デネヴィッツ
一八一三年九月六日。グロースベーレンの戦いから二週間後のデネヴィッツ。
乾いた秋の陽光が、もうもうと立ち込める硝煙を白く透かしていた。
「勇者の中の勇者」ネイ元帥が放つ狂気のごとき猛攻は、文字通りタウエンツェーンの軍団を「削り取って」いた。
だが、タウエンツェーンの瞳に宿っていたのは、絶望ではなく、ある種の「確信」だった。
彼は懐から、ベルナドットが今朝届けさせた一通のメモを取り出した。そこには戦術図ではなく、ただ一行、算術の問いのように記されていた。
『戦闘力は定数ではない。時間と状況によって変動する変数である』
ネイの猛攻は苛烈だが、それは「最短時間で結果を出さねば自滅する」という焦りの裏返しだ。
(……耐えてみせよう。ネイが全兵力を燃え尽きさせるまで、自分達は柔軟でありながら強固な壁であればいい)
タウエンツェーンはメモを力強く握りつぶし、最前線の兵たちへ向けて叫んだ。
「ベルリンを、家族を、フランス兵に蹂躙させるな! 正面からぶつかるな。退きながら受け流せ! だが陣形だけは絶対に崩すな。数学の授業はまだ終わっていないぞ!」
練度の低い民兵主体の部隊にとって、「後退しながら戦列を維持し、敵の圧力を受け流す」という複雑な機動は至難の業であった。一歩退くたびに陣形は歪み、容赦のないフランス軍の銃弾と突撃によって、戦線は文字通り削り取られ、甚大な死傷者が続出していく。
それでも彼らが完全な「崩壊」を免れたのは、背後にある郷土と家族を守るという決死の覚悟ゆえであった。タウエンツェーンが最前線で剣を掲げ、血を吐くような後退戦を指揮し続けたのは、すべてフランス軍を、味方の砲兵隊が作り出す死地の奥深くへと引きずり込むためであった。
「……来るぞ。我が友の『補助線』が」
そして、敵の戦列が完全に罠に嵌まったその瞬間――、左側面の丘陵から、大量の砲口を並べた軍勢が突如として姿を現した。
「タウエンツェーン、最高の仕事だ。あとは任せてくれ。――砲兵隊、撃て!」
ビューローが指揮棒を振り下ろすように剣を振るうと、丘の上からカノン砲による猛烈な集中砲撃が、重厚なティンパニの連打となって容赦なく叩きつけられる。
さらに、敵が進撃せざるを得ない隘路にあらかじめ照準を合わせていた榴弾砲の火網が、天を衝くような曲射で漸強音を描くように真上から降り注ぐ。
逃げることも身を隠すこともできぬフランス兵は瞬時に肉片と化し、ネイの攻勢は悲鳴と怨嗟の不協和音を残して完全に頓挫した。
さらに追い打ちをかけるように、吹き荒れる砂塵の幕を割って、プロイセンの猛烈な騎兵突撃と散兵の銃撃が断音となって側面を襲った。
この惨状にネイは冷静さを失い、部隊を右往左往させた挙句、フランス軍は隊列を崩したまま狭隘な街道に押し込められ、なす術もなく釘付けとなった。
ビューローの猛攻、協奏曲からさらに三時間半。
フランス軍の背後を突く丘の上で、ベルナドットが、静かに右手を振り下ろした。
「今だ。敵軍への進入角よし、勝利の定理を証明しろ」
直前までの豪雨が残した泥濘の悪路を、わずか数時間で十五キロメートル以上も激走したスウェーデン・ロシア連合軍が、背後の森から鮮やかな隊列で出現した。
吹き荒れる砂塵と、もうもうと立ち込める硝煙。
その最悪の視界のなかで彼らが一斉に放った砲弾の雨は、もはや鉄の塊ではなく、ネイの慢心を打ち砕く「理詰めの回答」であった。
「何だと!? どこから現れた!」
驚愕するネイ。
その側面からビューローの軍団が雪崩れ込み、正面で耐え抜いていたタウエンツェーンの軍団が、信じられない活力で反転攻勢に転じた。
「全軍前進! 殿下が導き出したこの瞬間を逃すな!」
正面が押し返し、側面が刈り取り、後方からすり潰される。
ネイの軍は、巨大な万力に挟まれたかのように、戦場の悲鳴とともに瓦解していった。
ベルナドットは間髪入れずにチェルニショフの騎兵隊 を解き放つ。
退路の要所だけを正確におさえ、敵を自滅へ追い込む最速で最低限の矢。ネイの軍は再起の余地すら奪われていった。
かつてハノーヴァーの夜に語り合ったハインリヒの教本を、そのまま戦場へ具現化したかのような、壮大な交響組曲の完璧なる大終曲であった。
デネヴィッツの戦場に、静寂が訪れていた。
ベルナドットは泥と硝煙にまみれたビューローの前に立つと、突然、自らの胸元に手をかけた。
