クラオン
一八一四年三月、フランス北東部の泥濘。
ナポレオンの執拗な追撃に、シレジア軍は袋小路に追い詰められていた。この致命的な戦況を打開するため、アレクサンドル一世らはパリを目指して南下中であった北方軍の別動隊を、シレジア軍の指揮下に組み入れることを決定する。
これにより、ビューロー、ヴォロンツォフ、ヴィンツィンゲローデ、チェルニショフ、テッテンボルンの五人は、ブリュッヘルを操るグナイゼナウの指揮下に入ることとなった。
一八一四年三月、緊迫する前線の一角。
シレジア軍の敗戦の煽りを受ける形となった五人の実務家たちは、不満を隠そうともしなかった。
「軍を崩壊させたグナイゼナウが、無敗のビューロー閣下を指揮するというのは、プロイセン風の悪い冗談なのですかね」
テッテンボルンが皮肉を言う。
「馬鹿馬鹿しい。シレジア軍を救うのなら、王太子の指揮下に奴らを組み入れるのが道理だろうに」
チェルニショフも憤る。
「王太子の計算が狂うのは許可できない」
ビューローが冷たく言い切った。
「シレジア軍が崩壊しようと、パリ攻略のスケジュールは何一つ変わらない。まずはラオンまで進出、そこで軍を結集させる。シレジア軍の残存部隊は、そこでこちらが吸収する。テッテンボルン、ナポレオンの兵站を遮断してくれ、それだけで十分だ」
テッテンボルンは無言で頷き、すぐに己の騎兵部隊を率いて、ナポレオンの背後を呪縛するための闇へと滑り出していた。
「そうは言っても、無視もできまい。ボヘミア軍もナポレオンの反撃に遭って進撃を停止している以上、救いに行く一手しかありません」
ヴォロンツォフが真面目に答える。
それを受けて、ヴィンツィンゲローデが出撃を決意するように言葉を継いだ。
「仕方がない、助けに行くか、王太子の指示に逆らうようだが、あの男には個人的に回収せねばならぬ負債がある。かつてモスクワで私に死刑を宣告したツケを、今度こそすべて清算してやる。チェルニショフ、先に出発してくれ」
一八一四年三月三日、ソワソン。
シレジア軍がナポレオンに退路を断たれ、全滅しかけたその時、ひとりの若き知性が歴史を強引に書き換えた。
「道を開けろ! わが背後にはベルナドット直率の十万の本隊が迫っているぞ! 抵抗すれば、この要塞ごと灰にまみれると思え!」
軽騎兵を率いて先行したチェルニショフは、ソワソン要塞のフランス軍守備隊に対し、喉が裂けんばかりの嘘を叩きつけた。
実際には、ベルナドットは遥か後方のベルギーで膨大な書類の山に埋もれていた。だが、これまでの戦役で全欧に轟いた「北の王太子」の威光と、ビューローたちが積み上げてきた圧倒的な戦果の噂は、守備隊を恐怖させるに十分だった。書類一枚の無血開城。その鮮やかな「虚数の実数化」により門は開き、シレジア軍は辛うじて破滅を免れたのである。
だが、チェルニショフらに命を救われたばかりのグナイゼナウは、感謝の言葉よりも先に、恩人たちへの過酷な命令を口にした。彼は息を整える間すら与えず、クラオンの丘への強行軍を突きつけたのである。
「シレジア軍の指揮下に入った諸君らには、我が命令に従ってもらう事となる。まず手始めに、死ぬ気で走ってクラオンへ強行軍せよ! ヴォロンツォフがそこでナポレオンの攻撃を正面から受け止めている間に、ヴィンツィンゲローデの一万の騎兵が敵の背後を完全に遮断する。我がシレジア軍もすぐに援護に回る。この地獄の行軍こそが、魂が融合する『必勝の陣』を完成させるのだ!」
ヴィンツィンゲローデは、その「背後の遮断」という役割を凝視していた。正面のヴォロンツォフに敵を引きつけさせ、己の騎兵でナポレオンの退路を断つ。これならば、あの怪物を自分の手で葬れる。
かつてモスクワで受けた死刑宣告。その私怨が、冷静な判断力を一瞬だけ狂わせた。彼はこの無謀な共同作戦に乗ることを決意する。
「……面白いな。ヴォロンツォフ、騎兵以外の軍団の指揮権はすべて貴公の配下に託す。貴公の鉄の規律を誇る部隊と我が義勇兵で、どうか正面を死守してほしい。その間に、このヴィンツィンゲローデが背後から騎兵を率いて回り込み、ナポレオンを完全に終わらせてみせよう」
