血戦、ラオン
――ラオン、一八一四年三月八日。
ナポレオンの猛攻によって満身創痍にされたヴォロンツォフとヴィンツィンゲローデの軍勢が、命からがらビューローの守るこの高地へと辿り着いた。
二人は数日前、ビューローの制止を振り切り、親切心からシレジア軍を助けに向かったはずだった。だが、クラオンで待っていたのはグナイゼナウの支離滅裂な配置と、それを見透かしたナポレオンの電撃的な強襲であった。
「ビューロー閣下……合わせる顔もありません」
ヴォロンツォフは、新調したばかりの外套を再び血と泥で汚し、力なく膝をついた。
「王太子が仰った通りでした。あの方々の『気合』に付き合うことは、穴の開いたバケツに水を注ぐようなものだ。わが自慢の兵たちが、無意味な死に場所を与えられた……。私は決めました。これからは、王太子の道理のみに従って戦います」
その傍らで、ヴィンツィンゲローデは恥辱に顔を歪め、深く頭を下げた。
「ヴォロンツォフ、すまない……。私の無能のせいで、貴公の部隊をただ見殺しにしてしまった。どうか許してくれ」
彼はそう吐き出すと、悔しさに腰のサーベルの柄を強く握りしめた。
「グナイゼナウの野郎……。あいつの描く進軍図は、もはや魔術か呪いだ。二度と関わりたくない!」
「……よく戻った。もういい、何も言うな」
ビューローは、手痛い損害を受けたヴォロンツォフと、怒りに震えるヴィンツィンゲローデの手を優しく握った。
憔悴しきった兵士たちを見渡すと、彼はベルナドットから届いたばかりの、輝くばかりの兵糧の山を指差した。
「諸君、これは王太子からの差し入れだ。リエージュで書類と格闘しているあいつが、君たちのために特等品のパンと肉を用意させた。……まずは食え。食って、眠れ。配置に就いたら、ただ座っていればいい。何もしなくていいんだ。君たちがそこにいてくれるだけで、王太子の計算は成り立つ」
ヴォロンツォフは温かいスープの香りに、最初に北方軍に来たときのような、軍人としての安らぎを覚え、声もなく涙を流した。
北方軍の潤沢な補給で息を吹き返した陣営で、ビューローは即座に己の「交響曲」の準備を始めた。グナイゼナウの支離滅裂な命令書を読みもせずに破り捨て、現実的な知性を持つヨルクとミュッフリンクだけを天幕へと呼び寄せる。
いざ作戦会議を始めようとした、その時だった。
「ビューロー閣下、ブリュッヘル元帥の命令を無視なさる気ですか!」
拒絶された男が、総司令官の威光を盾にしてなおも自らの作戦をまくしたてる。しかし、それを完全に無視して地図に目を落とすと、背後からさらに鋭い声が飛んだ。
「命令違反は軍法会議ものです。あなたの弟のようになりたいのですか!」
その卑劣な脅しに、屈強な大きな体が怒りで一瞬、跳ね上がった。亡き弟ハインリヒが送り込まれた要塞の責任者は目の前の男であり、ロシアに身柄を引き渡したのも……。
だが、胸のセラフィム勲章に触れ、驚異的な自制心で自らをねじ伏せる。まるで、頭の中に描いた完璧な総譜にのみ没入する指揮者のように。
「グナイゼナウ殿。ブリュッヘル元帥の正式な署名がない以上、我が軍の指揮権は私にある。そしてあなたには――最初から一兵の指揮権もない」
言葉を失った相手を「耳障りな雑音だ」と言わんばかりに天幕の外へと締め出すと、すぐさま視線を卓上へと戻した。
「ミュッフリンク、王太子から預かった砲兵の配置状況を」
阿吽の呼吸で、彼は手帳を広げ、淀みなく数字を並べた。
「すべて完了しています、閣下。『十二ポンド重砲』の三個中隊を、高地の死角へ完全に伏せました。さらに、『榴弾砲』陣地、『臼砲』陣地は、この崖の下の敵からは視認できない、丘の背後の底へと完璧に潜ませてあります。敵が丘の斜面を上り詰めた瞬間、射撃の等式が一斉に成立します」
パラリ、と手帳のページをめくり、言葉を弾ませる。
「さらに、『機動砲兵』の二個中隊は、騎兵旅団と共に丘のふもとの平原へと待機させました。重砲が敵の陣形を切り裂いた瞬間、即座に平原へ打って出て、ナポレオン軍の横腹に散弾を叩き込む手はずです」
見事な「楽譜」を差し出された指揮官は、満足げに頷いて隣の宿将を見つめた。
「ヨルク閣下、貴公にはこの丘の死守をお願いします。ナポレオンの正面からの突撃を、完璧な定数として受け止めてください。……あとは自分がします」
宿将は冷ややかに口元を歪め、
「魂の突撃などという絵空事は今回は不要だ。我々はただ、ここに動かぬ壁として君臨しよう」
