石投げ合戦と迷子の神
――カッツバッハ、一八一三年八月二十六日。
「閣下! 兵が、兵が泥に溶けております! これでは銃など一発も撃てません!」
ミュッフリンクは、溢れかえったカッツバッハ川の泥水に肩まで浸かりながら、絶望の叫びを上げていた。
「黙れミュッフリンク! 銃が使えんのならその辺の石を拾って投げろ! 弾がないなら銃尻で叩き潰せ! これこそがプロイセンの『気合』だ!」
七十歳のブリュッヘルは、馬ごと泥のなかに突っ込みながら、サーベルを振り回して大笑いしていた。
その隣ではグナイゼナウが、リズムもへったくれもない音で太鼓を乱打している。
「閣下、ベルナドット殿下の『トラッヘンベルク・プラン』に従うならば、ここは後退して敵を誘い込む局面です! 数学的に考えても、この泥濘での正面衝突は……」
「やかましい! あのガスコーニュ人の屁理屈など、川の藻屑にしろ! 突撃だァ!」
泥水のなかからヌッと、誰よりも苦悩に満ちた顔をしたヨルク将軍が現れ、普段の合理主義はどこへやら、彼は泥まみれの軍刀を振り回し、誰よりも獰猛にフランス軍の側面へと突っ込んでいく。
ミュッフリンクが(あっ、終わった)と天を仰いだその刹那、信じられないことが起きた。
大雨で完全に視界を失っていたフランス軍のマクドナル元帥の軍団は、泥まみれで咆哮しながら殴りかかってくるプロイセン兵の狂気にパニックを起こした。彼らは逃げ惑ううちに、増水で橋の流された川へと自ら身を投じ、壊滅したのである。
「見たかミュッフリンク! 勝ったぞ! 気合だ!」
「最悪だ。これでまた、あの方たちの『計算を無視すれば勝てる』という悪癖が強化されてしまった――」
ミュッフリンクは泥を吐き出しながら、トラッヘンベルクの清潔な作戦会議を思い出して、人知れず涙した。
――クルム、一八一三年八月二十九日の深夜。
ボヘミアの古き温泉街、テプリツェ城の最高司令部は、豪雨の音をかき消すほどの怒号とパニックに包まれていた。
「トルストイは、まともに逃げることも、積極的に戦うこともできないのですか。一体、何がしたいのです?」
ロシア皇帝アレクサンドル一世は、青ざめた顔で眉をひそめ、手元の歪んだ地図を美しく整えられた指先で上品に叩いた。三日前のドレスデンでの大敗。ナポレオンという怪物の影が、ぬかるんだボヘミアの山脈全体を不気味に覆っている。
連合軍の総司令官であるオーストリアのシュヴァルツェンベルクたちは、若き皇帝を「ただの神輿」と侮り、情報すらまともに共有してくれない。――もっとも、アレクサンドルよりたった数歳年上の総司令官自身も、各国のわがままな重鎮たちに担がれた『お飾り』に過ぎず、ナポレオンの影に怯えてまともな判断などできなくなっているのだが。
お互いがお互いを「あのお飾りめ」と見下し合う。そんな最悪の空気のなか、アレクサンドルは内心激しく動揺し、孤立感に震えながらも、最高権力者としての気品と威厳だけは必死に保っていた。
そこへ、一人の男が泥まみれの軍服のまま、息を切らせて部屋へ飛び込んできた。アントワーヌ=アンリ・ジョミニ中将。数日前、ベルナドットの北方軍から「模倣者」と返品され、連合軍内でもスパイと疑われ、もはやこのロシア皇帝の寵愛しか生き残る道がない、崖っぷちの亡命理論家だった。
「陛下! 凶報……いや、天の配慮です!」
ジョミニが叫ぶ。
「たった今、テプリツェ近郊の路上で目撃しました。オーストリアのコッレレド伯爵の部隊が、クルムの戦場を素通りして、一目散にチェコの奥地へ逃げようとしています。シュヴァルツェンベルク侯爵の撤退命令にバカ正直に従っているのです!」
アレクサンドルの端正な顔が、怒りと困惑で引きつる。十キロ先のクルムでは、トルストイのロシア軍が敵に追いつかれて戦っているのだ。
