唯一の逆転の解
一八一四年三月二十二日。ヴィトリがナポレオンの本隊によって包囲されていた事を知ったビューローは、歴史に残る「詐欺的」な博打を提案した。
「タウエンツェーンの救援に行って欲しい。そこで、ヴィンツィンゲローデ、チェルニショフ。君たちの『虚数』を、最後はもっとも派手な『実数』に変換してくれ。標的は、あのナポレオン本人だ。テッテンボルン、準備はいいな」
ナポレオンを引きつける囮となる三人に大胆な指示を出すと、ビューローは自身の隣に立つ男へと視線を移した。
「ナポレオンは今、落ちるはずのない要塞都市ヴィトリを叩いて喜んでいる。その隙に、我々はこの『潤沢な胃袋』をもってパリに直行する。ヴォロンツォフ、パリを落としにいくぞ……さあ、皇帝に教えてやろう。数学を忘れた天才の、悲しい末路を」
本隊がパリへ行く裏で、囮として残されたのは、わずか一万の騎兵。対する相手は、ナポレオン直率の近衛隊を含む主力軍であった。
通常ならば死刑宣告に等しいこの任務を前に、テッテンボルンが、いたずらっぽく口角を上げた。
「……面白そうですね。ナポレオン相手に、壮大な空売りを仕掛けてやるとしましょう」
その隣で、ヴィンツィンゲローデもまた、静かに頷いていた。
クラオンの惨劇を経て、彼は私怨という個人的な感情を脳内から完全に削ぎ落としていた。
「ヴォロンツォフ、今度こそ借りを返す。クラオンで間に合わなかった失態を今度は俺が命懸けで時間を稼いで帳消しにする。だから、パリを落としてきてくれ」
「分かりました。今度こそお願いします。パリを落とすには、……あなたの描く『虚構』が必要なのですから」
かつてクラオンで夢想して失敗した信頼による連携が、ヴォロンツォフは今度こそ成功すると確信していた。彼は自らの軍勢を率いて一足先にパリへと背を向けた。その背中を見送りながら、ヴィンツィンゲローデは残る二人に視線を戻す。
「テッテンボルン、チェルニショフ。かつての私なら、この一万の騎兵でナポレオンの首に直接突撃していただろう。……だが、王太子の道理を学んだ今なら分かる。奴を戦場で打ち倒すことなど、ただの自己満足にすぎん。最も容赦のない復讐とは、あの怪物の知性を完璧に欺き、自ら破産へと歩ませるこの欺瞞の構築だ」
チェルニショフはニヤリと笑みを浮かべ、傭兵隊長の言葉を引き継いだ。
「やっと気づいたのか。まあ、良い。ヴィンツィンゲローデ。本当の詐欺ってやつを、ナポレオンに教えてやるから協力しろ」
こうして、一万の騎兵による希代の大芝居が始まった。
チェルニショフはコサックたちに命じ、広大な戦線のあちこちで同時に巨大な焚き火を焚かせ、数万の軍勢が野営しているかのように見せかけた。
さらに、テッテンボルンは、ベルナドットがリエージュで作成した「北方軍十万」の偽装命令書をわざとフランス軍の斥候に拾わせ、あたかもベルナドット本人が精鋭を率いて背後に迫っているという、完璧な虚構を作り上げたのである。
ナポレオンは、眼前に現れた騎兵隊の「厚み」と、その背後に漂う情報の霧に、完全に判断を狂わされた。ヴィトリを救援に北方軍の本隊がとうとう南下してきたと考えてしまった。
「……やはり来たか、ベルナドット。君との長き勝負、ここで一気に終わらせる」
それは単なる怒りの爆発ではなかった。
常に自分の人生のすぐ側を並走し続けた男との決着の時が、ついに訪れたのだ。
いや、それだけではない。この熱を帯びた執着の裏には、戦略の計算もあった。
すでに未来の資産を削られ、構造的な破産に追い込まれていたナポレオンにとって、同盟軍の巨大な物流を根底から支える「ベルナドットという存在そのもの」を直接叩き潰すこと以外、もはやこの戦争に勝つ道はどこにも残されていなかったのだ。
他のすべてを捨ててでも、ベルナドットの首を獲る。それだけが、天才が導き出した唯一の逆転の解であった。だが、その最後に出した正解が、皮肉にも完璧な囮として機能した瞬間だった。
仕掛けられた虚構に飛び込んだ皇帝を、情報の霧がさらに深く包み込んでいく。
三月二十六日
ナポレオンはチェルニショフの軽騎兵を追い詰め、ヴィンツィンゲローデとテッテンボルンの軍を捕捉することに成功する。――それが、すべて敵の掌の上だとは知らずに。
「報告! 北方軍の騎兵隊が壊滅! 捕虜が続出しております!」
兵数に圧倒的な差がある以上、正面衝突になれば勝負になどならず、ヴィンツィンゲローデの本隊は瞬く間に崩れていく。ナポレオンは狂喜した。
だが、崩壊する自軍を見守るヴィンツィンゲローデの口元には、冷ややかな苦笑が浮かんでいた。「失った」兵たちの多くは、わざと捕虜となり、フランス軍の進軍速度を内側から削ぐための「生きた重り」であったのだ。
捕虜となった彼らは、ベルナドットの指示通りにフランス軍のわずかな糧食を食い潰し、その行軍をシステム的に引き止めるという最後の実務をこなしていたのである。
ナポレオンが精鋭を率いて襲いかかったのは、最初から最後まで「北方軍十万」という名のただの幻影にすぎなかった。
そして、この完璧な勝利の果てに、ナポレオンを最も深く絶望させたのは、掴み取った捕虜の山のどこを探しても、あの男の姿が最初から存在しなかったという事実であった。
同盟軍の背後を支えるあの男を倒さねば、この盤面は絶対にひっくり返らない。だが、その最後に残された僅かな可能性でさえも、最初から存在しない幻であった。
怪物は、ただリエージュの事務机の上で弾かれた数式の残像を相手に、一人で踊らされていたのである。
ここまでしないと倒せないナポレオンも凄いですよね。最後のフランス国内戦のナポレオンは化物です。
デネヴィッツでは戦場で応用された軍事幾何学が、ライプツィヒの戦いでは北方軍の関与する広大な戦場全体で応用され、パリ攻略戦ではフランス国内を舞台に広い範囲で応用されています。
この正面の敵に勝利すればするほど、奥に誘導され退路を断たれていく感じが、軍事幾何学の真骨頂で、ビューローがたどり着いた境地なんだと思います。




