【破壊と疫病と計算違いの情熱】
ビューローらが西へ進むなか、後方には頑強な拠点が取り残されていた。
――エルベ川の要衝、トルガウ要塞。
ここを守るフランス軍の総督ナルボンヌ伯爵は、ルイ十六世の陸軍大臣も務めた老練の将軍だった。ライプツィヒの敗戦でなだれ込んできた三万の敗残兵を抱えながらも、彼は旧時代の気品を失わずにいた。
「ベルナドット元帥にお伝えください。この城塞は皇帝陛下の威光を守護する防波堤にございます。貴公の無礼なる開城の要求、到底受け入れるわけにはまいりません。どうぞお引き取りください」
ナルボンヌ伯は、降伏勧告を気品高く退ける。
報告を聞いたタウエンツェーンは、ただ静かに方眼紙へペンを走らせた。
「ナルボンヌ伯、残念ながら美意識では要塞を防御できまい」
タウエンツェーンは突撃を命じなかった。ベルナドットの兵站網が運んできた膨大な物資を武器にして要塞を包囲し、その蓋を寸分の隙もなく閉じた。
狙い通り、過密な城内で「もう一つの変数」――発疹チフスが牙を剥く。
やがて、城内から軍医が一時停戦と医薬品を乞うた。
「城内は地獄です! ナルボンヌ閣下も熱に浮かされている! 軍人としての慈悲を!」
だが、タウエンツェーンの眼差しは凍りついたままであった。
「拒絶する。武器をすべてエルベ川に投げ捨てるまでは、薬一粒すら通さん」
――十一月十七日、頑強だったナルボンヌは高熱のなかで息を引き取った。
突撃のラッパは鳴らない。ただ正確に包囲網が縮小していく、時計の針を巻き進めるような事務的プロセスが繰り返された。
――十二月下旬、飢えと病に降伏したフランス軍が門を開いた。
タウエンツェーンは、捕虜となった将軍たちに温かい麦粥を差し出した。
デュタイイ将軍が震える手で椀を持ち、力なく笑った。
「あれほど冷酷だった貴方が、なぜ今になって温かさを……」
タウエンツェーンはスウェーデン製の外套を羽織り、凍てつくエルベ川を見つめた。
「武器を持った貴公らは『障壁』という数値だった。だから削った。だが武器を捨てた今は『保護すべき捕虜』にすぎんからな」
将軍は手帳の頁を静かにめくった。
「さあ、トルガウの解体は終わった。次はヴィッテンベルクだ」
――エルベ川の次の要衝、ヴィッテンベルク要塞。
ここを守るフランス軍のラ・ポワプ将軍は降伏勧告を破り捨てるが、報告を聞いたタウエンツェーンはつぶやく。
「ラ・ポワプ、貴公に足りないのは戦う意志ではない」
タウエンツェーンは兵站網が運んできた二十四ポンド重砲を完璧な射距離に配置した。
号令とともに城壁の一点へ集中砲撃が始まる。三日間にわたる絶え間ない砲撃で、難攻不落の城壁はガラス細工のように崩落した。
あとは、敵の降伏を無血で回収するだけの、事務的なプロセス。
だが、タウエンツェーンが最終手続きのために本陣を離れた、わずか一瞬の隙だった。
前線のドプシュッツらは功名心に駆られ、崩落した城壁と凍りついた堀を見て理性を失った。
「降伏を待つなど時間の無駄だ。今夜、我が手で一気に踏み潰すぞ」
深夜、計算にない突撃ラッパが響く。追い詰められていたはずのラ・ポワプ将軍が、死に物狂いの反撃砲火を放った。城壁の裂け目に殺到したプロイセンの農民兵たちは大口径の散弾に引き裂かれ、出なくていい悲鳴と命が消費されていく。
だが、その無謀な血のコストは無駄ではなく、暴徒と化した兵たちは仲間の屍を越えて内城へなだれ込み、力業で要塞を落としてしまったのだ。