そこには、スウェーデン王国の最高名誉である「セラフィム勲章」が、鮮やかな水色のリボンに揺れていた。
「……閣下、これを受け取れ」
ベルナドットは仰々しい儀式も慇懃な前置きもなく、その重厚な勲章をビューローの胸に叩きつけるように押しつけた。
「殿下、何を……。これは王家の、手続きもなしにこのような──」
驚き、言葉を詰まらせるビューローを、ベルナドットは力強い眼差しでねじ伏せた。
「手続きなど知るか。これは王太子としてではなく、一人の男としての授与だ。ビューロー閣下、この勝利を貴公と……貴公の亡き弟君、ハインリヒに捧げる。あの夜、私を信じてくれた貴公たちの知性が、今日、欧州を救ったのだ!」
ビューローの瞳に、一気に涙が溢れた。
かつて自国に背かれ、獄死した弟。
その無念を、宿敵であったはずのこのガスコーニュ人が、今、最高の名誉という形で昇華させてくれたのである。
ビューローは勲章を握りしめ、震える声で絞り出した。
「……感謝いたします、ジャン=バティスト」
その光景を囲んでいたプロイセン兵やロシア兵、スウェーデン兵たちが、一斉に歓声を上げた。
彼らはこの数ヶ月で、自分たちの胃袋を満たし、命を無駄にせず、勝利を分け与えてくれたベルナドットを、親愛を込めて「オヤジ」と呼ぶようになっていた。
「おい、オヤジ! いくらなんでも気が早すぎるぜ!」
ひとりの古参兵が、愉快そうに声を張り上げて野次を飛ばした。
「まだナポレオンが残ってるんだ! そんな高いモン、今から配っちまって、ナポレオンを倒した時は何をくれるんだい?」
「そうだそうだ! オヤジ、俺たちの分も取っておいてくれよな!」
やいやいと囃し立てる兵士たち。
その騒がしさは、恐怖で統制された軍隊のものではなく、ひとりの父を慕う巨大な家族のそれであった。
ベルナドットは、涙を浮かべたビューローの肩を抱き、兵士たちに向かって豪快に声を弾ませた。
「心配するな! ナポレオンに勝った時は、スウェーデン中のワインを振る舞ってやる! それまでに、しっかり腹を空かせておけ!」
ベルナドットは、集まってきた将軍たち一人一人の瞳を見つめた。
かつては互いに疑い、反発し合っていた将兵たちが、デネヴィッツの陽光の下で、ついに「信頼」という名の等式で結ばれたのだ。
ベルナドットの瞳に、わずかに熱いものが光った。
「諸君……。この勝利は私の勝利ではない。君たちが、自分たちの力で導き出した『正解』だ」
ナポレオンが築いた恐怖の支配を、彼らは知性と信頼で完全に塗り替えた。
澄み渡る秋空の下、かつての宿敵たちは、今や戦友として、静かな、しかし確かな感動のなかに立ち尽くしていた。
翌日、デネヴィッツの荒野に、ベルナドットの鋭い号令が飛んだ。
「勝利の余韻に浸るのは終わりだ。予定通り、網を絞れ」
ヴィンツィンゲローデの騎兵隊が昨夜から追撃戦を行っているチェルニショフを追って行く。
残りの軍団も次々と追撃戦に加わった結果、逃げ惑うネイの軍団は、退路を次々と抑えられ、食事どころか休息をとることさえできず、文字通り解体されていった。
ビューローの名前はこの2つの戦いでのみ普通は出てきます。どういうわけかこれ以外の戦いは歴史から綺麗に消されます。ナポレオン戦争の解説動画をみていると、北方軍が消されているので、怪奇現象みたいな事がおこります。突っ込みを入れながら見ると楽しいです。
有名なプロイセンの勲章がスウェーデンの勲章の上に描かれている肖像画は八十年後に描かれたものです。
ビューローが生きていた同時代の肖像画に描かれているスウェーデン最高勲章はこの時にもらったものです。スウェーデン王室のメンバーや外国の国家元首、またはそれに準ずる者(国賓など)にのみ授与されるものなので、スウェーデン議会の許可が貰えなかったのか、ビューローはセラフィム勲章の正式な授与者に入ってません。そのかわりに軍人が貰える最高勲章をもらっています。
つまりビューローが誇りにしていたセラフィム勲章は、ベルナドットの私物です。ビューローは、ベルナドットが1810年にもらったセラフィム勲章をつけて、肖像画を描いてもらってるのです。仲良すぎませんか。
ただ、本当にあれがセラフィムかどうか、本当に戦場で渡されたのか、などは諸説あります。セラフィムだとしたら、仲良しの印以上に、ベルナドットの代理としての指揮権譲渡を意味するのではと思っています。




