ライプツィヒへ
――ヴァルテンブルク、一八一三年十月三日。
「閣下! 兵が、兵が砲撃に溶けております! これでは橋を架けるどころではありません!」
フランス軍の猛砲撃で激しく水柱が上がるエルベ川のほとりで、ミュッフリンクは、絶望の叫びを上げていた。
「黙れ! 橋の資材が足りんのならその辺の木を気合で組んで渡せ! 弾がないなら泳いで行って向こう岸の敵を叩き潰せ! これこそがプロイセンの『気合』だ!」
砲弾が降り注ぐなかに突っ込みながら、ブリュッヘルはサーベルを振り回していつものように大笑いしていた。
その隣ではグナイゼナウが、進軍のために太鼓を超高速の爆音で乱打(ドコドコドコドコドン!)し続けている。
「閣下、連合軍の作戦に従うならば、ここは敵の防衛線を迂回し、下流から静かに包囲網を狭める局面です! すぐ下流では北方軍が安全な渡河ルートを計算中なのですから、わざわざここで正面衝突して橋を架ける意味はどこにもありません!」
「やかましい! あのガスコーニュの青二才め、能書きばかり垂れていつまで下流でウロウロしておるのだ! バウツェンであのナポレオン本人に包囲されかけた時ですら、俺たちは『前進』の気合で生き残ったのだぞ! あいつのチマチマした計算を待つなんて嫌だ! あいつが渡ってくる前に、俺たちの気合で全部終わらせてやる! 突撃だァ!」
その号令に答えるように泥まみれの戦列から満身創痍のヨルク将軍が現れ、最前線の猛火へ馬を駆ると、兵たちも狂気に火がつき、膝まで泥に浸かりながらフランス軍陣地へ地滑りのように殺到した。
「あっ、終わった!」とミュッフリンクが天を仰いだその刹那、信じられないことが起きた。
泥まみれで咆哮しながら迫ってくるプロイセン兵の狂気に恐れをなしたのか、甚大な犠牲を出したものの、防衛するフランス軍が戦列を後退させ、「気合の橋」が本当に開通してしまったのである。
「見たか! 渡ったぞ! 気合だ!」
ドヤ顔で勝利の雄叫びをあげる。
「……最悪だ。これでまた、あの方たちの『バウツェンで大敗した時も、カッツバッハの泥沼の時も、計算を全部無視して気合を入れればなんとかなった』という悪癖が、学習されてしまう……」
その上、目の前に広がっているのは、二千人の死傷者を出してボロ雑巾のようになり、これ以上の進軍など不可能なシレジア軍の惨状だった。
飛び散った泥を吐き出しながら、この無駄な大出血の尻拭いを北方軍にどう頼めばいいかを考え、勝利に大笑いしている猛将の横で、人知れず涙を流す。
――ハレ、十月八日。
シレジア軍の惨状を聞いたナポレオンは、十四万の軍を率いてとどめを刺さんとドレスデンを出発して強行軍で猛追する。
全力で前進して北方軍と合流するシレジア軍。
「道を開けろ! ベルナドットはどこだ! 気合の足りん北の連中に、戦場がどちらか教えてやりに来たぞ!」
馬から落ちそうなほど泥だらけのブリュッヘルが、軍服をボロボロにして叫んでいた。
後ろには、太鼓のバチを折らんばかりに拳を握りしめたグナイゼナウが、口をへの字にして付き従っている。
「閣下、逃げ込んできたにしては、少々声が大きすぎます」
ミュッフリンクが泥を吐き出しながら小声で突っ込むが、猛将は聞く耳を持たない。
そこへ、ビューローが驚くほど晴れやかな顔で歩み寄ってきた。
「おお、ブリュッヘル閣下! よくぞご無事で! カッツバッハでのあの『石投げ戦術』、『ヴァルテンブルクの渡し』は、まさにプロイセンの魂の極致であり、閣下こそが、わがドイツの救世主だ!」
「おお、よく分かっているじゃないか!」
過剰なまでの称賛に上機嫌になり、差し出されたエールを煽り始めた。
そのまま、言葉巧みに猛将を宴席へと誘い込み、わずか一時間で完全に酔い潰してしまったのである。
「……よし、ブリュッヘルは寝たな。今のうちにすべて終わらせるぞ」
合図を送ると、北方軍の兵士たちが、まるで魔法のように動き出した。
ベルナドットが地味な事務仕事で積み上げた膨大な兵站が、泥まみれのシレジア軍に惜しみなく分け与えられていく。
「おい、これを見ろ! 穴の開いていない靴だ!」
「このパン、焼きたてだぞ。石が入っていない!」
ボロボロのシレジア兵たちに、北方軍の兵士たちが「大変だったな、兄弟」と笑いながら、温かいスープと新しい外套を配って歩く。
この光景を、偏屈なヨルクが、珍しく神妙な面持ちで見つめていた。
「王太子。私は貴公を疑っていたが、この準備の良さには脱帽する。わが軍の命を繋いでくれたこと、感謝する」
それは、あの頑固な宿将の絞り出すような、精一杯の謝辞であった。
――次の日、十月九日。
ミュッフリンクは隅で冷めた紅茶を啜りながら、死にそうな目でボイエンに愚痴をこぼしていた。
「……なぜもっと早く助けてくれなかった。私は毎日、閣下たちの『気合で橋を架ける』という物理法則を無視した議論に、何時間付き合わされたと思っているんだ……」
