フランス国内へ
一八一四年一月。欧州連合軍がフランス国境を越えるなか、ベルナドット自身はまるで進軍を拒むかのように、ベルギーのリエージュに留まっていた。
ベルギーでの小競り合いを瞬く間に片付けたビューローは、ベルナドットの厳命通り、一歩ずつ、しかし確実な「兵站の線」をフランス国内へと伸ばしていた。
「ヴォロンツォフ閣下、ヴィンツィンゲローデ閣下。焦る必要はない。我々がここを固めるごとに、ナポレオンの『徴兵名簿』から一万人ずつ、未来の兵士が消えていくのです」
ビューローが歩みを進めるごとに、ナポレオンの補充拠点となる都市や農村は北方軍の支配下に置かれた。武器を奪い、糧食を封じ、物流を寸断する。
ナポレオンがどれほど熱狂的な演説をしても、もはや彼のもとへ兵士も靴も届かない。ベルナドットの戦略は、フランス軍の「未来」を先取りして消し去る、残酷なまでの時間稼ぎであった。
降りしきる雪混じりの雨のなか、グナイゼナウは地図に穴が開くほど指で叩き、絶叫していた。
「北方軍は何をしている! まだベルギーで溝を掘っているのか! パリは目前だというのに、あのガスコーニュ人は何を怖がっているのだ!」
隣でぬかるみに足を取られていたミュッフリンクが、深い溜め息とともに応じた。
「閣下、ベルナドット殿下は怖がっているのではありません。計算しているのです。彼がリエージュで帳簿に記入するたびに、ナポレオンが徴兵できる土地が文字通り『消えて』いる。奴は今、未来の兵士を一人ずつ引き算されているのですよ」
「そんなものは政治だ、ミュッフリンク! 軍事ではない!」
「……ええ、政治的すぎます。あの方のやり方は、もはや軍事の域を超えた巨大な事務処理だ。軍事的に正しいのは分かりますが、私ですら、あの膨大な帳簿を見せられては、己の職能が何なのか分からなくなりますよ……」
ミュッフリンクは、北方軍から届く「物流の等式」を前に、知性ゆえの孤独な愚痴をこぼした。
――二月一日、凍てつく吹雪がすべてを白く染めるラ・ロティエール村。
そこは、ナポレオンを包囲せんとする連合軍の、「二つの刃」が交わる場所だった。猛将ブリュッヘル率いるシレジア軍。そして、連合軍総司令官シュヴァルツェンベルク公爵が直卒する、圧倒的な兵数を誇るボヘミア軍である。
「陛下! ブリュッヘルの猛進に呼応し、我がオーストリア軍がフランス軍の右翼へ突入しました! 雪を割って進むオーストリア軍が、ラ・ロティエール村の南側を完全に圧迫しております!」
オーストリアの連絡将校からの報告を聞き、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、雪の降り積もる馬上から深く頷いた。(プロイセンの復讐心、我がロシアの信仰、そしてオーストリアの兵数。これらすべてが今、神の御名のもとに一つとなっているのだ)
だが、その瞬間、フランス軍が放つ凄まじい集中砲火が、突撃するオーストリア兵の列を容赦なく引き裂く。泥と雪が血で赤く染まり、オーストリア軍の進撃が一瞬、怯んでしまう。側近の将軍たちが「やはりナポレオンを本土で破るのは不可能か」と色を失う中、アレクサンドルだけは、天上の神託を聞きながら恍惚とした表情を浮かべていた。
「恐れることはありません。シュヴァルツェンベルク公の臆病も、オーストリア兵たちの受難も、すべては神が仕組まれた美しい布石なのです」
アレクサンドルは、オーストリアの連絡将校の手を、聖者さながらの慈愛に満ちた狂信者の表情で、強く握り締める。
「フランツ一世にお伝えください。我がロシアの兵も、プロイセンの兵も、オーストリアの勇敢なる息子たちと共にあると。神の目は今、この地を照らしています。悪魔に、この神聖な包囲網を破る力など残されてはいないのです!」
