合併買収
カオス極まる勝報を耳にしたベルナドットは、北方軍の本営で、こめかみを押さえて椅子に沈み込んだ。
「……ヴィンツィンゲローデ。私のプランでは、シレジア軍はあくまで『囮』であったはずだ。なぜ、泥のなかで石を投げて勝っているのだ?」
「殿下、あの方々に数学を期待するのは、猫に積分を教えるようなものですからな」
ヴィンツィンゲローデが、ワインを飲みながら大笑いする。
「おまけにアレクサンドル陛下は、迷子の将軍を『神の使い』だと信じ込んでいる……。ブラへ、この等式をどうやって収束させればいい」
ベルナドットは、気分転換にと、パリのデジレから届いた手紙を開いた。
『ジャン=バティスト、あの方はあなたの計算が怖くてたまらないみたいよ。でも、プロイセンのあの方たちが「気合」で勝つのはもっと嫌みたい。計算で負けるのも、計算違いで負けるのも、あの方は嫌っているわ』
ベルナドットは苦笑し、首の古傷をなぞった。
「いいだろう。気合も、迷子も、神の啓示も、すべては私の包囲網の『変数』だ。──織り込むまでだ」
一八一三年九月 ボイエンの手記より。
『……私は今日、絶望した。
カッツバッハの勝報が届いたが、その内容は軍事学への冒涜である。グナイゼナウ閣下は「太鼓のリズムが川の神を味方にした」と豪語すれば、ブリュッヘル閣下に至っては「泥を食えばフランス人の味がする」などと意味不明な供述をしている。
一方、わが北方軍のベルナドット殿下は、この「気合勝利」を耳にして一言、「統計的にあり得ぬ外れ値だ」と切り捨てられた。
私は殿下を操るべく送り込まれたはずであったが、最近では殿下の言う「物流の等式」の方が、シレジアの「泥投げ戦術」よりはるかに文明的に思えてきた。
……シャルンホルスト閣下、どうか草葉の陰で私を許さないでいただきたい』
『泥の中から来た知性』 【良心の等式】
北方軍本営。
ビューロー、ヴィンツィンゲローデ、チェルニショフ、タウエンツェーンの面々がベルナドットを囲み、今後の方針を決める「数学的な」会議を行っていた。
その大広間の片隅からは、ボイエンが相変わらず不機嫌そうな視線を送っている。
その時、重い扉が大きく跳ね上がるように開いた。
現れたのは、軍服が擦り切れ、泥にまみれたヴォロンツォフであった。
三十一歳になったヴォロンツォフは、室内に満ちる「清潔な秩序」と、テーブルに広げられた精密な地図を目にした瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。
「……ああ、神よ。ここには、泥を食えと叫ぶ老人も、聖なる大地に祈れと命じる狂人もいないのですね」
ベルナドットは椅子から立ち上がると、自ら温かいスープの入った皿を携え、ヴォロンツォフに歩み寄った。
「ヴォロンツォフ、災難だったな。亡きクトゥーゾフの強いたあの『気合』は、英国仕込みの君の胃袋には少々刺激が強すぎたか」
ヴォロンツォフは震える手で皿を受け取り、その温かさに瞳を潤ませた。
「殿下……。領内で軍を再編してまいりました。どうか彼らを『正気の世界』で戦わせてやってください。あのような野蛮な消耗戦はもうたくさんだ。私を、あなたの描く『盤面』の端にでも加えてください。同じ死地に向かうのであれば、戦略的に無意味でない場所を選びたい。それならば、私は何度でも戦ってみせます」
「……フン。スープ一杯で忠誠を誓うとは、ロシアの知性も安いものですな」
すかさず嫌味を口にしたボイエンを、ベルナドットの鋭い視線が射抜く。
「あのボロジノの惨劇を生き延びた、本物の英国紳士だ。言葉の重みが違う。そうだろう、ヴォロンツォフ」ベルナドットが、優雅に片手を差し向ける。
「ヴォロンツォフ、やっときたな!」二人の会話に割り込むように、チェルニショフが跳びつくように彼のもとへと歩み寄る。
その隣から、今度はヴィンツィンゲローデが進み出た。
「あの時はありがたかった。ヴォロンツォフ、お前に何かあった時は、今度は俺が絶対に助けに行くからな」ヴィンツィンゲローデは深く深く感謝を告げた。
その再会の輪へ、ベルナドットが声をかける。
「再会の挨拶はここまでだ。急ぎ、ヴォロンツォフの兵たちにたっぷりの食事と新しい靴を用意しろ」
ベルナドットの命令に、周囲の将兵たちが色めき立つ。口先だけではない。まさに理想の軍隊が、今ここに具現化しようとしていた。
「兵士が腹一杯食べられる軍を、本当に作られるとは……」
ヴォロンツォフは思わず膝を地面につけ、この出会いを神に感謝をした。
一八一三年秋、北方軍の本営。
事務仕事の山は、もはや一つの山脈と化していた。
ベルナドットは休むことなく羽ペンを走らせながら、ナイペルクとボイエンに鋭い指示を飛ばしていた。
