グロースベーレン
――グロースベーレン、休戦明け一週間後の一八一三年八月二十三日、ベルリン市境から、南にわずか五キロメートル。
「ビューロー閣下、ここは君の戦場だ。手筈通り、プロイセンの底力を見せてくれ」
最高司令官ベルナドットの指令が飛ぶ。
空はなおも重く垂れ込め、叩きつけるような豪雨が戦場を泥の海へと変えていた。激しい大雨によって両軍の火薬は湿り、歩兵の銃はただの「重い棒」と化していた。
兵站ぎりぎりの進軍をしているフランス軍には、泥濘のなか迂回する道を探す余裕もなく、正面からの攻撃以外の選択肢はなかった。
この最悪の条件下で、ウディノ元帥の麾下であるレニエ将軍が、ザクセン軍を主力に据えた猛攻を仕掛けてくる。
肉薄する白兵戦の泥沼に陥りかけた、その時。
最前線の雨煙のなかに、一騎の長身の将軍が姿を現した。
「――ベルナドット元帥か!?」
突撃していたザクセン兵たちが、目を見開いて動きを止めた。
そこに毅然と立っていたのは、かつてワグラムの戦場で自分たちを指揮した男。ナポレオンの逆鱗に触れてまで、自分たちの勇気を公式の軍報で称えてくれた、あの忘れもしない「元帥」だった。
「諸君! かつての愛すべき部下を、私に撃たせるつもりか!」
ベルナドットの朗々たる声が雨音を貫く。
その瞬間、ザクセン軍の戦列に、致命的な「動揺」という名の巨大な変数が書き込まれた。
ビューローがその隙を逃さず、鋭く剣を振り下ろした。
「突撃の最適角を補正しろ! 突撃!」
その直後。この視界を遮る豪雨のなか、沈黙していたはずの最強の打楽器――絶対に火を噴くはずのない砲兵陣地から、地鳴りのような斉奏を伴った、凄まじい轟音が響き渡った。
ビューローの突撃に合わせ、まずスウェーデン砲兵隊が、その後を追うように連合軍の砲兵隊が一斉に火を噴いた。一点の狂いもない、完璧に調律された死の旋律。それは正確に標的を粉砕する「理性の雷」だった。銃も大砲も使えないフランス・ザクセン連合軍に対し、北方軍の乾いた砲弾が次々と直撃していく。
軽騎兵を指揮するチェルニショフは、ガラス玉のような瞳に昏い愉悦を浮かべ、その圧倒的な砲火を見守る。
腹一杯の飯を食い、新調された頑丈な靴を履いたビューロー軍団の猛進が、地を揺らす重厚な行進曲となり、ナポレオンのベルリン進撃の夢を完膚なきまでに打ち砕いた。動揺したザクセン軍の戦列はついに崩壊する。
「――閣下、あの大砲は一体?」
返り血と泥にまみれたヴィンツィンゲローデが、呆然とベルナドットに問いかけた。
「ヴィンツィンゲローデ。雨は敵ではない。勝利の等式を完成させるための定数の一つなのだよ」
彼らはベルナドットの指示により、弾薬箱に特別な防水処置を施していた。砲門の覆いを点火の直前まで外さない、「北国の知恵」という名の合理的な算術を駆使していたのである。
「気合で雨は止められないが、工夫で火薬は守れる。――さあ、夕食の時間だ。略奪なしの、温かいスープが待っているぞ」
ベルナドットは満足げに眉根を和らげ、敗走する敵陣を尻目に、再び感情を交えない「主宰者」の顔に戻ったのである。
グロースベーレンの戦場は、勝利の歓喜と深い泥濘のなかに沈んでいた。
歩兵による追撃は不可能であった。
馬の腹まで浸かる泥。視界を遮る豪雨。
それらが皮肉にも、ナポレオン軍の残党を救った。
しかし、それでもチェルニショフのコサック騎兵だけは、容赦のない追撃を敢行する。
逃げ遅れたフランス兵やザクセン兵たちは、絶望のなかで武器を捨てた。
数千に及ぶ捕虜たちが、泥にまみれた連合軍の陣地へと引き立てられてくる。
そこで彼らを待っていたのは、銃殺刑ではなかった。
立ち上る炊き出しの煙。
そして、ベルナドットの、どこまでも陽気で親しみやすい声音であった。
「諸君、災難だったな! だが安心しろ。今日から諸君は、飢えと無謀な計算から解放されたのだ」
ベルナドットは自ら捕虜たちに混ざり、温かいスープを配って歩いた。
フランス兵には故郷の噂話を。
ザクセン兵には、かつての戦友としての労いを。
略奪を厳禁し、兵站を完璧に整えていたからこそ誇示できる、圧倒的な「勝者の余裕」の演出であった。
その夜、北方軍の本営では、ベルナドットがかつてないほど上機嫌に振る舞っていた。
「見たか、諸君。 ビューロー閣下のあの突撃を! まさに完璧に証明された幾何学的な美しさだ。彼はプロイセンが生んだ最高の芸術家だと思わないか!」
ベルナドットは居並ぶ将校たちの前でビューローの手を握り、これでもかと褒めちぎった。
普段は気難しいプロイセン親父のビューローも、衆目の前で「最高の正解を出した」と絶賛され、顔を真っ赤にしながらも悪い気はしなかった。
深夜、ビューローは天幕のなかで、雨音を聞きながら故郷の若い妻へ手紙を書いていた。
そこには、シレジアのグナイゼナウたちが聞けば卒倒するような内容が綴られていた。
『――私は今日、生涯で最高の上官に出会えたと確信している。王太子は、気合だの根性だのといった曖昧な言葉を使わず、常に我々に勝つための道筋を語ってくれる。彼の下であれば、私は何度でも死地へ向かえるだろう』
『――もっとも、あの男の「褒め癖」には困ったものだ。私を褒めちぎったかと思えば、その直後にスウェーデン砲兵の工夫や、ロシア騎兵の忍耐についても同じ熱量で賛辞を贈る。わが軍の功績が、少しばかり薄まってしまうではないか……』
ビューローは筆を置き、ふっと口元を綻ばせた。
ハノーヴァーでハインリヒの遺稿を介し、数学を語り合ったあの夜。
あの日から始まった奇妙な計算式が、今、ベルリンを救うという確かな「解」を導き出したのだ。
天幕の外では、ヴィンツィンゲローデが、部下たちとともにエールを酌み交わしていた。
義勇兵の勧誘の為に、捕虜も交えて愉快そうに騒いでいる。
「ビューローの旦那は、手紙に『殿下は食えない男だ』とでも書いているのではないか?」
ヴィンツィンゲローデが言うと、部下たちもエールを傾けながら応じた。
「ははは! だが、あんなに嬉しそうな顔をしたビューロー閣下を見たのは初めてですよ。殿下の人心掌握術は、もはや魔術ですね」
ナポレオンが「人望」という名の変数を失いつつある中で、ベルナドットは北方軍のすべての兵士の心に、その『変数の最大値』を完全に書き込み終えていたのである。
ビューロー、すでにこのキャンペーンの三回目の勝利です。単独でも簡単に勝っていましたが、今回は他国軍の大砲の支援も受けられましたし、騎兵による追撃もできています。
単独での暴走みたいに言われますが、ちゃんと連携しての勝利です。
手紙の内容はもうすぐ発表されるみたいで、ベルリン歴史協会にある資料の一部だけ読めました。イエナ橋の爆破に反対していたとか、ビューローの高潔な性格がよく分かる文章です。




