神の啓示の正体
輝かしい勝利の余韻は、ラオンの勝利の3日後にシレジア軍が持ち込んできたランスの敗報によって一瞬で吹き飛んだ。
「……信じられん。あの連中、また同じ罠に嵌まったのか」
ビューローは、届いた戦況報告書をデスクに叩きつけ、忌々しげに吐き捨てた。
ラオンで手痛い敗北を喫したはずのナポレオンは、連合軍の追撃が不自然に止まった隙を見逃さず、三月十三日にランスへ突入。そこにいたサン=プリエストの部隊を電光石火の速さで急襲し、完膚なきまでに叩き潰したのである。
ブリュッヘルの狂気とグナイゼナウの隠蔽がもたらした「空白の時間」が、怪物をみたび蘇らせてしまったのだ。
三月二十一日
クラオンの戦いの損耗から急速に回復した北方軍の元に急報が入る。
偵察から戻ったテッテンボルンが、跳ね上げた泥を撒き散らしながら天幕へ滑り込んだ。
「ビューロー閣下! 緊急です! ナポレオンがボヘミア軍と交戦後、全軍を反転させました! ナポレオンの本当の狙いは我らが水路の要点、ヴィトリです」
天幕の中に、冷たい緊張が走った。
ナポレオンは眼前の連合軍との決戦を避け、最後の大勝負として連合軍全体の「胃袋」を断つことで、戦況を一気に逆転させようというのだ。
「……なるほど、いつものやり方というわけか」ビューローは懐のハインリッヒの遺稿を握りしめた。
「だが、遅すぎる。ヴィトリはすでにタウエンツェーンによって、要塞化されている。落ちる心配はあるまい。それに、マルヌ川以外の水路による補給網もすでに完成しており、ヴィトリが数日間封鎖されても何の影響もない」
三月二十二日
「直ちに開門せよ。さもなくば、街を砲撃し焼き払う」
ナポレオンはヴィトリに籠る守備隊に降伏勧告を出すが、タウエンツェーンは毅然と拒絶する。
彼は共に幾度もの戦いを切り抜けてきた民兵達に叫ぶように演説する。
「慌てる必要はない。要塞戦を誰よりも理解しているのは、ハインリヒ親王の右腕たる私だ。全員、今まで通り、完璧に職務を全うしてくれたまえ!」
二十三日
フランス軍の砲撃が始まった。轟音は激しいが、飛んでくるのは野戦砲の軽い弾ばかりで、城壁はびくともしなかった。ただの脅しにすぎず、時間だけが消費されていく。
「慌てるな。敵には砲弾の弾も時間もない。救援はすぐ近くまで来ている」
タウエンツェーンの激を受け、民兵達は城壁の影から正確に銃弾を撃ち続ける。
フランス軍は城壁に近づくこともできず、包囲の輪を縮めることさえできなかった。
二十四日
睨み合いがつづき、散発的な交戦が行われていたが、救援のために北方軍が急接近するという急報がフランス軍に入る。
「包囲を解け、サン=ディジエへ転身して敵の本体を叩く」
ナポレオンはヴィトリから去り、ボヘミア軍の補給線を切るべく移動を開始する。
「あとはまかしたぞ。ビューロー」
包囲を解いて撤退するフランス軍を城下に見送り、タウエンツェーンはつぶやく。
ナポレオンが連合軍の背後へ回り込み、その巨大な陸路による補給線を断ち切ろうとしているという情報を得た連合軍の本営には絶望的な空気が流れていた。
周囲の将軍たちが「背後を突かれれば全滅です!」と騒ぐなか、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、地図の前で静かに目を閉じ、そして見開いた。
「……聞こえる。神の御声が、私に『気にせずパリへ向かえ』と告げておられる」ざわめく幕僚たちを前に、アレクサンドルは確信に満ちた声で断言した。
「ナポレオンはわが軍の命脈を断った。だが、神はすでに別の命脈を用意されている。ベルナドット……あの『北の使徒』が泥の道ではない道を、もう一つの命の道を拓いた。それが我々を救うのだ!」
アレクサンドルの言う「命の道」とは、スウェーデン王太子ベルナドットが工兵と官僚を動員して整備した、運河網を利用した水上輸送の事であった。
神の啓示とは、奇跡などではない。王太子が運河の水面に張り巡らせた、この完璧な図面のことだったのだ。その網の目のように巡る水路から、北方軍の管理するパンと弾薬が無尽蔵に流れ込み、泥沼にあえぐ前線を静かに、かつ正確にコントロールしていた。
北方軍からの兵站は嫌がらせでシレジア軍やボヘミア軍に供給されなかったと良く言われますが、普通に両軍とも進軍していることから、よくあるベルナドット叩きのひとつと思います。意地悪で兵站を止めるって、アレクサンドルやメッテルニヒが許すはずもないですしね。




