表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/55

デネビィッツ

 一八一三年九月六日。グロースベーレンの戦いから二週間後のデネヴィッツ。

 乾いた秋の陽光が、もうもうと立ち込める硝煙を白く透かしていた。


「勇者の中の勇者」ネイが放つ狂気のごとき猛攻は、文字通りタウエンツェーンの軍団を「削り取って」いた。

 即席の新兵たちの戦列が悲鳴を上げ、崩壊の兆しが見え始める。


 絶体絶命の瞬間であった。


 だが、タウエンツェーンの瞳に宿っていたのは、絶望ではなく、ある種の「確信」だった。


「……来るぞ。あの男の『補助線』が」


 彼は懐から、ベルナドットが今朝届けさせた一通のメモを取り出した。

 そこには戦術図ではなく、ただ一行、算術の問いのように記されていた。


『戦闘力は定数ではない。時間と状況によって変動する変数である』


 ネイの猛攻は苛烈だが、それは「最短時間で結果を出さねば自滅する」という焦りの裏返しだ。


「……耐えてみせるさ。ネイが全兵力を一点に『代入』するまで、自分はただの頑固な壁であればいい。一歩も引くな! 数学の授業はまだ終わっていないぞ!」


 民兵が主体のタウエンツェーンの部隊ではあるが、それ故に家族を守る戦いでは、ネイが率いる親衛隊にも負けない粘りを見せることができた。


「ベルリンを、家族を、フランス兵に蹂躙させるな!」


 タウエンツェーンは叫んだ。

 彼が最前線で剣を掲げ、ネイの怒涛の攻勢を正面から受け止めたその時。


 側面の丘に立つベルナドットが、静かに右手を振り下ろした。


「今だ。敵軍への進入角よし、勝利の定理を証明しろ」


 直前までの豪雨が残した泥濘の悪路を、わずか数時間で十五キロメートル以上も激走したスウェーデン・ロシア連合軍が、横合いの森から鮮やかな隊列で出現した。


 吹き荒れる砂塵と、もうもうと立ち込める硝煙。

 その最悪の視界のなかで彼らが一斉に放った砲弾の雨は、もはや鉄の塊ではなく、ネイの慢心を打ち砕く「峻厳な回答」であった。


「何だと!? どこから現れた!」


 驚愕するネイ。


 その側面にロシア騎兵が雪崩れ込み、正面で耐え抜いていたビューローとタウエンツェーンの軍団が、信じられない活力で反転攻勢に転じた。


「全軍前進! 殿下が導き出したこの瞬間を逃すな!」


 正面が押し返し、側面が刈り取る。

 ネイの軍は、巨大な万力に挟まれたかのように、音を立てて瓦解していった。



 デネヴィッツの戦場に、静寂が訪れていた。


 ベルナドットは泥と硝煙にまみれたビューローの前に立つと、突然、自らの胸元に手をかけた。

 そこには、スウェーデン王国の最高名誉である「セラフィム勲章」が、鮮やかな水色のリボンに揺れていた。


「……閣下、これを受け取れ」


 ベルナドットは仰々しい儀式も慇懃な前置きもなく、その重厚な勲章をビューローの胸に叩きつけるように押しつけた。


「殿下、何を……。これは王家の、手続きもなしにこのような──」


 驚き、言葉を詰まらせるビューローを、ベルナドットは力強い眼差しでねじ伏せた。


「手続きなど知るか。これは王太子としてではなく、一人の男としての授与だ。ビューロー閣下、この勝利を貴公と……貴公の亡き弟君、ハインリヒに捧げる。あの夜、私を信じてくれた貴公たちの知性が、今日、欧州を救ったのだ!」


 ビューローの瞳に、一気に涙が溢れた。


 かつて自国に背かれ、獄死した弟。

 その無念を、宿敵であったはずのこのガスコーニュ人が、今、最高の名誉という形で昇華させてくれたのである。


 ビューローは勲章を握りしめ、震える声で絞り出した。


「……感謝いたします、ジャン=バティスト」


 その光景を囲んでいたプロイセン兵やロシア兵、スウェーデン兵たちが、一斉に歓声を上げた。


 彼らはこの数ヶ月で、自分たちの胃袋を満たし、命を無駄にせず、勝利を分け与えてくれたこの指揮官を、親愛を込めて「オヤジ」と呼ぶようになっていた。


「おい、オヤジ! いくらなんでも気が早すぎるぜ!」


 ひとりの古参兵が、愉快そうに声を張り上げて野次を飛ばした。

「まだナポレオンが残ってるんだ! そんな高いモン、今から配っちまって、ナポレオンを倒した時は何をくれるんだい?」


「そうだそうだ! オヤジ、俺たちの分も取っておいてくれよな!」


 やいやいと囃し立てる兵士たち。

 その騒がしさは、恐怖で統制された軍隊のものではなく、ひとりの父を慕う巨大な家族のそれであった。


 ベルナドットは、涙を浮かべたビューローの肩を抱き、兵士たちに向かって豪快に声を弾ませた。


「心配するな! ナポレオンに勝った時は、スウェーデン中のワインを振る舞ってやる! それまでに、しっかり腹を空かせておけ!」


 ベルナドットは、集まってきた将軍たち一人一人の瞳を見つめた。


 かつては互いに疑い、反発し合っていた将兵たちが、デネヴィッツの陽光の下で、ついに「信頼」という名の等式で結ばれたのだ。


 ベルナドットの瞳に、わずかに熱いものが光った。


「諸君……。この勝利は私の勝利ではない。君たちが、自分たちの力で導き出した『正解』だ」


 ナポレオンが築いた恐怖の支配を、彼らは知性と信頼で完全に塗り替えた。

 澄み渡る秋空の下、かつての宿敵たちは、今や戦友として、静かな、しかし確かな感動のなかに立ち尽くしていた。

 ビューローの名前はこの2つの戦いでのみ普通は出てきます。どういうわけかこれ以外の戦いは歴史から綺麗に消されます。ナポレオン戦争の解説動画をみていると、北方軍が消されているので、怪奇現象みたいな事がおこります。突っ込みを入れながら見ると楽しいです。

 肖像画のスウェーデン最高勲章はこの時にもらったものです。プロセイン最高勲章を脇において、この勲章を真ん中にして描かせていますので、そういう事でしょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