「ナイペルク伯、すまないな。他国の特使に書類仕事を手伝わせるのは気が引けるが、これもオーストリアの勝利のためだ、堪えてくれ」
「王太子、手伝うのは一向に構いませんが、我が主との約束通り、攻略法はきちんと伝授していただけるのでしょうな?」ナイペルクは独眼の奥に不遜な光を宿し、皮肉っぽく笑った。
ベルナドットはペンを止めることなく、ただ鼻で笑った。
「分かっている。ナポレオンが執着する女性を、確実に振り向かせる方法だろう? ジョゼフィーヌにデジレ……あの『義弟』の好む女の数式など、この書類仕事に比べれば赤子の手をひねるより簡単だ。断言するが、ナポレオンは決して女性にモテる男ではない」
雑談か真剣な謀略か、判別のつかぬ会話のなかで、国家を動かす膨大な書類が峻厳に裁かれていく。
「それから、ボイエン。ヴォロンツォフの部隊には絶対に手を出すなよ。あれは彼の私兵に等しい」
ベルナドットは書類の一枚をボイエンに突きつけた。
「中途半端にドイツの新兵を混ぜれば、あの英国仕込みの高い規律という名の数式が壊れる。新兵はすべて、ビューロー、タウエンツェーン、ヴァルモーデンの各軍へ分散させろ。彼らなら、自分たちのやり方でどんな新兵も完璧な型に嵌めてみせる。それから、ヴィンツィンゲローデは勝手に義勇兵を募るからほっておけ」
ベルナドットが尽きない書類との消耗戦を繰り広げている間、彼らは同時に、情報という虚数を実数に戻す作業を行っていた。
「殿下、カッセルを片付けておきましたよ。物流をほんの少し絞ってやっただけで、あの無能なジェローム・ボナパルトは哀れに尻尾を巻いて逃げ出しました」
カッセル襲撃へ軽騎兵を率いて出撃していたチェルニショフの報告に、ベルナドットは立ち上がって謝意を示した。
「見事だ、チェルニショフ。しばらくはコサックたちと共に北方軍の陣地で休んでいてくれ。彼らには最高級のワインとハムを用意させよう」
「――ナイペルク、メッテルニヒからの最後通告として、バイエルンのモンジュラに伝えろ。『ナポレオンと心中するか、我らとパンを分かち合うか。選ぶ時間はあと一週間だ』とな」
ザクセン軍への工作も、ベルナドット自らが仕掛けていた。かつてワグラムで彼らを褒め称えた「美談」は、グロースベーレンとデネヴィッツの勝利を経て、彼らの心を完全に裏返させつつあった。
ナイペルクは手元の報告書に目を落とし、独眼を怪しく光らせた。
「バイエルンの件、直ちに手配いたします。……それから殿下、そちらのザクセン側への工作も極めて順調です。東、南、北を塞がれた以上、ナポレオンには本国へ繋がる西の退路しか残されていません。奴は街道の結節点である『ライプツィヒ』へ全軍を集結させるしかなくなります。彼がそこに足を止めた瞬間、足元の地盤ごと、すべてが消え失せることになります」
執務室の隅では、英国特使スチュワートとボイエンが、もはや自分たちが「軍隊」にいるのか「商館」にいるのか分からなくなっていた。
「……おい、ボイエン。チェルニショフとかいう若造、戦わずに国を落としたぞ。しかもバイエルンまで書類一枚で裏切らせようとしている」
スチュワートが、羽ペンで机に落書きをしながら囁くのを耳にしながら、ボイエンは、自分のメモ帳が「突撃の回数」ではなく「寝返らせた部隊の給与計算」で埋まっていくことに、深い喪失感を覚えていた。
「……スチュワート殿。これは戦争ではありません、国家の合併買収(M&A)ですよ。シャルンホルスト閣下が生きておられたら、この『血の流れない勝利』を見て、情けないと泣かれたでしょう。わがプロイセンの知性は、このような根回しではなく、正面突破にあるはずなのに……。なぜこうも、殿下の帳簿通りに世界が動くんだ!」
深夜。ようやく最後の封蝋を終えたベルナドットは、窓の外の北極星を見つめた。
「ナポレオン……。貴公はこれから、自分が築いたはずの同盟軍が、ひとり、またひとりと私の『正解』側へ歩いてくるのを見ることになる。ドイツは貴公にとって戦場ではない。孤独を学ぶ教室になるだろう」
事務と交渉、そして工作と兵站に及ぶすべての変数を操作し終えたベルナドットは、ついに重い軍靴を鳴らして立ち上がった。
「さあ、事務仕事は終わりだ。……シレジア軍の連中が、気合で自滅する前に合流してやるとしよう」
歴史書はデネビッツで、北方軍の歩みを書くのを止める事が多いですが、ここからが本番です。
プロイセンとロシアの軍事貴族の私兵を中心とした中小諸国連合軍が北方軍です。
ハンザ同盟や北部のドイツ諸侯を支配下に入れ、イギリスとの貿易を再開させて関税取ったりして、イギリスの補助金を元に大儲けします。だから、北方軍は膨大な兵站を維持出来たのです。




