「これ以上邪魔をするなら処刑する」と彼を脅し、天幕に引き籠もらせて完全に排除した。
代わりに軍の実務を回したのは、グナイゼナウより遥かに現場が見えている次席参謀ミュッフリンクだった。
「ミュッフリンク、あの阿呆の気合など泥濘では役に立たん! 皇帝を止めるのは我が兵の銃剣だ!」
「分かっています、ヨルク閣下。即座に戦列を再編します!」
ヨルクの凄絶な執念と、ミュッフリンクの確かな実務能力。この二人の連携のもと、二万のシレジア軍が、迫り来るフランス軍の猛攻を肉の壁となって受け止め続けた。
同日 午前11時
パリ南方の戦場は、フランス軍の猛反撃を前に、凄絶な返り討ちにあっていた。
連合軍の主力たるボヘミア軍を動かしていたのは、もはや軍事的な合理性すら超えた「天啓」だった。
総司令官シュヴァルツェンベルクはナポレオンの影に怯え、退却すら視野に入れた凡庸な慎重論を繰り返していた。だが、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、そのすべてを無視した。
今、ナポレオンはここにはいない。アレクサンドルの脳裏に、聖なる確信が閃く。
「これこそが天啓だ。奴が虚空を追って首都を空けた今こそ……全軍、パリへ直進せよ!」
進軍する気のないオーストリア軍を置き去りにし、南方からアレクサンドルは自らロシア軍を率い、主が留守する首都へ三万の軍を進撃させ、戦闘を開始した。
降り注ぐ弾雨の中、アレクサンドルは自ら馬を駆って前線へ飛び出し、動揺する将軍たちを叱咤する。
皇帝の強烈な執念に突き動かされ、ロシア兵は数千の凄惨な死傷者を出しながらも、肉の壁を押し進めて防衛線の一角への力攻めを挑み続けた。
この南からの行軍に呼応するかのように、ビューローは北方軍主力であった五万の軍勢を率い、パリの北方にそびえる最終標的、モンマルトルの丘へ向けて強行軍を敢行していた。
同日 午後一時
彼らは道中で遭遇したフランス軍の抵抗を力づくで粉砕しながら進み、パリの北方に到着すると大軍を堂々と展開させ、フランス軍の防衛線を、完全に北側から蓋をした。
花の都パリ――この壮大な大終曲を飾るにふさわしい世界最高の大舞台を前に、ビューローは馬上から指揮棒をふるように剣を掲げた。
「ヴォロンツォフ、我らの総仕上げだ。……行くぞ、パリの喉元へ!」
パリ北部で防衛線を敷くマルモン軍に対し、ヴォロンツォフ率いる前衛部隊が猛然と襲いかかった。クラオンでの雪辱に燃えるヴォロンツォフは、貴族らしい優雅さを狂気へと変え、自らサーベルを振るって敵陣を切り裂いていく。フランス軍が放つ凄絶な砲火をかいくぐり、ヴィンツィンゲローデの義勇兵たちがその後ろに続いた。
敵の火点を潰しながらの完璧な援護射撃、そして北方軍の圧倒的な物量と洗練された連携。それらが怒涛の全奏となって、またたく間にモンマルトルの丘の防衛線を押し潰した。
ヴォロンツォフは制圧した丘の上に立ち、ビューローに頭を下げる。
「我が師団が流した血、そしてロシアが舐めたすべての屈辱を、閣下の指揮により今ようやく清算できました。私のボロジノからの長き追撃の旅も、ここで終わりのようです」
血まみれのサーベルを、カチリと音を立てて鞘に納めて息を整えると、次いで、硝煙と死臭の漂う戦火のなかに立つ、傷だらけの義勇兵の指揮官へと視線を向けた。
「……貴殿らの執念、しかと見届けた。凄絶な火力を恐れぬ見事な突撃、我がロシア正規兵の誇りに懸けて感謝する。復讐の義勇兵の名は、このモンマルトルの地に深く刻まれるだろう」
義勇兵の指揮官は、煤まみれの顔で小さく首を振った。
「……もったいなきお言葉。ですが、我らに誇りなどありませぬ。ただ、故郷を焼かれた死者たちの怨嗟が、ここまで我々の背を押したに過ぎんのですから」
同日 午後三時
