自己増殖する物流システム
最強の「質量」を見せつけたスウェーデン軍。そして、その勢いを背負って西へ向かうヴォロンツォフたち。北方軍の「大掃除」は、いよいよ欧州の西端を制し、フランス絶対防衛圏へと迫ろうとしていた。
一八一三年冬、低地諸国へと向かう途上。 西進する北方軍の前に、ハンブルク方面から転戦してきたテッテンボルンの軽騎兵が合流を果たした。
天幕から姿を現したビューローは、馬を降りる若き指揮官の姿に目を細めた。テッテンボルンは泥にまみれながらも、品のある仕草で脱帽し、差し出された手をがっしりと握りしめる。
「お久しぶりです、閣下。王太子の命令により、閣下の周囲を回る鋭い刃として戻ってまいりました」
「相変わらず賑やかな男だ。だが……君と肩を並べて戦えるのは心強い」
あの冬、絶望の底にいた己の館へ土足で踏み込んできた、この男の肩をビューローは静かに叩いた。
一八一三年冬、低地諸国。ビューローは、ベルナドットから預かった「三万」という数字の真実に到達していた。
「なるほど、殿下。三万とは攻撃のための数ではなく、『兵站の質を最高密度で維持できる限界の数』であったというわけか」
最前線では、テッテンボルンがコサックを率いて疾風のように駆け抜けていた。彼は占領下の都市に現れては、ある虚報を撒き散らした。
「見ろ! 背後にはベルナドット直率の、十万の本隊が続いているぞ! 抵抗すれば、あのライプツィヒの鉄槌が下ると思え!」
実際には三万にすぎぬ軍勢を、彼は情報の霧によって巨大な怪物に見せかけた。恐怖と期待に揺れる各都市は、テッテンボルンが姿を現すなり、戦わずして門を開けたのである。
テッテンボルンが撒いた情報の霧は、敵の指揮官マクドナルの判断力を完全に奪っていた。かつてカッツバッハの石投げで破産した元帥は、再び恐怖という呪縛にとらわれる。彼はまともな防衛線を敷くことなく、戦火を交える前にライン川の向こう──フランス本土へと後退した。
ビューローは、テッテンボルンがこじ開けた都市へ次々と入城した。
「諸君、今日から君たちは自由だ。だが、自由を守るには剣がいる。直ちに自警団を組織せよ。武器と糧食はわが軍が供与する!」
ビューローは都市自らに防衛軍を組織させ、プロイセン流の規律を叩き込んだ。自軍の三万を分割・消耗させることなく、現地で「増殖」させた即席の軍に要塞の包囲を任せる。
フランスの十万の守備隊は、各要塞に孤立したまま、遮断された情報のなかで「連合軍の大津波」が来たと信じ込み、その身動きを完全に封じられた。
ビューローが都市を落とすたびに、そこはベルナドット直轄の「補給拠点」へと塗り替えられた。
そして、補給拠点には、英国とスウェーデンから水路と陸路を伝って、完璧に管理されたパンと弾薬が届く。デンマークを落として兵站線を安全にした事と、ベルナドットの「事務仕事」が、三万の軍に十万の守備隊を圧倒するエネルギーを供給し続けていた。
「殿下の言った通りだ。この進軍はただの進撃ではない。補給路の等式をひとつずつ繋いでいく、巨大なパズルのようなものだ」
そこへ、北方を屈服させたヴォロンツォフと、ヴィンツィンゲローデ、チェルニショフが合流した。
「閣下、お待たせしました! 殿下より『仕上げを手伝え』との言いつけです!」
チェルニショフが笑いながら現れると、ビューローは満足げに鼻を鳴らした。
「よく来てくれた。テッテンボルンが撒いた虚報のおかげで、フランス兵たちは震え上がっている。貴公らの『質量』が加われば、もはや包囲するまでもなく、彼らは計算を諦めるだろう」
ヴォロンツォフは、整然と管理された占領地の物流を見て、深く溜め息をついた。
「……素晴らしい。三万の軍が十万を飲み込みながら、逆に兵数を増やして進撃している。閣下、これが殿下の言っていた『簡単な仕事』の正体なのですね」
ボイエンは茫然としていた。こんなものを戦争と呼んでよいのか。
「三万がいつの間にか五万、六万と膨れ上がっている。しかも、一度として補給が途絶えていない」
ボイエンは日記帳に何を書けばいいのか分からぬまま、空を仰いでいた。
「……これは戦争ではありません。自己増殖する物流システムです。シャルンホルスト閣下の遺言にあった『気合』など、どこにも入り込む余地がありませんよ。ナポレオンの守備隊が要塞のなかで飢えている間に、我々はオランダの最高級のバターを塗ったパンを食べている……。これが、あのガスコーニュ人の導き出した、非情なまでに美しい『正解』なのです」
低地諸国は、ベルナドットが描いた「兵站の等式」通りに、次々と北方軍の軍門に降っていったのである。