「オーストリア軍は、我が軍を見捨てて退却するというのか? なんという……なんという弱腰」
「陛下!」
ジョミニが言葉を遮る。
「書類を回してシュヴァルツェンベルクのサインを待っていては、明日の朝にはロシア軍は全滅し、後ろからナポレオン直率の本隊がなだれ込んできて全員終わりです! ですが、追撃している敵の塊、あれは孤立しています。私の見立てでは、ナポレオンではなく現場のヴァンダムが功を焦って突出しているだけです。今すぐオーストリア軍を右に曲がらせて前線に叩き込めば、逆に包囲して勝てます!」
「ナポレオンではないと、本当に、断言できるのですね?」
アレクサンドルが、祈るような目でジョミニを凝視する。もしジョミニの読みが外れ、孤立しているのではなく、後ろにナポレオン本隊が控えていたら、反転した連合軍は全滅し、自分も捕虜になる。そんな決断ができるわけがない。
――その時。窓の外で、激しい雷光が夜空を紫に染めた。
ハッと息を呑んだアレクサンドルは、胸の前で静かに十字を切った。その瞳から怯えが消え、代わりに、ぞっとするほど澄み切った光が宿る。
それは他者の追随を許さない、完全なる狂信者の目だった。
「分かりました……これこそが、天の啓示です。神は我らに、試練とともに勝利の道を指し示された」
先ほどまでの弱気はこっぱみじんに消え失せ、皇帝は毅然とした態度でジョミニを見据えた。背筋をピンと伸ばし、まばゆいばかりの気品と、常軌を逸した神聖なオーラを纏う。
「ジョミニ、あなたが今ここへ現れたのも、主が遣わした奇跡に違いありません。私はヨーロッパを救うべく、神に直接選ばれた、ただ一人の皇帝です。全軍に伝達しなさい。オーストリア軍を直ちに反転させ、前線へ投入せよ、と」
アレクサンドルは完璧に整った美しい顔のまま、声音ひとつ乱さず、しかし一切の反論を拒絶する圧倒的な笑顔を浮かべた。
「シュヴァルツェンベルクのサインなど不要です。これ以上の会議も、地上の人間たちのくだらない手続きも必要ありません。これは『天の命令』なのですから。ふふっ、逆らう者には、神の罰が下るだけですよ」
気品に満ちた、しかし完全にヤバい領域に足を踏み入れて優雅に微笑む皇帝のオーラに、ジョミニは「あ、これ以上はツッコんだら文字通り消される」と本能的な恐怖を察し、引きつった笑みを浮かべながら深々と頭を下げるのだった。
皇帝は部屋の隅で戦々恐々と佇んでいたオーストリア外相、メッテルニヒの元へ優雅に歩み寄ると、その胸ぐらを掴んで詰め寄る。
「メッテルニヒ! 見なさい、お前たちの軍隊のあの無様な姿を! 総司令官の許可など知ったことですか。神が命じておられる。オーストリア軍をクルムへ引き返させなさい!」
老練な政治家であるメッテルニヒも、気品ある顔の奥で狂信者の目を輝かせる皇帝の凄まじい剣幕と、ここでロシア軍を見捨てればナポレオンに各個撃破されるという現実的な恐怖を悟った。
「……分かりました。オーストリア政府は最高統帥権の尊重をいたします」
深夜の電撃的な密約。逃亡するオーストリア軍の退路を力づくで塞ぐ、最高権力者のゴリ押し命令が、雨の闇のなかを走った。
しかし、神の試練はそれだけで終わらなかった。
「陛下! クルムから急報です!」
またしても泥まみれの伝令が部屋へ転がり込む。
「オステルマン=トルストイ将軍が、フランス軍の砲弾をまともに受け、左腕を吹き飛ばされました! 現場は指揮官を失い、大混乱に陥っています!」
部屋が一瞬、静まり返る。
だが、アレクサンドルの胸に湧き上がったのは、絶望ではなかった。むしろ、脳天を突き抜けるような奇妙な高揚感だった。
(トルストイの腕が、吹っ飛んだ……?)
