ハノーヴァーの密約
それから、ハノーヴァーでは奇妙な日々が続いた。大陸封鎖令によって欧州が窒息しかける中、ベルナドットの統治するこの地だけは、密かな「風穴」となっていた。密輸は黙認され、ハンザ同盟の商人たちはベルナドットの「数学的な」手加減によって経済の血脈を維持した。街は潤い、その富は軍資金となり、ひいてはプロイセンの戦後復興を支える密かな糧となった。
四人の会合は不定期に、しかし幾度も重ねられた。
ある日、ビューローが一人の若者を連れてきて、苦々しげに男の背中を叩いた。
「フリードリヒ・テッテンボルンです。閣下、こいつは『数字』という言葉を、単なる退屈な呪文だと思っている節がある。少しばかり、数式を叩き込んでやっていただきたい」
テッテンボルンは畏まるどころか、サロンに飾られた豪華なシャンデリアを珍しそうに眺めていた。教養はあるものの、当時、オーストリア軍や小邦の軍を渡り歩き、正規軍の枠に収まらない男だった。
「テッテンボルンと申します、元帥閣下。リューベックでブリュッヘル将軍と共にあなたに追い詰められた時、あなたの速さに恐怖した。だからこそ、その狐の化かし術の正体を見にきたのです」
タウエンツェーンが難しい顔をする横で、ベルナドットは声を上げて笑った。
「狐か! 皇帝が聞けば喜ぶ例えだ。……いいだろう。テッテンボルン君、君は軍を動かすのは『情熱』だと思っているのか、それとも『兵站』だと思っているのかね?」
「いいえ、閣下。私は『情報』だと思っております」
「面白い。ビューロー、君はとんでもない劇薬を持ち込んできたな。諸君、今日のテーマを変更しよう。――『占領統治における情報』についてだ。あと、義弟がどうやって英雄になったかも話そう」
ベルナドットはそう言うと、いたずらが成功した子供のように目を輝かせた。
この「数学を嗜む会」の教科書は、常に、獄死したハインリヒの遺稿であった。
ビューローは再婚した若い妻への手紙に「今日も数学の難問に挑んでいる」と書き、ハインリヒの軍事書を、より精密に現実へ適応させるための研究を進めた。
タウエンツェーンは屈辱の記憶を、ハインリヒの精緻な幾何学の論理による兵站理論で上書きしていき、ミュッフリンクは、地図の作成と現実の軍の部隊移動の連動について学んでいった。
そして、一八〇九年春。舞台はハノーヴァーから引き裂かれる。
ナポレオンはオーストリアとの再戦にあたり、ベルナドットに従軍を要請した。しかし、彼が手塩にかけた精鋭軍団はすでに別の戦線へと回されており、彼の手元には、わずかな手兵と、言葉の通じぬ他国の新兵しか残されていなかった。
「見ての通り、私は丸裸だ。あの『義弟』は、私に魔法でも使えと言うらしい」
ベルナドットは自嘲気味に笑い、最後のワインを注いだ。
ビューローが、弟の形見の本を胸に抱いて立ち上がった。
「兵はいなくとも、貴公には我々と分かち合った『数式』がある。……死なれては困る。数学の続きができなくなるからな」
タウエンツェーンは不器用な手つきでグラスを掲げた。
「全軍投降させられた借りを、まだ返していない。戦場でくたばるなよ」
ミュッフリンクは、完成した密輸ルートの地図を懐に収めた。
「元帥。貴公がこの地で示した『計算式』、プロイセンで必ず役立ててみせます」
テッテンボルンはワインと食事を頬張りながら言った。
「ハンザ同盟の連中には、元帥は良い魔法使いだと広めておきますよ。だから帰ってきて、また良い統治をしてくださいね」
デジレがそんな男たちに、庶民らしい屈託のない笑みを向けた。
「さあ、最後は景気良く! 湿っぽい顔はナポレオンにでも任せておきましょう」
その明るさに、三人の貴族は毒気を抜かれたように吹き出した。
「――では、諸君。また次の難問で会おう」
ベルナドットはそう言って、ガスコーニュ人らしい自信に満ちあふれた、しかし温かいウィンクを一つ残した。
翌朝、ベルナドットはかつての精鋭ではなく、寄せ集めのザクセン軍を指揮するため、オーストリアへと馬を走らせた。
タウエンツェーン、ミュフリンクは、フリードリヒ大王の弟のハインリヒ親王の配下で働いていた事があります。ハインリヒ親王こそが、ビューローの弟のハインリヒが参考にした人物で無敗の伝説をもつ人物です。テッテンボルンは、どうして紛れてきたのか。
ナポレオンの大陸封鎖令は最初はほんの少しは英国にダメージ与えられたのですが、この頃にはほぼ何のダメージを与えられなくなっています。




