二度の追放
――プロイセン、一八〇九年の夏。
ベルリンにもワグラムの戦報が届いた。だが、新聞に躍るナポレオンの公報は、あまりに奇妙なものであった。
ビューローは苦い顔でその紙面を放り出す。彼はすぐにペンを執り、ポンメルンの軍政を任されたばかりの戦友、タウエンツェーンへの書簡を綴り始めた。
『新聞では、「ザクセン軍が怯えて敗走した」とあるが、知人からの情報では真相は違う。実際は夜戦で味方に撃たれる地獄のなか、兵たちはよく耐えて前線を守り抜いたそうだ。ベルナドットはそんな健闘した部下たちを軍報で褒め称えただけなのだが、それがどうにもナポレオンの癇に障ったらしく、戦場を追われ、今頃パリへ強制送還されている最中とのことだ』
その手紙を受け取った彼は、鼻で笑い、苦り切った顔で紙面へ視線を落とした。かつてハノーヴァーの密室で「数学」を解き明かした、あの男の、どこか悪戯っぽくも自信に満ちた顔が浮かんできたからだ。
新聞が伝える「皇帝の公式発表」の裏にある真実を、二人は離れた任地にあっても瞬時に見抜いていた。タウエンツェーンは返書に、吐き捨てるように書きつける。
『皇帝は、自分の「数式」に合わない答えを出す人間が、何よりも我慢ならんらしい。たとえそれが、勝利という解であったとしても――功績を挙げた司令官を追い出すなど、幾何学どころか、算術以前の問題だろう』
さらに彼は、手紙の余白にいたずら書きのような追伸を付け加えた。
『追伸。テッテンボルンが、見事な戦功を挙げて大尉から「少佐」へと昇進したらしいぞ』
ベルリンでその返書を受け取ったビューローは、余白の文字を眺めて目を細めた。満身創痍でどこかの流浪の地にいるであろう若き少佐が、安ワイン片手にニヤついている姿が容易に想像できた。
ミュッフリンクも既に別の任地へ去り、あの日の五人は完全に散り散りになっていた。だが、ベルナドットが不当に追い落とされたという報せは、遠く離れた男たちの心に、ある一つの確信をもたらしていた。
――あいつは、あそこで終わる男じゃない。
――次に奴が現れるときは、一体どんな『解』を持ってくるのか……。
軍事貴族たちは、敵国の元帥の不運に同情するのではない。そのあまりに「彼らしい」幕引きに、呆れ果てたような、しかしどこか期待を込めた笑みを浮かべるしかなかった。
――凍てつくベルリンの一角、一八〇九年末。
シャルンホルストとの激しい議論で頭に血が上っていたビューローは、タウエンツェーンが持ってきた「ワルヘレンの続報」を聞き、深い溜息とともに椅子に沈み込んだ。
「三流の寄せ集めを指揮してイギリス軍を完封し、またもや『部下を褒めたから』追放とはな……」
そう言って机を叩き、失笑する。
「シャルンホルストの改革案の方がまだしも論理的に思える。功績を挙げた将軍を二度も続けて追い出すとは――皇帝の脳内には、もはや論理の欠片すら残っていないらしい」
「あの戦いの後、すぐに元帥が追い落とされていれば、私は全軍投降という汚名を着ずに済んだのだがな。簒奪者の嫌がらせが、三年遅いとは思わんか?」
かつての屈辱を苦く思い出しながらも、タウエンツェーンは、イギリス軍が自分以上の悲惨な目に遭ったと知り、少しは気が晴れたような顔をしている。
「まあ、あいつのことだ。今頃パリの自宅で、デジレ殿と優雅に数式でも楽しんでいるに違いない」
「ああ、『やれやれ、私の正解が早すぎて誰もついてこれないのだよ』とでも嘯ながら、あのガスコーニュ人特有の大げさな身振りでな」
その言葉に、二人の脳裏には、ハノーヴァーの夕闇のなかでデジレが淹れてくれた紅茶の香りが、あの密室の温もりが鮮やかによみがえっていた。
完璧に呆れ返り、同時にどこか清々しい気持ちになった二人の将軍は、不条理な時代の波に翻弄されながらも、敵国の奇妙な元帥に思いを馳せていた。
――パリ、アンジュー通りの邸宅。一八一〇年、欧州は嵐の前の静けさの中にあった。
軍権を剥奪されたベルナドットは、驚くほど晴れやかな顔で書斎にいた。
「見てくれ、デジレ。この計算式は美しい。戦場の泥にまみれるより、よほど健康的じゃないか」
デジレは夫の突飛な隠居生活を共に楽しみ、隣で刺繍の手を止めて笑う。
「あら、ナポレオンを怒らせる天才が、今は数学の天才になろうとしているのね?」
「ふん、あの『義弟』には一生解けない問題さ。私はここで、次の正解が出るのをゆっくり待つとしよう」
二人は豪華な隠居生活の中で、世俗の喧騒をよそに豊かな時間を分かち合っていた。
――プロイセン。
参謀本部を支配する無謀な熱狂に呆れ果てたビューローは、東プロイセンへの赴任の時期を静かに待っていた。
首都から遥か遠く離れた辺境は、自由をもたらす地であった。ハインリヒの幾何学を誰の邪魔も受けずに完成させるため、この東の果てを選んだのだ。凍てつく新天地へと赴くその日を、彼は再婚した若い妻と待ちながら、驚くほど穏やかな生活の中にいた。今の献身的な妻の姿に、失った家族の面影が重なる。凍りついていた彼の心は、少しずつ解け始めていた。
夜、軍務を終えた書斎でハインリヒの遺稿を開くたび、ハノーヴァーの夕闇を思い出す。
「……あの男は今頃、パリで笑っているだろうか」
宿敵からもらった言葉が、新しい家庭を支える静かな糧となっていた。
一方、タウエンツェーンは首都ベルリンを含む最重要拠点の総督として、膨大な実務の海にいた。
かつて全軍投降を喫した屈辱は消えなかったが、周囲の騒がしい改革論に反発を覚えつつも、管区内の統治や軍政の書類を処理していく中で、彼は名門の教養を武器にする実務家となっていった。
「名誉などという不確かなものより、確実な数字の積み重ねがどれほど重要か、ということだな」
深夜の執務室、書類の山を前に、彼はかつて自分を完封した男の言葉を、密かに噛み締める。
二回も念入りに追放するナポレオンもですが、ワルヘレンでナポレオンが怒ると分かってて兵士を褒めているベルナドットも大概ですよね。ナポレオンは戦争よりも広報の達人であり、広報こそがナポレオンの権力の源であったわけです。そこをついたベルナドットが追放されるのは当然です。
ワルヘレンはもともと風土病の発生しやすい地域だったので、閉鎖して閉じ込めれば、勝手に自滅してくれます。その閉鎖を軍とも呼べない連中で成し遂げたのがベルナドットの凄い所ですが。
ワグラムの戦いは諸説あるのとセントヘレナでのナポレオンの妄想が入ってわけが分かりませんが、恐らく追放理由は兵士を勝手に褒めた事です。
ザクセン軍を率いて激戦区を崩壊させずに持ちこたえさせたと思われるのですが、諸説あります。ザクセン軍の制服が白色でオーストリア軍と紛らわしく、味方から撃たれています。ウディノの軍に撃たれたという説もあります。




