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ライプツィヒへ

『ヴァルテンブルクの戦い』


「閣下! 兵が、兵が砲撃に溶けております! これでは橋を架けるどころではありません!」


 ミュッフリンクは、フランス軍の猛砲撃で激しく水柱が上がるエルベ川のほとりで、絶望の叫びを上げていた。


「黙れミュッフリンク! 橋の資材が足りんのならその辺の木を気合で組んで渡せ! 弾がないなら泳いで行って向こう岸の敵を叩き潰せ! これこそがプロイセンの『気合』だ!」


 七十歳のブリュッヘルは、砲弾が降り注ぐなかに突っ込みながら、サーベルを振り回して大笑いしていた。

 その隣ではグナイゼナウが、進軍のために太鼓を超高速の爆音で乱打(ドコドコドコドコドン!!!)し続けている。


「閣下、連合軍の作戦に従うならば、ここは敵の防衛線を迂回し、下流から静かに包囲網を狭める局面です! すぐ下流では北方軍が安全な渡河ルートを計算中なのですから、わざわざこの正面衝突して橋を架ける意味はどこにもありません!」


「やかましい! あのガスコーニュの青二才め、能書きばかり垂れていつまで下流でウロウロしておるのだッ! バウツェンであのナポレオン本人に包囲されかけた時ですら、俺たちは『前進こうたい』の気合で生き残ったのだぞ! あいつのチマチマした計算を待つなんて嫌だ! あいつが渡ってくる前に、俺たちの気合で全部終わらせてやる! 突撃だァ!」


 ミュッフリンクが(あっ、終わった!)と天を仰いだその刹那、信じられないことが起きた。


 甚大な犠牲を出したものの、泥まみれで咆哮しながら迫ってくるプロイセン兵の狂気に恐れをなしたのか、防衛するフランス軍のベルトラン将軍の軍団が戦列を後退させ、「気合の橋」が本当に開通してしまったのである。


「見たかミュッフリンク! 渡ったぞ! 気合だ!」


 ブリュッヘルがドヤ顔で勝利の雄叫びをあげる。


「……最悪だ。これでまた、あの方たちの『バウツェンで大敗した時も、カッツバッハの泥沼の時も、計算を全部無視して気合を入れればなんとかなった』という悪癖が、学習されてしまう……」


 その上、目の前に広がっているのは、二千人の死傷者を出してボロ雑巾のようになり、これ以上の進軍など不可能なシレジア軍の惨状だった。


 ミュッフリンクは飛び散った泥を吐き出しながら、この無駄な大出血の尻拭い(救済)を北方軍ベルナドットにどう頼めばいいかを考えていた。

 バウツェンで血を噴き出しながら笑っていた老人の姿を思い出し、人知れず涙を流す。



『合流そして』


 シレジア軍の惨状を聞いたナポレオンは、十四万の軍を率いて止めをささんとドレスデンを出発して強行軍で猛追する。

 全力で前進こうたいして北方軍と合流するシレジア軍。


「道を開けろ! ベルナドットはどこだ! 気合の足りん北の連中に、戦場がどちらか教えてやりに来たぞ!」


 馬から落ちそうなほど泥だらけのブリュッヘルが、軍服をボロボロにして叫んでいた。

 後ろには、太鼓のバチを折らんばかりに拳を握りしめたグナイゼナウが、口をへの字にして付き従っている。


「閣下……逃げ込んできたにしては、少々声が大きすぎます」


 ミュッフリンクが泥を吐き出しながら小声で突っ込むが、ブリュッヘルは聞く耳を持たない。

 そこへ、ビューローが驚くほど晴れやかな顔で歩み寄ってきた。


「おお、ブリュッヘル閣下! よくぞご無事で! カッツバッハでのあの『石投げ戦術』、『ヴァルテンブルクの渡し』は、まさにプロイセンの魂の極致であり、閣下こそが、わがドイツの救世主だ!」


「おお、ビューローか! 分かっているじゃないか!」


 過剰なまでの称賛にブリュッヘルは上機嫌になり、ビューローが差し出したエール(ビール)をあおり始めた。

 ビューローはそのまま、言葉巧みに猛将を宴席へと誘い込み、わずか一時間で完膚なきまでに酔い潰してしまったのである。


「……よし、ブリュッヘルは寝たな。今のうちにすべて終わらせるぞ」


 ビューローが合図を送ると、北方軍の兵士たちが、まるで魔法のように動き出した。

 ベルナドットが地味な事務仕事で積み上げた膨大な兵站へいたんが、泥まみれのシレジア軍に惜しみなく分け与えられていく。


「おい、これを見ろ! 穴の開いていない靴だ!」


「このパン、焼きたてだぞ。石が入っていない!」


 ボロボロのシレジア兵たちに、北方軍の兵士たちが「大変だったな、兄弟」と笑いながら、温かいスープと新しい外套がいとうを配って歩く。


 この光景を、偏屈なヨルクが、珍しく神妙な面持ちで見つめていた。


「……王太子ベルナドット。私は貴公を疑っていたが、この準備の良さには脱帽する。わが軍の命を繋いでくれたこと、感謝する」


 それは、あの頑固なヨルクが絞り出すような、精一杯の謝辞であった。


 次の日、ミュッフリンクは隅で冷めた紅茶をすすりながら、死にそうな目でボイエンに愚痴をこぼしていた。


「ボイエン……。なぜもっと早く助けてくれなかった。私は毎日、閣下たちの『気合で橋を架ける』という物理法則を無視した議論に、何時間付き合わされたと思っているんだ……」