皇帝の放つ「ここで逃げたら消される」という神々しいオーラは、恐怖に顔を引きつらせた連絡将校を通じて、瞬く間にオーストリア軍の前線へと伝播した。
シレジア軍が村の正面から怒涛の突撃を行うのと同時に、オーストリア軍もまた、崩れかけた戦列を立て直し、銃剣をきらめかせてフランス軍の側面へ再び攻撃を敢行した。
正面からのシレジア軍の気合による突撃と、アレクサンドル率いるロシア軍の狂信的な進軍、側面からじわじわと退路を断つように迫るオーストリア軍の圧倒的な兵数。
挟撃されたフランス軍の陣形は、ついに悲鳴を上げた。ナポレオンの天才的な防戦は、アレクサンドル一世の狂信の前に脆くも崩れ去った。
深夜、炎上するラ・ロティエール村から、ナポレオンは本土で初めての「直接指揮での敗北」を喫し、闇に紛れて撤退していった。
各国の将兵が入り混じって歓声を上げる中、アレクサンドル一世は静かに天を仰いだ。己こそが「オーストリアをも導き、ヨーロッパを悪魔から救う真のメシア」であると証明されたのだ、と。
――古き要塞都市、ヴィトリ、二月二日
ラ・ロティエールの戦いで同数の損害を出しながらもナポレオンを破ったボヘミア軍とシレジア軍。
その勢いを借りて、シレジア軍はヴィトリへと進撃していた。
守備するモンマリー将軍は、城壁から地平線を埋め尽くす敵の大軍を見下ろすと、これ以上の防衛は無理だと割り切った。手元の守備隊は急にかき集められた新兵や民兵を含めて、わずか千五百人ほど。
「ヴィトリの防壁はあまりにも古い。ここで意地を張って全滅するのは、皇帝への忠義ではなくただの愚策だ。全軍、余計な荷物はすべて捨てろ。皇帝の軍と合流するため、ただちに退却する」
――その頃、ヴィトリ郊外。
「おい、大砲はまだか! 古い壁ごと都市を木っ端微塵にしてやる!」
ブリュッヘルがサーベルを振り回す横で、グナイゼナウは虚ろな目で太鼓を乱れ打ちしている。
ドコドコドコドコ!
「閣下! なぜグナイゼナウ殿は太鼓をソロで叩いているのですか! 大砲は泥にハマっています!」
ミュッフリンクはキリキリ痛む胃を押さえて悲鳴を上げた。
「これは兵の士気を高める魂の音楽だ」
真顔でバチを動かすグナイゼナウ。
「逆効果です! ああ、胃が、胃が痛い……っ」
その時、ゴゴゴ……とヴィトリの城門がゆっくり開いた。グナイゼナウの太鼓がおどろおどろしいリズム(ドロドロドロ……)に変わる。
「敵の総出撃か!?」
ミュッフリンクが双眼鏡を覗くと、映ったのは――もぬけの殻の街と、荷物を全部投げ捨てて全力疾走で逃げていくフランス兵の後ろ姿だった。
「……閣下、フランス軍が逃げて行きますが、身軽すぎて追いつけません」
虚無の表情で報告するミュッフリンク。
「戦わずに逃げるだと!? 俺と戦え!」
地団駄を踏むブリュッヘルの横で、グナイゼナウは満足げに頷いた。
「戦わずして勝つ。我が戦略の極意です」
「絶対に違うわ!!」
ブリュッヘルが誰もいない城門に帽子を投げつけ、グナイゼナウがそれを太鼓のロールで称える中、ミュッフリンクは「もう帰りたい……」と胃薬をすするのだった。
ベルナドットがフランス王位を狙っていたのは、まず百パーセントありえないです。ベルナドットのスケジュールに王位を狙っての行動がなさすぎるので、「王位を狙っていたので進軍をしなかった」なんて不思議な理屈を大真面目に語られるレベルです。
スウェーデンの朝寝つきの優雅な生活と、フランスでいつ暗殺されるかわからない休む暇もないブラックな仕事のどちらを選ぶかと言われて、前者を全力で選ぶのが庶民です。