翌朝。激怒しながら馬を飛ばして戻ったタウエンツェーンが目にしたのは、すでにプロイセンの旗が翻る要塞だった。彼が最も嫌う「無駄な出血」により、勝利を強引に引き寄せていた。
戦後、捕虜となったラ・ポワプにスープを差し出すタウエンツェーンの横顔に、勝者の喜びはなかった。
「防壁をゼロにする計算は出来た。だが、身内の先走りは計算出来なかった。私はこんな勝利を求めてはいない」
そこへ、返り血を浴びたドプシュッツが、高揚感と罪悪感を隠せない様子で歩み寄ってきた。称賛と叱責の両方を覚悟する部下に、タウエンツェーンは大きな溜息をひとつ静かにつき、凍えるドプシュッツの肩を叩いた。
「……私の数式は汚されたが、お前たちが勝利できて良かった。よく生きて戻った。温かいパンを食え」
完璧な数学者は、誰よりも部下を愛する指揮官へと戻っていた。
――エルベ川最大の要衝にして、フランス軍の帝都防衛における最後の防波堤、マグデブルク要塞。
守将ルマロワ将軍が一万八千の精鋭と籠るこの巨大な怪物に対し、タウエンツェーンは包囲陣を敷いた。しかし時は一八一四年、厳冬。氷結するエルベ川の風は、容赦なくプロイセン軍の命を削ろうとしていた。
「閣下、このままでは兵が凍死します。ヴィッテンベルクのように、我々の血で夜襲を!」
ドプシュッツが血走った目で訴えるが、タウエンツェーンはストーブの前の椅子から立とうともしなかった。
「却下だ。ルマロワの火力に突撃すれば、貴公らは氷の彫像ではなく肉片になる」
彼は方眼紙の束を部下に突きつけた。そこに並んでいたのは、大砲の数ではない。
「毛布一万枚、石炭五十トン、ラム酒……。ベルナドット総司令官から届いた『熱』を計算した。今回の最大の変数は、敵の弾丸ではなく『気温』だ」
タウエンツェーンは陣地の防寒と防壁の強化のみを徹底させた。だがそんな折、彼にベルナドットから急報が届く。
戦局は大詰めを迎え、彼自身と少数の部隊をフランス本国、ヴィトリ方面へ転進させよという命令が下ったのだ。
それは、功名心にはやる部下たちに、この厄介な要塞の封じ込めを委ねることを意味していた。
出立の朝、タウエンツェーンは馬上の人となり、留守を任せるドプシュッツを見下ろした。そして、自身の予備の外套を無造作に部下の肩へ投げ渡す。
「……私の数式を置いていく。これ以上、要塞の防壁を削る必要はない。パリが落ちれば、ここも必ず開城する」
タウエンツェーンは、部下を真っ直ぐに見据えた。
「時間が解決する問題に、兵の命を『コスト』として支払うな。全員生かして春を迎えろ。……命令だぞ」
ドプシュッツは肩に掛けられた分厚い外套を強く握りしめ、持ち前の血の気の多さを隠すように、深く息を吐き出してから、馬上を見上げる。
凍てつく風の中、彼は力強く敬礼した。
「閣下。……私は計算が苦手ですが、春には、一人の欠けもない完璧な数式をお目に掛けましょう。どうか、ご武運を」
タウエンツェーンは微かに口角を上げると、無言で馬首を返し、雪煙を上げて西へと走り去っていった。
タウエンツェーンもビューローに負けずチートで、要塞落としのプロ。ヴィッテンベルク要塞を落としたのは部下だと謙虚に功績を部下に押し付けようとする人格者です。
北方軍の歴史を記載していると、わずかな損害でも大きな損害に感じられるようになります。ナポレオン戦争のあの両軍にとんでもない損害が出るという戦争は北方軍では終わり、一方的な損害をフランスに押し付ける戦争ばかりだからでしょうか。