――「皇帝は下がっていて下され。アウステルリッツのようになっても困りますからな」と慇懃無礼な態度で自分を排除していたあの宿将が、文字通り肉体的に最前線から退場したのだ。
これぞ天の配剤、神が「お前が指揮を執れ」と言っているに違いない。「馬を引け!」アレクサンドルは外套を翻した。
「陛下、どこへ!? まだ敵の正体は……ナポレオン直率の可能性も残っています!」
引きつった顔の側近が叫ぶ。
「現場のイェルモローフに伝えなさい!『何が何でも明日の朝まで一歩も退くな、私もすぐ行く』とな!」
三十日の夜明け前。激しい雨が上がるなか、アレクサンドルはプロイセン王を引き連れ、テプリツェからクルムへと続く十キロのぬかるんだ山道を、狂ったように馬を爆走させた。
――朝霧が晴れゆくクルムの戦場。
前日からの地獄の防衛戦で、兵力の三分の一を失い、指揮官のトルストイを失って、今にも崩壊しかけていたロシア兵たちが、ふと後ろのテプリツェ高地を見上げた。
そこには、泥まみれになりながらも、馬上で泰然と戦場を見下ろす、ロシア皇帝アレクサンドル一世の姿があった。
さらにその横には、夜中にアレクサンドルとメッテルニヒから強烈な緊急命令を食らわされ、ぶつぶつ文句を言いながら戦場に「引き返して」きたオーストリアのコッレレド伯爵の軍勢が、続々とロシア軍の横へと滑り込んでくる。
戦線が崩壊しそうになった瞬間、皇帝が十キロの後方から直々に最前線へ乗り込んできて、逃げたはずのオーストリア軍を連れ戻し、自分たちのために指揮棒を振り始めたという、あまりにも劇的な「救世主」の姿だった。
「皇帝が、我らを見ておられるぞ!」
「オーストリアの腰抜けどもも戻ってきた! 叩け! 包囲しろ!」
戦場に狂気じみた大歓声が響き渡る。
だが、最前線の高地から双眼鏡を覗き込んでいたジョミニの目に、フランス軍の後方からくる軍勢が映る。
「ナポレオンが来たのか……!」
ジョミニは焦りで奥歯を噛み締めた。
だが、フランス軍の真後ろから這い出てきたのは、プロイセン軍のクライスト将軍率いる、約一万の軍勢であった。
「……プロイセン軍だと? なぜあんな場所から出てくる!?」
計算外の出来事に、ジョミニは思わず驚いて叫んでしまう。
それもそのはず、このプロイセン軍、ドレスデンから大雨のなかを命がけで逃げ回っているうちに、完全に道に迷った「迷子の軍勢」だったのだ。
「ここはどこだ!? 敵はどっちだ!?」
プロイセン軍の司令官クライスト将軍は、雨と霧で地図が全く役に立たなくなり、部下たちと泣きそうになりながら山道を彷徨っていた。ナポレオンに追われている(と思い込んでいる)彼らは、とにかく安全なチェコへ逃げ込もうと、必死に山を下るルートを探していた。
そして、霧がサーッと晴れて視界が開けた瞬間、彼らは己の目を疑った。
なんと、自分たちが必死に下ってきた山道のすぐ目の前で、フランス軍が後ろを完全に無警戒なまま、ロシア・オーストリア軍に向かって大砲をぶっ放しているではないか。
「将軍! 大変です! 敵の真後ろに飛び出しました!」
「なんだと!?」
クライスト将軍は心臓が止まるかと思った。逃げていたつもりが、まさか敵の後方に出てしまったのだ。
「う、後ろにナポレオンの本隊はいるか!?」
「わかりません。ですが、目の前の敵も、まさか我々が後ろから現れるとは思っておらず、大パニックを起こしています!」
プロイセンの兵士たちも、連日の敗走で限界を迎えていた。ここで反転して山を登り直す体力など、何も残っていない。
ならばと、クライスト将軍は、泥まみれの帽子を被り直すと、血走った目で叫んだ。
「計画通りフランス軍の後ろに出たぞ! このまま坂を駆け下りて、目の前のフランス軍を叩け!!」
「おおおおお!!」
生き残るために必死なプロイセン軍の「迷子たち」が、怒号とともにフランス軍の背後へ向かって、雪崩のように突撃を開始した。
最前線の高地から、この信じられない光景を見ていたアレクサンドルは、思わず声を上げて笑った。
(やはり、神の啓示は正しかった。私こそが神から悪魔を倒すべく天から送り込まれた本物の救世主だったのだ……!)