パリを一望するモンマルトルの丘に、北方軍自慢の最新鋭重砲兵隊が続々と不気味な砲列を敷いていく。それはまるで、花の都を見下ろす丘に鎮座した、死を告げる巨大な風琴のようであった。
「照準を確認しろ。パリの市街すべてが、射程内に収まっているか?」
砲兵隊長が静かに頷いた。
「いつでもいけます、閣下。一発でルーヴルを粉砕してみせましょう」
その頼もしい言葉を聞くと、ビューローは静かに剣を下ろし胸のセラフィム勲章を誇らしげに揺らした。戦場に求めた交響曲は、まさに今、これ以上ない完璧な形で完成しようとしていた。
「撃つ必要はない。大砲がここにあるという事実そのものが、ナポレオンへの死刑宣告だ。……さあ、デジレ夫人。あとは、あなたの出番です」
それは、血を流さずに勝利を確定させる「無音の終止符」であった。この狂乱の舞台を完璧に支配した指揮者は、ただ静寂の余韻に浸っていた。
その光景を眺めていたボイエンは、震える手で日記帳を閉じた。
「我々は、とてつもない歴史の転換点にいます。チェルニショフがナポレオンを欺き、ヴィンツィンゲローデとテッテンボルンが足止めのために部下を捕虜に差し出し、ビューロー閣下が書類を整理するようにパリに大砲を並べた。これこそが、新たな時代の戦争なのです」
パリ、花の都。その運命はナポレオンの剣ではなく、モンマルトルに並んだ北方軍の砲口と、市内でナポレオンの兄と密談するデジレの知性に委ねられたのである。
パリ市内。デジレはナポレオンの兄ジョゼフと、その妻である姉のジュリーを訪ね、静かに、しかし断固として告げた。
「お兄様、ジュリー。もうお止めなさい。たとえパリを火の海にしたところで、あの人の砲口が揺らぐことはないわ。これ以上の抵抗は、もはや道理に合わないことよ」
デジレの忠告、そしてモンマルトルを占領したビューローの圧倒的な重砲の威圧を前に、パリ防衛総司令官であるジョゼフは覚悟を決めた。
彼は震える手で一枚の命令書を書き上げ、防衛責任者であるマルモン元帥へと託すと、家族を連れてパリから退避した。
『……これ以上の防衛は不可能と判断する。連合軍との降伏交渉を許可する。ジョゼフ・ボナパルト』
命令書を受け取ったマルモン元帥は、苦渋の決断を下す。
「……略奪も暴行もしないと、ベルナドットは約束したのだな。ならば、これ以上の抵抗は無意味だ」
ナポレオンはパリ陥落の報に接し、死に物狂いで馬を飛ばした。
「まだだ! パリが略奪に遭い、民衆が怒り狂った時こそが、わが逆転の好機だ! 混沌こそが私の味方なのだ!」
しかし、彼が目にしたのは、期待した「燃えるパリ」ではなかった。
北方軍の兵站は、ベルナドットの事務仕事によって極限まで整えられていた。兵士たちには温かい食事と十分な手当が与えられ、パリの街角で略奪が起きる隙など一分たりとも存在しなかったのである。
「なぜだ……。なぜロシア兵やプロイセン兵が、パンを奪わずに、静かに行進しているのだ!」
乾いた唇から漏れたのは、怒りではなく、血を吐くような困惑だった。気づいたときには、すべてが終わっていた。東でチェルニショフを追い回している間に、背後の補給路は絶たれ、パリの門は内側から開かれ、自慢の軍勢は袋の鼠となっていた。
「……全軍、捕虜か」
皇帝は力なく剣を落とした。
かつて自分が愛した女性デジレが守り抜いた街を、かつての部下ベルナドットが「知性と物流」で完全に制圧した。
そこには、ナポレオンの天才が入り込む余地のない、非情なまでの「正解」が横たわっていたのである。
ビューローらは、ヴィトリと囮とパリ攻略戦あわせて、600人の死者と2000~3000人の負傷者を出しただけです。これだけの損害で、ナポレオン含むフランス軍10万人を丸ごと捕虜にしたのです。
ただ、パリ攻防戦、連合軍は十万ぐらいしかいないので、ナポレオンの本隊が帰ってきて各個撃破される可能性は十分にありました。時間との勝負です。