ヴォロンツォフは、その言葉を信じてしまった。ベルナドットの実務的な慎重さを一時忘れ、泥まみれの戦場で、今度こそ軍人同士の「信頼」という等式が完成するのではないか、と夢想したのだ。
だが三月七日、クラオン。
いざ戦いが始まると、そこには絶望的な「空白」しかなかった。
ナポレオンの近衛隊がヴォロンツォフの師団の鼻先に突っ込んできても、約束されたはずのシレジア軍の援軍どころか、北方軍の援軍すら一向に地平線へ現れない。
「……ヴィンツィンゲローデ閣下はいつ到着する。チェルニショフのコサックは何をしている! シレジア軍はどこだ!」
ヴォロンツォフの叫びは、フランス軍が放つ猛烈な砲声にかき消された。
一方、支援に向かうはずだったヴィンツィンゲローデは、大渋滞の渦中でパニックに陥っていた。グナイゼナウの引いた進軍図は、地形の起伏も道路の許容量も無視した、あまりに杜撰なものだったのだ。
「無理だ! この命令書通りに動けば、全軍が崖から落ちるぞ! グナイゼナウの頭のなかには、地図という幾何学の概念が爪の先ほども存在しないのか!」
「ふざけんな。コサックなら空を飛べると思っているのか、あのアホは!」
チェルニショフも崖の前で絶叫する。
気合の信徒たちが描いた絵空事は、現実の泥濘の前に一瞬で瓦解した。
ヴォロンツォフの規律正しきロシア師団と熟練の義勇兵は、約束された「定数」を一切与えられないまま、ナポレオンの狂気的な猛攻の前に、ひとり、またひとりと削り取られていく。
何の補給もなく、弾薬も尽きかけ、ただ自分たちの血でナポレオンを足止めするだけの地獄。クラオンの丘は文字通り、剥き出しの地獄へと姿を変え、ヴォロンツォフの部隊は、ただの「捨て石」となった。
五千の兵を失い、自らも泥を啜って生還したヴォロンツォフを待っていたのは、後方で無傷のまま、不快に唇を歪めるグナイゼナウの顔であった。
「ああ、生還したか、ヴォロンツォフ。貴公の粘り不足のせいで、せっかくの『必勝の陣』が失敗に終わったぞ。ヴィンツィンゲローデの鈍重な騎兵が遅れたのも最悪だ。やはりプロイセンの魂を持たぬベルナドットの部下を組み入れたのは、重大な計算違いであったな」
味方の凄惨な出血を、さも「他人の無能のせいで自分の美しい計画が汚された」と言わんばかりの嫌らしい言い訳。
この瞬間、軍人同士の「信頼の等式」は跡形もなく消滅した。三人の実務家たちの胸中には、グナイゼナウに対する、殺意だけが残された。
「……貴様!」
ヴォロンツォフは全軍の前で激昂した。
「信頼? 魂? 吐き気がする! ビューロー閣下の忠告を聞かず、王太子の道理を捨てて、こんな野蛮な詐欺師たちを助けに来た自分が、世界一の馬鹿だった!」
ヴィンツィンゲローデもまた、泥まみれの命令書をグナイゼナウの足元に叩きつけた。
「閣下、二度と私に『作戦』という言葉を使わないでいただきたい。貴公のそれは、ただの落書きだ!」
「グナイゼナウ。てめえ、コサックは恨みを忘れないことを覚えておけ」
チェルニショフは吐き捨てる。
この惨劇を知ったボイエンは、ラオンの陣営で震えていた。
「我らが信じた『気合』は、ただ味方を使い潰すための免罪符だったのか」ボイエンが、死人のような顔で呟いた。
「ビューロー閣下は、この結果を予見していたのだろうな。だから、あんなに寂しそうな顔でヴォロンツォフたちを送り出したんだ」
リエージュの執務室。
ヴォロンツォフ軍の損害報告を受け、ベルナドットは一晩中、灯りを消さずに書類を書き続けた。
「……すまない、ヴォロンツォフ」彼は折れた羽ペンの跡を見つめ、静かに呟いた。
「私の計算には、彼らの『無能』という名の凶器が含まれていなかった。……だが、これでもう、誰もシレジア軍の『気合』を信じる者はいなくなる。それが、貴公の払った尊い犠牲の解だ」
北方軍の主要メンバーが、シレジア軍の指揮下に入るというよくわからない事がここで生じます。シレジア軍が気合で復活したように見えるのはこの為です。