フランス軍のヴァンダム将軍からすれば、これは地獄以外の何物でもなかった。
正面からは、逃げたはずのオーストリア軍が戻ってきてロシア軍と肩を並べて押し寄せてくる。そして後方からはプロイセン軍。
「バカな! なぜプロイセン軍が我が軍の真後ろにいるんだ!? 陛下は、我らの後ろを守られていなかったのか!?」
完全なる挟み撃ち。フランス軍は一瞬でパニックに陥り、総崩れとなった。
夕刻には戦いは終わり、ヴァンダム将軍とその大砲はすべて鹵獲され、完璧な包囲殲滅劇が幕を閉じた。
――翌日。テプリツェ城の最高司令部では、昨日までの悲壮感が嘘のような、盛大な祝勝会が催されていた。
壁には、急ごしらえの「クルム包囲殲滅戦・作戦図」が掲げられている。そこには、ジョミニの手によって、ロシア軍、オーストリア軍、プロイセン軍の進軍ルートが、まるで精密機械の歯車のように美しく、幾何学的な矢印で描き込まれていた。
「諸君、これこそが我が軍事理論の真髄、『決定的地点への兵力集中』である!」
部屋の中央で、ジョミニは並み居る将軍たちを前に、胸を張ってワイングラスを掲げていた。数日前にベルナドットに「返品」されて泣きそうになっていた男の姿は、そこには微塵もない。
「オーストリア軍の迅速な反転、そしてプロイセン軍による完璧な退路遮断。すべては、私とアレクサンドル陛下が深夜に算出した幾何学的な計算の通りに動いた結果なのだ!」
その言葉を聞いたプロイセンの将軍たちは、あからさまに遠い目をし、給仕の持ってきたエールを無言で煽った。
(――いや、俺たちはただ道に迷っただけなんだけどな)
という心の声は、勝利の歓声のなかにかき消されていく。
ジョミニがワイングラスを片手に、各国の将軍たちに向かって「戦略の本質」を偉そうに語り散らかしていた、その奥の玉座で、ロシア皇帝アレクサンドルは、「天の預言」をこの地上で成し遂げた己の使命の重さに、深く、そして厳かに浸っていた。
(トルストイが吹き飛んだのも、すべては神の采配だったのだ……)
自分が現場にいたからこそ、あの逃げ腰のオーストリア軍をねじ伏せることができた。あの迷子のプロイセン軍が起こした奇跡を、確実な勝利へと変えることができた。
世間では、私の指揮ではなくロシアの将軍たちの見事な指揮で勝利したのだとすでに語られ始めているが、兵士たちは知っている。
「戦場の、あの場に立っていたのは私だ」と。
アウステルリッツで、老将たちから神輿と侮られて何の指揮権も与えられなかったあげく、敗戦の責任だけを押しつけられた日々は、もう終わったのだ。
私はついに、連合軍を導く救世主として、この地に降り立ったのだから。
急にアレクサンドルが覚醒して勝利するボヘミア軍。実はここが連合軍の最も危険な瞬間でした。
急に覚醒なんて事あるのって感じのクルムの戦いですが、親衛隊長という名の監視役が負傷した事により始めて指揮権を得たら、アレクサンドルは結構な名将だったというオチです。父親が軍部に殺されていて強い権力を持っていないアレクサンドルなので、名ばかりの指揮権しかなく、勝ったら将軍の指揮が良かった。負けたらアレクサンドルのせいにされていました。そのせいで無能な指揮官と思われていただけです。




