ハノーヴァーの密約
それから、ハノーヴァーでは奇妙な日々が続いた。大陸封鎖令によって欧州が窒息しかける中、ベルナドットの統治するこの地だけは、密かな風穴となっていた。密輸は黙認され、ハンザ同盟の商人たちは「数学的な」手加減によって経済の血脈を維持していた。街は潤い、その富は軍資金となり、ひいてはプロイセンの戦後復興を支える密かな糧となった。
四人の会合はその後も、幾度も重ねられた。
秋が深まったある日、ハンザ同盟都市の総督を兼ねて慌ただしく領内を巡るベルナドットが、再びハノーヴァーの執務室へ戻ってきた。そこへ、間もなくロシアへシュヴァルツェンベルクの侍従として赴任するテッテンボルンが、ビューローに伴われて暇乞いに訪れた。だが、彼が連れてきたのは一人ではなかった。
懐かしげに、もう一人の男の背中をポンと叩いた。
「こちらがボギスラフ・タウエンツェーンです。元帥によって捕虜の汚名を着せられた不運な男でしてね。本人のいない間に開かれた例の軍事裁判において、私がどれほど心を砕いて彼を弁護したことか。当の本人はフランスで至高のフォアグラとワインを貪っていたというのに。……それが、ここでハインリヒの遺稿を研究していると聞いた途端、是が非でも参加させてくれと頼み込んでくる始末です。その執念には、私も流石に言葉を失いましたよ」
当の本人は、十六ヶ月に及ぶ虜囚生活でやつれるどころか、むしろ肌にツヤを増して帰ってきた。名門の教養を誇るこの男は、かつてハインリヒ親王の右腕であったがゆえに、プロイセンの崩壊を誰よりも数字で検証したがっていたのではあるが――。
「……あの時、貴公に慈悲など乞うべきではなかった」
絞り出すような声は、タウエンツェーンのものだった。軍人として戦う余地すら奪われ、全軍投降という汚名を着せられた屈辱。その後の軍法会議で敗戦の全責任を背負わされた彼の憎悪は、黒く濁っていた。
「元帥閣下。あの日、私は貴公の圧倒的な『速さ』に恐怖した……ですが同時に、懐かしさを覚えた。身内が誰も理解しようとしなかった我が主の遺産を、敵である貴公が学んでいたわけだ。その狐の化かし術……いや、我々を破った精緻な『計算』を、今度はこちらが暴かせていただく」
ビューローが難しい顔をする横で、ベルナドットは声を上げて笑った。
「狐か! 皇帝が聞けば喜ぶ例えだ。――いいだろう。タウエンツェーン閣下、軍を動かすのは『情熱』だと思っているのか、それとも『兵站』だと思っているのかね?」
「いいえ、元帥。私は『情報』、すなわち精確な数字ではないかと考えております」
その目が、一瞬だけ鋭く、昏い光を放った。一八〇六年、イエナの戦場。敵の正確な数すら教えられぬまま最前線に立たされ、なす術なく敗れ去った口惜しさが、続く低い声に滲む。
「『情報』なき計算はただの妄想だ。あの戦い、我がプロイセンの司令部がまともな数字を把握していれば、私が敗将として泥を塗られることも、我々があれほど無様に追い詰められることもなかった」
「……『情報』、それは実におもしろいですね」
それまで、サロンの豪華な調度品を退屈そうに眺めていた一人の若者が、弾かれたように身を乗り出した。テッテンボルンの瞳に、肉食獣のような鋭い光が灯る。
「タウエンツェーン閣下、あなた方の言う『情報』とは、敵がどこに何人いるかという、退屈な数字の並んだ報告書にすぎない。だが、もしその数字自体を、こちらの手で『作り出せる』としたらどうでしょう?」
「作り出す?」
タウエンツェーンが眉をひそめる。テッテンボルンはにやりと笑い、ベルナドットを真っ向から見据えた。
