プロイセン気合組
ベルリンの参謀本部の一室は、もはや戦略会議室ではなく、熱狂的な新興宗教の集会場と化していた。
ミュッフリンクは目の前の机に広げられた支離滅裂な「改革草案」を見て、こめかみを押さえた。
「シャルンホルスト閣下、申し上げますが……この動員計画は算術的に破綻しています。兵員輸送に必要な兵站の量が、数式として成立していない! 閣下、愛国心では空腹は満たせません。私の計算によれば、兵一人につき一日の──」
「そんなものはどうでもいい、ミュッフリンク!」
シャルンホルストはインクの染みた手で乱暴に頭を掻きむしった。彼は平民から泥にまみれて這い上がり、今やプロイセンの命運を握る軍事の巨頭だ。
「理論など、弾丸が飛び交えば吹き飛ぶ。必要なのは、プロイセン全土を燃え上がらせる『情熱』だ! 緻密な計算よりも、敵を叩き潰す意志の方が重要なのだ!」
「……情熱、ですか」
ミュッフリンクが呟いた。
そこへ横から割り込んできたのはグナイゼナウだ。
「細かいことを言うな! 数字に魂を売るつもりか!」
彼は彼で、猛将ブリュッヘルに「突撃のタイミング」を教え込むための、怪しげな太鼓のリズムを刻んでいる。
「見ろ、このリズムだ! これに合わせて全軍が突撃すれば、兵站などなくてもパリまで到達できる! 素晴らしいだろう、ボイエン!」
話を振られたボイエンは、さらに支離滅裂な書類を広げていた。
「そうだ! 軍隊に厳格な規律など不要。全員が『自由な市民』として、好きな時に好きな場所から撃てば、ナポレオンは混乱して自滅する。これこそが未来の軍制だ!」
「……正気ですか、貴公ら」
ミュッフリンクの正論は、三人の「気合」の前に虚しく霧散していく。
(ああ、信じられない……)
ミュッフリンクの脳裏に、かつてハノーヴァーの密室で対峙した「あの男」の姿が浮かぶ。ベルナドットは庶民の出でありながら、驚くほど合理的に世界を数値化していた。デジレの淹れた紅茶の湯気の向こうで、彼は「南米という変数」を組み込み、大陸封鎖の失敗を数式のように美しく論破してみせたのだ。
(あの会合が、これほどまでに恋しくなるとは)
「おい、ミュッフリンク! 聞いているのか。早くその清書をしろ!」
「……承知いたしました、シャルンホルスト閣下」
ミュッフリンクは再びペンを握ったが、その瞳は遠くを見つめていた。
そこへ、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。
「おい! 酒だ! 酒を持ってこい! ついでにフランス野郎の首もだ!」
現れたのは、プロイセン軍の最終兵器、ブリュッヘルその人である。彼は地図を見るなり、太い指を一本立てた。
「おい、ハノーヴァーで狐に化かされて帰ってきた小僧! 私の前進の速度に追いつけるだけの馬草を今すぐ計算しろ!」
「作戦など簡単だ。私が『前進』と言ったら前進、『叩け』と言ったら叩く! それ以外の言葉を辞書から消せ!」
「閣下、辞書から消しても物理的な距離は消えません」
ミュッフリンクが叫ぶが、グナイゼナウが彼を羽交い締めにし、ブリュッヘルの背中を叩いた。
「さすが閣下! 最高の戦術です! さあ、景気よく太鼓を叩きましょう!」
ドン、ドン、ドコドン。
参謀本部に鳴り響く、数学のかけらもない騒音。ミュッフリンクは絶望の中で天を仰いだ。
「ミュッフリンク! 何をぼーっとしている! お前は兵站担当だろう、気合でパンを二倍に増やす計算をしろ!」
「グナイゼナウ閣下……それは数学ではなく、聖書の奇跡の領域です」
ミュッフリンクの乾いた突っ込みは、プロイセン改革派の三人と一頭の猛獣が奏でる、けたたましい「愛国心」の熱狂にかき消されていった。
ハノーヴァーの夕闇が、今の彼には天国のように遠く、そして愛おしかった。
絶対に歴史ファンから怒られる描写ですが、書いていて楽しいブリュッヘル組です。歴史書ではブリュッヘルがパリを落したみたいに書かれていますが、ビューローらの所属をパリ直前で無理やり変えた為に起こった混乱です。