「……分かりますよ、私もここでは、銀行の支配人のような仕事ばかりでした。ですが見てください。あの略奪をしないコサックが、今や君たちの馬の世話をしています。これが『正解』というものでしょう」
友の背を叩き、顔を上げると、語気を強めた。
「愚痴はここまで。さあ、ミュッフリンク殿、スチュワート殿! ついにわがペンが、皇帝の首を獲る瞬間を書き留める時が来ましたぞ!」
興奮してペンを走らせる横で、英国特使は冷めた目で戦列を眺めていた。
「先にインクが乾いてしまわないか。皇帝を見てみろ、あそこでずっと立ち往生してるぞ」
孤立したシレジア軍を各個撃破すべく追ってきたナポレオンは、眼前に広がる北方軍の陣形を凝視したまま立ち尽くしていた。
そこに広がっていたのは、完璧に結合した北方軍の陣形である。
地形を完璧に利用し、砲兵が死角を埋め、側面にはチェルニショフの軽騎兵が待機している。それはデネヴィッツの戦いでネイを破った、あの隙のない陣形の再来であった。
ナポレオンは、攻撃が不可能であると悟ると、あえて隙を見せ北方軍がこの陣形を崩して、突撃してくるのを待つ作戦に変更した。伏兵を潜ませ、幾度も罠を張って待ち構える。
狙いは手の内を知るベルナドットではなく、隙を晒したフランス軍を攻撃する習性がある、シレジア軍の猛将ブリュッヘル。
「何だと!? 逃げるのか! 気合が足りんぞ! 追え、切り崩してやる!」
泥まみれのサーベルを振り回して叫んだ。
しかし、北方軍の面々は、今ここで動けば罠に嵌まることを完全に心得ていた。
「閣下、閣下! 追撃の前に、まずはこの極上のヴィンテージ・ワインで祝杯を! 勝利の前祝いです!」
すぐさまビューローやタウエンツェーンたちが、代わる代わる最高級の酒を猛将の喉に流し込む。
「おお、分かっているな……。ぐび、ぐび……。うむ、ナポレオンなど、明日で……いい……」
猛将はわずか数分で、再び心地よい沈黙へと誘われた。
こうして身内のノイズを完璧に処理し、北方軍は一歩も動かなかった。
完璧に整えられた兵站のなかで、ベルナドットは兵たちに温かいスープと休息を与え続けていた。
「待ちぼうけ」によって敵が自滅するのを、ただ静かに時計の針を眺めながら待っていたのである。
「……無駄だ。あそこには、付け入る隙が一つもない」
十月十一日夜、皇帝は忌々しげに吐き捨て、一度も戦火を交えることなくライプツィヒ方面への撤退を命じた。ただ、無意味な移動と待ち伏せによる消耗だけを、兵たちに残して。
手帳に一本の線を引くと、ベルナドットは首の古傷をなぞって静かに微笑んだ。
「……計算通りだ。おまえに残された時間は、今完全にゼロになった」
――デッサウ、十月十二日、ライプツィヒとベルリンの中間。
エルベ川の前面の、その地点に、二万五千の民兵が配備されていた。ベルリン防衛の「要」として居残りさせた軍勢である。
撤退を余儀なくされたナポレオンは、北方軍の主力の移動により手薄になったテッサウを、ネイに命じて攻撃させた。
「タウエンツェーン将軍! 前方に敵影! ネイ元帥率いるフランス軍です!」
精鋭が牙を剥く。だが、動揺の色はなかった。フランス軍がこの地へ寄り道をして時間を浪費することは、すべてベルナドットの織り込み済みだった。
「形式的な防戦で構わん。必死に抵抗しているポーズを敵に見せつけろ」
激しい砲撃が街を震わせる。民兵たちは最小限の犠牲で、数時間にわたり敵の進軍を阻んだ。
フランス軍が本格的な包囲網を敷こうとしたその瞬間、民兵に退却が命じられる。それは完璧にコントロールされた退却劇だった。フランス軍が街になだれ込んだとき、本隊はすでに安全圏へと脱出していた。
フランス側は「敵に二千の損害を与えた」と大戦果を誇った。しかしその内実は、戦死者ではなく、すぐに取り返せる予定の捕虜や一時的な行方不明者で水増しされたハリボテの数字に過ぎない。
自軍の血をほぼ流すことなく、タウエンツェーンは敵の猛攻をいなしてのけたのだった。
フランス軍は、時間を空費しただけに終わった。何の実利もないまま、ヘトヘトに疲弊して元いたライプツィヒへ引き返していくことになる。
史上最大の「詰み」──ライプツィヒの市街地が、地平線の向こうで彼らを待っていた。
ライプツィヒ前の時系列がややこしくて、なぜ、あんな所にシレジア軍がいたのかを説明するのに苦労しました。あと、ハレの位置を地図で調べたらわかると思いますが、あんな所をすでにビューローに落とされている時点でナポレオンは負けです。
ベニグセン、色々調べたら、ドレスデンから直行でした。資料によってはハンブルグによってからもあったのですが、普通に考えたらドレスデンからが正しいと思います。
史実はクラウゼヴィッツはベニグセンと一緒に行動していないと思いますが、ヴォルモーデンの参謀としての仕事も何もしていないので、ベニグセンとくっつけました。