「ええ。例えば、我が方に千人の騎兵しかいなくても、敵の耳元で『一万の大軍が迫っている』と囁き続ければ、連中は勝手に怯え、計算を狂わせ、戦わずして退却する。元帥閣下、あなたがハンザ同盟で行っている密輸の『手加減』も、あえて情報を不透明にすることで市場を支配する、一種の化かし術でしょう?」
室内に、張り詰めた沈黙が流れた。
「……なるほど。ハインリヒの幾何学に、『虚数』を紛れ込ませるわけですか」
それまで静かに紅茶をすすっていたミュッフリンクが、カップに視線を落としたまま呟く。
「敵の脳内に実体のない情報を掴ませ、包囲の錯覚を植え付ける……。理屈は分かりますが、一歩間違えれば自軍の計算まで狂わせる、あまりに不確実な賭けだ。情報という不確定な要素を、どうすれば数式として組み込めるのか、私にはまだ想像もつかない」
その言葉を聞いた時、「不確定」と呼んだ要素こそが、ビューローにある真理を閃かせた。弟が遺した数式の一つ一つをなぞる彼の脳裏に、自身も筆を執るミサ曲の壮大な総譜が重なり合ったのである。
情報という不確定要素、偽りの兵数、そして各々の思惑。それらは一見すると予測不能な不協和音のようだが、「音楽の道に専念していれば一流の作曲家になっていた」と惜しまれるほど卓越した和声と対位法を操る彼には、一つの巨大な楽曲を構成する不可欠なパートに見えていた。
幾重にも重なる合唱の歌声と管弦楽の複雑な旋律が、それぞれ異なる諸兵科の緻密な連携に重なって見えたのだ。五線譜の上で音符や休符を配置し、すべての音をひとつの荘厳な響きへと統率していく営みは、まさに地形と幾何学で無数の兵を差配する指揮官の姿そのものであった。
(幾何学も、諸兵科連合の運用も、そして音楽の構築も……本質はまったく同じだ。無数の要素を計算し尽くし、たった一つの完璧な瞬間へと収斂させる芸術なのだ)
思わず感嘆の吐息を漏らしたその時、ベルナドットがひどく愉快そうな声を上げた。
「面白い。ビューロー、君はとんでもない劇薬を持ち込んできたな」
ベルナドットは、タウエンツェーンの執念と、テッテンボルンの危うい天才性を交互に見つめ、いたずらが成功した子供のように目を輝かせた。
「諸君、今日のテーマを変更しよう……『占領統治における情報、そして敵を惑わせる数字の魔術』についてだ。あと、私の義弟がどのように情報を操り、英雄になったかも話そう」
熱弁を振るった会合が散会となり、ようやく喧騒から解放されたその夜。自室に戻ったビューローは、再婚した若い妻への手紙をしたためていた。
真理に触れた至福の震えを胸に秘めたまま「今日は数学の難問を解決できた」と書き添えた後に、ペンを握る彼の脳裏を占めていたのは、数式ではなく、故郷で待つ我が妻の、世界中のどの薔薇よりも愛らしい微笑みであった。
不定期に、時には手紙のやり取りの形で続けられた、この「数学を嗜む会」の教科書は、常に、獄死したハインリヒの遺稿であった。
タウエンツェーンは屈辱の記憶を精緻な幾何学の論理で上書きしていくために。ミュッフリンクはより精確な世界の地図をその手に掴むために。そしてテッテンボルンは、ロシアに赴任しながらも、いつか世界を騙し、最愛の彼女と堂々と生きるための「最強の嘘の数式」を盗み出すために、三人は狂おしいほど熱心に研究を続けた。
一方、ビューローは「閣下の妻君も素晴らしいが、私の妻の愛らしさには到底及ばない」――そんな惚気をインクの染みに隠しながら、ハインリヒの軍事書を現実へより精密に適用させるための研究を進めた。
