ナポレオンの懐刀
一八一三年十月。ドイツでナポレオンが包囲網に追い詰められていくなか、北方軍のさらに北――ハンブルクの街は、完全に封鎖されていた。
ここを守るのは、ナポレオン軍のルイ=ニコラ・ダヴー元帥。彼は敗残兵の骨組みに現地兵を継ぎ接ぎした満身創痍の軍勢を率いながらも、撤退を拒絶し、頑強な抵抗を続けていた。
「……ダヴーの野郎、相変わらず嫌な所をつきやがる」
包囲戦の最前線、冷たい海風が吹き抜けるエルベ川の下流。
ロシア軍の将軍旗を掲げ、不機嫌そうに鼻を鳴らしていたのは、ポーランド軍部隊を率いるレオンティ・フォン・ベニグセンであった。彼はドイツ出身の貴族でありながらロシアの将軍となり、かつてアイラウの戦いでナポレオンと互角に戦った、欧州でも数少ない男だった。
「ベニグセン閣下。ダヴーの先遣隊が、わが包囲網の最弱点を突いて突破を図っております。最前線のテッテンボルン将軍の軽騎兵部隊が必死に足止めを試みていますが、このままでは、突破されます」
隣で泥だらけの報告書を広げたのは、ヴァルモーデン将軍である。彼は冷たい海風に打たれながら、ロシア、プロイセン、英国の混成部隊、そこにプラスされたハンザ同盟からの義勇兵たち──俗に言われる「ハンザ同盟軍」を率いていた。
「慌てるな、ヴァルモーデン。テッテンボルン将軍なら心配しなくて良い、あの軽騎兵どもなら上手く逃げ回れる。それよりも、我々の足元を見ろ。手元にあるのは、つい先だってまで敵であった忠誠の定まらぬ混成部隊だ。焦ってブリュッヘルのように正面からぶつかれば、ダヴーに一撃で粉砕される」
ベニグセンは懐から、ベルナドットが送ってきた一通の極秘公文書を引き抜いた。そこには、ベルリン防衛線でビューローたちが共有した「徹底した防衛の角度の計算」が記されていた。
「王太子の計算通りに動くぞ。ヴァルモーデン、反転しろ。敵の突撃を受け止めるな、受け流すのだ。奴の軍を通過させたら、進行方向の九十度以上の角度で、軍を回り込ませろ」
ダヴ―は、包囲軍の動きがにわかに鈍くなったのを見逃さなかった。
「ベニグセンめ、恐れをなして退いたか。今こそ打って出るぞ!」
ダヴーの命令により、フランス軍が一斉にハンブルクの城門から打って出た。
だが、彼らが突き進んだ先には、戦うべき敵の姿はなかった。
ヴァルモーデンは、ベルナドットから授かった「徹底した防衛の角度」を忠実に執行していた。
フランス軍が右翼を突けば、テッテンボルンの軽騎兵が後方から退路を断つように動く。左翼を突けば、英国のポンド資金で調達した最新の重砲兵隊によって、正確な仰角から次々と砲弾を叩き込まれる。
「馬鹿な……! 我らの攻撃がすべて空転している……!」
ダヴ―は焦燥に顔を歪めた。
打って出れば出るほど、自軍の限られた兵糧と弾薬はただ消費され、逆にベニグセンの包囲網は、まるで生き物のように形を変えて自らの側面から背後に回り込んでくる。
ダヴーはついに一度も包囲網を突破できぬまま、静かに要塞へと引き返すしかなかった。
「ベニグセン閣下、ヴァルモーデン閣下! なぜ攻勢に出ないのですか! 心理的熱狂が最高潮に達した今こそ、全軍突撃を──」
「やかましい、クラウゼヴィッツ。事務作業の邪魔だ。隅で紅茶でも啜っていろ」
ベニグセンは一瞥すらせず、峻厳に言い放った。
「我々の仕事は、ダヴーを倒すことではない。あの怪物の喉元をこの港に釘付けにし、一歩も動かせずに『干からびさせる』ことだ。……我々はこのハンブルクという名の檻の鍵を、ただ静かに閉め続けるだけでいい」
クラウゼヴィッツは抜いた剣を握ったまま、石のように固まった。
彼の誇る絶対的境地の理論など、この「地味で淡白な包囲のルーチン」の前には、何一つ割り込む余地などなかったのである。
ダヴーとベルナドットって不仲説が定説ですけど、公文書での非難は全くないです。アウエルシュタットも、ベルナドットが戦いには加わらず、即座に追撃に移ったと報告しているだけです。ベルナドットがプロイセン軍の退路を切る位置にいる事だけでダヴーなら勝てるとベルナドットは判断して、追撃に全ふりしたのでは思ってます。アウエルシュタットの後の追撃戦で、プロイセン軍ほとんど全て捕虜になりますが、ベルナドットが戦闘に参加しなかった事で可能になりました。