「感謝します。……これよりナポレオンの消去を実行するとしましょう」
――三月九日、ナポレオンは「壊滅したはずのシレジア軍」にとどめを刺すべく、傲慢なまでの自信とともにラオンの丘へ進軍した。だが、彼が視界に捉えたのは、絶望に沈む敗残兵ではなく、北方軍の精密な計画に守られた要塞であった。
「……何かが違う。この陣形、グナイゼナウの仕業ではないな」
ナポレオンが不穏な気配を感じた瞬間、丘の頂に立つビューローが、戦場の拍子を支配するように、滑らかに剣を掲げると同時に、北方軍の兵士が叫ぶ。
「今だ! オヤジの『贈り物』をすべて解き放て!」
砲兵隊の斉射が、ラオンの大気を一瞬で引き裂いた。ベルナドットが密かに、かつ完璧な整備を施して送り出していた巨大な重砲群が、戦場をひとつの音響空間に変えるほどの暴力的な音圧でフランス軍を撃ち抜いていく。
正面でヨルクが決して揺るがぬ反復音として敵を食い止め、機動砲兵が至近距離から凶悪な散弾の横槍を入れる。それは複数の火力が完璧に噛み合う、残酷なまでの対位法であった。
「……馬鹿な! なぜ、これほどの火力が……!」
突撃を試みたフランス軍は、物理法則そのもののような鉄の雨にさらされ、戦う前に粉砕された。このラオンの丘は、完全にビューローという天才の独壇場と化していた。
「見たか、ヴィンツィンゲローデ、ヴォロンツォフ! これが、弟が用意した『解答』だ!」
大砲の残響が轟く丘の頂で、ビューローが咆哮する。その姿は、凡夫の理解を超えた完璧な演奏を成し遂げ、熱狂の波のなかで両腕を広げる絶対的な指揮者そのものであった。
ヴィンツィンゲローデとヴォロンツォフは、配置に就いたままその光景を眺めていた。自分たちを使い潰した「気合」ではなく、リエージュの事務机で練り上げられた「物流と火力の軍事幾何学」が、あの皇帝を完膚なきまでに叩き潰している。
グナイゼナウは、その圧倒的な光景に唇を噛み締め、その才能に、自分が何よりも欲したが与えられなかった才能に……絶望する。
「ハインリヒ……お前は死してなお、兄の肉体を借りて私を嘲笑うのか」
日が落ち、ラオンの丘を震わせていた砲声が止んだ。
ナポレオン本隊は、ビューローの配置した重砲群と鉄壁の歩兵陣によって無残にすり潰され、ついに丘の麓から血まみれの足を引きずって後退していった。
硝煙の立ち込める丘の頂で、ビューローが静かに剣を収める。
その傍らに進み出たヨルクが、暗闇に沈む東の平原へと視線を向けた。
そこには、ナポレオン本隊と分断され、地形のせいで丘の上の惨状を知る由もないマルモン軍の兵たちが、暖を取るための無数の焚き火を無邪気に灯していた。
「馬鹿な奴らだ」
ヨルクは獰猛な笑みを浮かべた。
「暗闇の中で自らの位置を知らせるなど、的になってくれと言っているようなものだ」
ビューローは、夜の帳に紛れて待機させていた機動砲兵たちへと視線を移した。
「ヨルク閣下。敵の焚き火を標的とし、機動砲兵を密かに展開させます。……敵の横腹に散弾を叩き込みますので、止めはお任せします。我らは、その間に追撃の準備を整えておきます」
「承知した。任せてくれ」
かくして、シレジア軍の宿将ヨルクは、六日間戦役の汚名をそそぐべく、音もなく夜の平原を移動した。
野営地の闇を裂いたのは、一斉に放たれた機動砲兵の轟音だった。
無数の散弾がマルモンの陣地へと容赦なく降り注ぎ、平穏だった宿営地は一瞬にして血と絶叫の渦へと変わる。
不意を突かれ、武器を取る間もなく混乱に陥る敵陣へ、今度はヨルクの軍団が怒涛の勢いで躍り出た。
統制を失った兵たちは反撃の機会すら与えられぬまま闇の中へと瓦解していった。
遥か後方では、闇に紛れたテッテンボルンの騎兵たちがフランス軍の退路を脅かし、皇帝の背中を冷たく呪縛していた。兵站を無視した個人の直感による「かつての天才」の独奏は、この完璧に計算された戦場では、もはや虚しい雑音でしかなかった。
ナポレオンは大損害を受けて撤退する本隊と、その横で崩壊して敗走するマルモンの軍を眺め、初めて敗北の深淵を悟った。
「ベルナドット……。貴公は、私の目の届かぬ場所で、どれほどの計算を積み上げていたのだ」
リエージュでベルナドットが羽ペンを置いたその瞬間、ラオンの砲火はナポレオンという名の夢を、鮮やかに塗り潰した。
ナポレオンに簡単に勝つのでビューローって、ヒーローになりにくいんでしょうね。苦戦して勝つというのがないと、大砲の火力による物量とか後方遮断でスマートに勝つと人気が出にくい。