巨大な大砲を泥濘に沈めず運ぶ方法、大軍の兵站を維持する術、地形ごとに兵を消耗させない最高速度の計算。さらには、あらかじめ地形に照準を合わせ、そこへ敵を追い込む砲兵運用法に至るまで――。彼はこれら数々の戦術的課題を、数学の力を用いて「実現可能なもの」へと引き上げるための研究に没頭したのだ。
そして、一八〇九年春。舞台はハノーヴァーから引き裂かれる。
ナポレオンはオーストリアとの再戦にあたり、ベルナドットに従軍を要請した。しかし、彼が手塩にかけた精鋭軍団はすでに別の戦線へと回されており、手元には、わずかな手兵と言葉の通じぬ他国の新兵しか残されていない。
「見ての通り、私は丸裸だ。あの『義弟』は、私に魔法でも使えと言うらしい」
ベルナドットは自嘲気味に笑い、最後のワインを注ぐ。
その傍らで、差し出された豪奢な料理をすっかり平らげたテッテンボルンが、満足げにグラスを置いた。赴任先のロシアから母国の戦場へと駆けつける途上、愛する人に会うため、そして何より美味いワインと食事をたかるために、このハノーヴァーへ立ち寄ったのだ。彼はどこまでも人懐こい笑みを浮かべてみせる。
「ハンザ同盟の連中には、元帥はとんだペテン師だったと言いふらしておきますよ。……美味いフォアグラだった。これで明日から、心置きなく貴公のザクセン軍を泥に塗れさせてやれる」
軽口に応じる者はなかった。ただ、タウエンツェーンが不器用な手つきでグラスを掲げる。
「全軍投降させられた借りを、まだ返していない。戦場でくたばるなよ」
「元帥。貴公がこの地で示した『計算式』、プロイセンで必ず役立ててみせます」
ミュッフリンクは完成した密輸ルートの地図を静かに懐へと収め、カップに残った紅茶を飲み干した。それぞれが己の戦場へ還ろうとしている。
弟の形見の本を愛おしげに胸に抱いてビューローが立ち上がった。
「兵はいなくとも、貴公には我々と分かち合った『数式』がある。……死なれては困る。数学の続きができなくなるからな」
傍らで男たちの会話をそっと見守っていたデジレが、彼らに屈託のない笑みを向ける。
「さあ、最後は景気良く! 湿っぽい顔はナポレオンにでも任せておきましょう」
その明るさに、四人の貴族は毒気を抜かれたように吹き出した。
「……では、諸君。また次の難問で会おう」
ベルナドットが四人へ個別に声をかける。交わされた言葉は、国家という枠を超えた「密謀者」たちの胸の奥に、深く消えない楔のように打ち込まれた。
タウエンツェーン、ミュッフリンクは、フリードリヒ大王の弟のハインリヒ親王の配下で働いていた事があります。ハインリヒ親王こそが、ビューローの弟のハインリヒが参考にした人物で無敗の伝説をもつ人物です。テッテンボルンは、どうして紛れてきたのか。
ベルナドットがハインリヒを救出しようと動いていたことを示す一次史料は存在せず、残されているのはグナイゼナウによる「獄中での待遇改善を行った」という自己弁護的な記録のみです。
しかし史実を辿ると、グナイゼナウが統括する要塞にハインリヒが収監された直後、ベルナドット率いるフランス軍が猛烈な勢いで肉薄しています。プロイセン政府は彼が奪われるのを恐れ、劣悪な環境ゆえに死が予見できたロシアの奥地へとハインリヒを急遽移送します。
本作ではこの状況を、「ベルナドットはハインリヒを救おうと手を尽くしたが、それを察知したグナイゼナウが嫌がらせのためにロシアへ見殺し同然に送った」と解釈し、小説の核として描いています。ベルナドットの戦法がハインリヒの理論そのものであるという事実が、この背景となっています。