「……分かりますよ、ミュッフリンク殿。私もここでは、銀行の支配人のような仕事ばかりでした。ですが見てください。あの略奪をしないコサックが、今や君たちの馬の世話をしています。これが『正解』というもののでしょう」


 ボイエンは友の背を叩き、顔を上げた。


「愚痴はここまで。さあ、ミュッフリンク殿、スチュワート殿! ついにわがペンが、皇帝ナポレオンの首を獲る瞬間を書き留める時が来ましたぞ!」


 ボイエンが興奮してペンを走らせる横で、英国特使スチュワートは冷めた目で戦列を眺めていた。


「ボイエン、先にインクが乾いてしまわないか。皇帝ナポレオンを見てみろ、あそこでずっと立ち往生してるぞ」


 孤立したシレジア軍を各個撃破すべく追ってきたナポレオンは、眼前に広がる北方軍の陣形を凝視したまま立ち尽くしていた。


 そこに広がっていたのは、完璧に結合した北方軍の陣形である。

 地形を完璧に利用し、砲兵が死角を埋め、側面にはチェルニショフの軽騎兵コサックが待機している――それはデネヴィッツの戦いでネイが陥った、あの完膚なきまでの包囲の再来であった。


 攻撃が不可能であると悟ったナポレオンは、あえて隙を見せ北方軍がこの陣形を崩して、突撃してくるのを待つ作戦に変更した。伏兵を潜ませ、幾度もわなを張って待ち構える。

 狙いはナポレオンの手の内を知るベルナドットではなく、隙をさらしたフランス軍を攻撃する習性がある、シレジア軍の猛将ブリュッヘル。


「何だと!? 逃げるのかナポレオン! 気合が足りんぞ! 追え、切り崩してやる!」


 ブリュッヘルが、泥まみれのサーベルを振り回して叫んだ。

 しかし、北方軍の面々は、今ここで動けばナポレオンの罠にまることを完全に心得ていた。


「閣下、閣下! 追撃の前に、まずはこの極上のヴィンテージ・ワインで祝杯を! 勝利の前祝いです!」


すぐさまビューローやタウエンツェーンたちが、代わる代わる最高級の酒をブリュッヘルの喉に流し込む。


「おお、分かっているな……。ぐび、ぐび……。うむ、ナポレオンなど、明日で……いい……」


 猛将はわずか数分で、再び心地よい沈黙へといざなわれた。

 しかし、グナイゼナウだけはだまされなかった。


「ブリュッヘル閣下が寝ても、私は行くぞ! 独断で追撃する!」


 彼が馬を駆け出させようとした瞬間、音もなく現れたチェルニショフが、その馬のくつわつかんだ。


「グナイゼナウ閣下。まあ、そう急がず。少し、おしゃべりでもしませんか」


 そこから数時間、チェルニショフはグナイゼナウを「話し相手」として拘束し、コサックに伝わる世にも恐ろしい残虐行為の数々を詳細に語り続けた。


「……もういい。もう分かった、チェルニショフ。追撃は、止めておく……」


 どれほど旺盛な闘志を誇るグナイゼナウであっても、狂暴な軽騎兵コサックで周囲を固められたら動きようがなかった。

 こうして身内のノイズを完璧に処理し、北方軍は一歩も動かなかった。


 ベルナドットは完璧に整えられた兵站へいたんのなかで、兵たちに温かいスープと休息を与え続けていた。

 ナポレオンが「待ちぼうけ」によって自滅するのを、ただ静かに時計の針を眺めながら待っていたのである。


「……無駄だ。あそこには、付け入る隙が一つもない」


 これ以上の待ち時間は自滅を意味すると悟った皇帝は、忌々しげに吐き捨て、一度も戦火を交えることなくライプツィヒ方面への撤退を命じた。ただ、無意味な移動と待ち伏せによる消耗だけを、兵たちに残して。


 皇帝の軍勢が力なくその場を去ったとき、本営のベルナドットは手帳に一本の線を引いた。

 そして、首の古傷をなぞって静かに微笑んだ。


「……計算通りだ。ナポレオン、貴公に残された時間は、今完全にゼロになった」



『最後の補助線』


 ナポレオンが退却していった後、北方軍の本営に、地平線の向こうから泥を跳ね上げて進軍してくる巨大な軍勢があった。

 六十八歳のベニグセン率いるポーランド軍である。


 ベルナドットが本営の天幕を出ると、馬を寄せたベニグセンが、ロシア軍の将軍帽を無造作に脱ぎ捨てて笑った。


「王太子、ナポレオンを引き返させたか。……計算通りだ。奴が虚空を叩いて下がった今、この巨大な盤面の東側は、私の軍勢が完璧に塞いでみせよう」


 ベルナドットはあの芝居がかったガスコーニュの笑みを浮かべ、老将の手を固く握った。


「お願いする、ベニグセン閣下。貴公の軍勢が、東からフランス軍の退路に圧力をかける。これでナポレオンを閉じ込める『檻』は完成した」


 雑談を交わす二人の実務家の後ろで、クラウゼヴィッツは、ただ渋面を作って自らの手帳を握りしめていた。


「……おい、ボイエン」


 クラウゼヴィッツは、北方軍の本営で相変わらず銀行の支配人のような顔をして書類をめくっている旧友ボイエンを見つけ、忌々しげにささやいた。


「君はここで何をしているんだ。我らがシャルンホルスト閣下の遺志は、こんな元フランス人の『帳簿』に付き合うことだったのか。戦争とは、国家の全エネルギーをぶつける精神の爆発だ。なぜ、これほど巨大な軍勢が、ただの利回り計算のように動かされている!」


 ボイエンは、かつての同志の熱い言葉に、かつての自分を重ねて寂しげに微笑んだ。


「クラウゼヴィッツ。諦めろ。君の誇る『高尚な軍事理論』が輝くような戦場は、もう欧州のどこにも存在しない」


 ボイエンは、ベルナドットが完成させた膨大な「弾薬供給ルートの図面」をクラウゼヴィッツの前に広げた。


「見てみろ。君が『精神の爆発』と呼ぶ暴力は、殿下の机の上では、単なる一日の消費弾薬数コストとして完全に予算化されている。我々は今、ナポレオンという名の巨大な不良在庫を、合法的に差し押さえに来たのだ。……君の理論は、殿下の高度な事務作業の前では、ただの絵空事だ」


 クラウゼヴィッツは絶句し、目の前の峻厳な現実に震えた。


「……これが、これからの戦争だと言うのか」


 絞り出すような呟きに、ボイエンはただ無言で深く頷いた。


 精神も、誇りも、天才のひらめきも関係ない。

 完璧な物流と計算によって敵を窒息させる、巨大な計算機であった。


 そしてその理詰めの数式を完成させる最後のピースが、かつてロシアの泥濘で共に馬車を押した、あのハノーファーの老将であった。


 ベニグセンの合流によって、ナポレオンを閉じ込める「地政学的数式」は一分のすきもなく完成した。



『タウエンツィーンの前哨戦』


 撤退を余儀なくされたナポレオンは、北方軍の主力の移動により手薄になった背後を、ネイに命じて攻撃させた。


 十月十二日、ライプツィヒとベルリンの中間地点――デッサウ。


 タウエンツェーンは、エルベ川の前面に二万五千の民兵ランドヴェーアを配備していた。ベルナドットが、ベルリン防衛の「要」として居残りさせた軍勢である。


「将軍! 前方に敵影! ネイ元帥率いるフランス軍です!」

 ナポレオンが放った精鋭が牙を剥く。だが、タウエンツェーンに動揺の色のなかった。ナポレオンがこの地へ寄り道をして時間を浪費することは、すべてベルナドットの織り込み済みだった。


「形式的な防戦で構わん。必死に抵抗しているポーズを敵に見せつけろ」激しい砲撃がデッサウを震わせる。民兵たちは最小限の犠牲で、数時間にわたり敵の進軍を阻んだ。


 フランス軍が本格的な包囲網を敷こうとしたその瞬間、タウエンツェーンは鮮やかに退却を命じる。それは完璧にコントロールされた退却劇だった。フランス軍が街になだれ込んだとき、プロイセン軍の本体はすでに安全圏へと脱出していた。


 フランス側は「敵に二千の損害を与えた」と大戦果を誇った。しかしその内実は、戦死者ではなく、すぐに取り返せる予定の捕虜や一時的な行方不明者(とうぼうしゃ)で水増しされたハリボテの数字に過ぎない。


 タウエンツェーンは「首都防衛」の大義名分を掲げ、自軍の血をほぼ流すことなく敵の猛攻をいなしてのけたのだった。


 フランス軍は、時間を空費しただけに終わった。彼らは何の実利もないまま、ヘトヘトに疲弊して元いたライプツィヒへ引き返していくことになる。


 史上最大の「詰み」──ライプツィヒの市街地が、地平線の向こうで彼らを待っていた

 ライプツィヒ前の時系列がややこしくて、なぜ、あんな所にシレジア軍がいたのかを説明するのに苦労しました。ベニグセン、格好良いですよね。いぶし銀の魅力です。

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