追撃中止
ラオンの激戦が終わり、ナポレオン軍が算を乱して敗走を始めた。
「今だ! 追撃しろ! 息の根を止めるんだ!」
ビューローが叫び、チェルニショフら北方軍の騎兵たちが馬に拍車をかけようとしたその瞬間、シレジア軍の本陣から信じがたい命令が響き渡る。
「ブリュッヘル元帥の命令だ。追撃中止! 全軍、その場に留まれ!」口々に伝令が叫ぶ。
戦場は凍りついた。あのブリュッヘルが進軍停止の命令をするなんてありえない。今、なぜ足を止めるのか。
だが、命令の混乱は致命的であった。
ビューローとヨルクは、それぞれの戦区で苦渋の決断を下した。
「……止まれ! 命令を確認してくる」
二人は即座に馬を翻した。
硝煙の丘を駆け下り、真後ろのシレジア軍本陣へと馬群を激しく疾走させる。
暗闇に沈む天幕の前で二人は合流し、そのまま怒号とともに殴り込んだ。
ビューローが乱暴に幕を引き裂いた瞬間、そこにあった光景に、ヨルクは激昂の言葉を失い絶句した。
「ブリュッヘル閣下……」
ブリュッヘルは天幕の奥で毛布にくるまり、「私は象を身ごもった! 重くて動けんのだ!」と、完全に妄想の世界へ旅立っていた。【六日間の戦役】の惨敗による心労と病は、プロイセンの生ける伝説を戦う前に完全に破壊していたのだ。
「グナイゼナウッ! 貴様、何ということをしてくれた!」
ヨルクが怒鳴りつけ、隣で青ざめて立っていたグナイゼナウに、迷わずピストルを突きつける。
「閣下が正気でないことを隠すために、偽の命令を使って全軍の足を止めたというのか! プロイセンの勝利を、貴様のつまらぬ保身のためにドブに捨てたのか!」
「ま、待て、ヨルク! ナポレオンは本当に伏兵を隠していたのだ、こうしなければ我が軍は──」
「死ねッ!」
ヨルクが引き金に指をかけた瞬間、横からミュッフリンクが必死の体当たりでそれを阻止した。
「やめてください、閣下! ここで参謀長を射殺したら、それこそ本当にこの軍は終わりです!」
ミュッフリンクは泥まみれになりながら、泣き出しそうな声で叫んだ。
「分かっています、あいつらは馬鹿です! 救いようのない、気合だけの狂人です! ですが、今はパリが……パリが我々を待っているんです!」
一八一四年三月、フランス戦役の最終盤。この世のものとは思えない「追撃中止」の報せは、リエージュのベルナドットのもとにも届いた。
「……ブリュッヘルが象を産んだだと?」
ベルナドットは報告書を握ったまま、三分間ほど石のように固まった。
彼はペンを置き、ゆっくりと立ち上がると、スチュワートとナイペルクを振り返った。
「スチュワート。……プロイセンには、ナポレオンよりも恐ろしい変数が存在するようだな。それは『純粋な狂気』というやつだ。わが計算式には、流石に『象の出産』までは含まれていなかったよ」
英国特使スチュワートは、もはや笑う気力もなく、ナイペルク伯爵の肩を叩いた。
「ボイエンの奴は、前線ではなく精神病院を予約しておくべきだった」
ベルナドットは手元のペンを放り出し、新しい書類を広げた。
「いいだろう。シレジア軍が象を産んでいる間に、我らが自力でパリの門をこじ開けるまでだ」
史上最大の茶番劇。だが、その影でナポレオンは再び息を吹き返そうとしていた。
ブリュッヘルが精神錯乱していたのは史実なのですが、本当にしていたのか仮病なのかは誰にもわかりません。ともかくも、ブリュッヘルがいなくなった事で、ビューローに指揮権がスムーズに戻ります
この時点では誰も気にしなかったのですが、北方軍は名前だけはシレジア軍になったままです。兵站も命令系統もすべて北方軍のままですが。




