数学を嗜む会
補給線と進軍の角度の議論に熱が入り、張り詰めた空気が幾何学の定理へと溶けかかっていた時だった。ベルナドットが突然、少年のような悪戯っぽい表情を浮かべ、隣室の扉を勢いよく開けた。
「諸君、紹介させてくれ。わが最愛の妻、デジレだ! あのナポレオン皇帝を袖にした、世界で唯一の、そして最高に勇気ある女性だ!」
ガスコーニュ人らしい誇張と、深い愛情に満ちた紹介。室内に残っていた重苦しい沈黙を、デジレの柔らかな微笑みが鮮やかに塗り替えていく。ビューローは反射的に立ち上がり、深々と一礼した。
「……初めまして、マダム。元帥がこの地で『善政』を敷ける理由が、お会いしてすぐに理解できました」
ビューローの声は微かに震えていた。弟に続き、チフスで妻と二人の子を相次いで亡くし、一度は人生の光を失った彼。今は亡き妻の妹を後妻に迎え、ようやく再起の一歩を踏み出したばかりの宿将にとって、目の前で眩く輝く「幸福な夫婦」の姿は、あまりに尊く、外からは見えぬ痛みを伴うものだった。彼は胸の内で、故郷で待つ若い妻に、この奇妙な夜の出来事をどう書き送ろうかと、すでに考え始めていた。
ベルナドットより三つ年上のタウエンツェーンは、あまりに「フランス的」な展開に言葉を失っていた。皇帝の元婚約者を妻に持ち、その妻を敵国の将軍たちに臆面もなく自慢してみせる男。アウエルシュタットで自分を辱めた相手は、プロイセンの常識では計り知れない、巨大な器と奔放さを持った「怪物」なのだと、なかば呆れながらに悟らざるを得なかった。
ミュッフリンクは、デジレが淹れた紅茶の芳醇な香りに、ようやく強張っていた肩の力を抜いた。
「ナポレオンを振った、ですか……。元帥、それは戦略的撤退よりも、はるかに困難な偉業ですな」
若き、鋭い知性が、初めてベルナドットに軍事以外の敬意を向けた。彼は故郷に残してきた自慢の妻を思い出し、ほんの少しの独占欲に似た誇りを胸に抱いた。
「さあ、冷めないうちに。数学の議論も、温かい紅茶と美しい女性がいれば、より真理に近づけるというものだ」。ベルナドットは楽しげに、三人の「敵」にティーカップを勧めた。
弟を殺した自国への絶望。戦うことすら許されず捕虜となった屈辱。終わりの見えない国境争いの焦燥。それらすべてが、デジレがパリから持ち込んだ特製の茶葉の湯気の中に、束の間だけ消えていった。
その静けさを打ち破るように、ベルナドットは大仰な身振りでデジレの隣に立つと、まるで舞台に立つ喜劇役者のような口調で語り始めた。
「いやはや諸君、実は困った身内がいてね。デジレの姉の義弟なのだが……どうも、この幾何学の基礎というものが理解できないらしい。それどころか、彼はこの世界に南米大陸が存在することすら忘れてしまったようなのだよ」
ベルナドットは皮肉たっぷりに肩をすくめてみせた。
「彼は信じ込んでいる。どこかの島国を欧州大陸から締め出しさえすれば、連中は飢えて死ぬはずだ、とな。海の向こうに広大な世界があることも、そこから物資が流れ込んでくることも、彼の計算式には入っていないらしい。困ったものだ、算術もできない男が大陸を差配しようとするのは!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、デジレが「ふふっ」と吹き出した。
「まあ、ジャン=バティストったら。あの方をそんな風に言うなんて」
彼女の笑いは、宮廷の作り笑いではない。マルセイユの陽光を思わせる、飾り気のない庶民の笑いだった。
プロイセンの厳格な軍事貴族である三人は、この光景に毒気を抜かれ、呆然と佇んでいた。
(ああ、そうだ。この二人は――貴族の生まれではないのだ)
三人の脳裏に、同じ思いがよぎった。自分たちのような、家名と伝統に縛られた人間には決して真似できない、剥き出しの活力と奔放さ。ベルナドットは叩き上げの元下士官、デジレは商人の娘。しかし、その「庶民」としての気安さが、今は棘だらけの自分たちの心を、不思議なほど心地よく撫でていくのを感じていた。
しかし、彼らが本当に絶句したのは、ベルナドットが口にした内容の「深さ」であった。
(南米がある……大陸封鎖は無意味だと、彼は断じているのか?)
ミュッフリンクの明晰な知性が、即座に反応した。ベルナドットは冗談めかした芝居の裏で、ナポレオンが進める「大陸封鎖令」の致命的な欠陥を、地政学的な視点から完膚なきまでに批判していたのだ。
「……元帥。貴公は、その『身内』が、数学的な計算を誤っていると確信しているのですか」
タウエンツェーンが、低く、しかし熱を帯びた声で問いかけた。ベルナドットはデジレの淹れた紅茶を一口すすり、再び朗らかなガスコーニュ人の顔に戻った。
「さあね。私はただ、ハインリヒ殿の高潔な数式を諸君と楽しみたかっただけだ。世界を正しく捉えられぬ男の末路など、計算するまでもないことだろう?」
ビューローは弟の本を握りしめ、このフランス人元帥の底知れなさに震えていた。「庶民」の皮を被りながら、誰よりも高い場所から欧州の未来を俯瞰している男。
ハノーヴァーの夜の闇は深い。しかし、この部屋に灯された知性の火は、三人のプロイセン軍人の心に、消えることのない灯火を焼きつけていた。
ベルナドットは身を乗り出し、三人のプロイセン軍人を射抜くような視線で見つめた。先ほどまでの陽気さは影を潜め、そこには統治者としての刃のように鋭い真剣さがあった。
「諸君、この書物――ハインリヒ殿が遺した知性は、我々四人だけの宝だ。だが忘れるな。今のプロイセンはこれを認めず、私の主もまた、数学的真理より己の野心を優先するだろう」
ベルナドットは声を潜め、断定するように言った。
「ゆえに、これは『数学を嗜む会』だ。決して、この対話の内容をプロイセンにも、フランスにも漏らしてはならない。我々は国家という枠組みを超え、真実の計算式を共有する密謀者なのだ」
ビューローの弟のハインリヒは、兵站線と軍の進軍の角度で勝敗が決まるというような、幾何学で戦争を理解しようとした変人で、ベルナドットが彼の著作に大量に書き込みしているのが残ってます。獄死した時に助けようとしたのも本当です。題名の軍事幾何学って彼の軍事理論です。
デジレは一般的にはナポレオンの元婚約者で、ナポレオンがふったみたいに思われてますが、たぶんナポレオンをふってます。ナポレオンは悔しさのあまりに、黒歴史になりそうな小説を書いてデジレを恋人役で出してます。
ビューローは厳密には、まだ再婚してないですが最後に残された娘の面倒みてたのが十七歳の元妻の妹で、再婚相手です。実質、再婚してたようなものです。




