ロシアの冬
――ナポレオンの退却路を塞ぐように展開する、ロシア遊撃部隊の陣営。
そこには焚き火を囲む、コサック騎兵の指揮官であるチェルニショフとテッテンボルンの姿があった。
「ヴィンツィンゲローデの野郎、深追いしすぎだ」
チェルニショフが苦い顔で呟いた。
「言葉が過ぎますよ、チェルニショフ。……とはいえ、閣下の戦術計算の甘さには、私も同意せざるを得ませんがね」
テッテンボルンも疲れた顔で同意する。
「ふん、事実だから仕方ねえだろ。それと、あんなところでナポレオンに言い返すとは……。まあ、あいつらしい。テッテンボルン、準備はいいか?」
「ああ。皇帝がパリへ送るというなら、その途中で『引き算』をしてやるだけです」
一八一二年、ロシアの極寒の戦野。
退却の混乱の中で、その事件は起きた。ヴィンツィンゲローデをパリへと送る護送車が、雪の吹き溜まりで立ち往生した瞬間である。
地平線から、まるで地鳴りのような叫びが上がった。
追撃の先頭に立っていたのは、ボロジノで壊滅的打撃を受け、後方本陣で療養中であったはずのヴォロンツォフ将軍が残した、ロシア正規兵の生き残りたちであった。
彼らはクトゥーゾフの「じっとしていろ」という命令を自らの意志で踏み越え、突撃を敢行したのだ。その背後には、いまだ歩くのもやっとの足の痛みに耐えながら、本陣の地図からフランス軍のわずかな隙を見落とさず、兵たちに正確な突撃の合図を送ったヴォロンツォフ自身の、執念の「決断」があった。
「もう魂だの聖なる大地だのという寝言はたくさんだ! 自分の手で、この地獄に決着をつける!」
ヴォロンツォフが示した針路に従い、ロシア兵の騎兵隊が、獲物を狩る狼のようにフランス軍の側面に突き刺さる。あまりの勢いに、飢えと寒さで限界を迎えていた護送部隊は、戦う間もなく四散した。
「おい、あいつらコサックを差し置いて突撃しやがった。なんて奴らだ、計算が合わなくなる!」
慌ててチェルニショフがヴィンツィンゲローデの救出へと駆ける。テッテンボルンは、ロシア軍が逆襲されぬよう、配下の軽騎兵を散開させて大軍に見せかける「魔術」を展開した。
救出劇は、わずか数分の出来事であった。フランス軍が体勢を立て直す頃には、彼らの姿は白い地獄の彼方へと消えていた。
チェルニショフたちの鮮やかな連携、割当られた役割の全う、そしてヴォロンツォフの頭脳による「決断」により、ヴィンツィンゲローデ救出は見事に成立したのである。
その夜、ロシア軍の宿営地。
焚き火を囲む陣営に、後方から片脚を引きずったヴォロンツォフが合流した。テッテンボルンがベルナドットからの最新の指令書を広げる。
「ヴィンツィンゲローデ閣下、殿下からの指令です。『速やかにハンブルクを解放しろ。兵はハンザ同盟で集めろ』と」
ヴィンツィンゲローデは、呆れたように首を振った。
「ナポレオンはあいつの名を聞くだけで怒り狂っていたが……なるほど、捕虜を大切にし、略奪を禁じ、味方の損害を嫌い、商売人のような戦い方か。確かに彼奴が嫌うわけだ」
「それだけじゃありませんよ」
テッテンボルンが誇らしげに割り込む。
「殿下は今、英国からの全面的な物資支援を取り付けています。目指すのは『兵士が絶対に飢えることのない軍団』です」
「飢えることのない軍……だと?」
ヴォロンツォフが思わず身を乗り出した。目の前の悲惨な泥沼の兵站とはあまりにかけ離れた、しかし英国の合理性を知る彼にとって最も理想的な言葉。
「ぜひ、私をその軍に加えてくれないか。王太子に話を通してほしい」
テッテンボルンは穏やかに微笑んだ。
「素晴らしい。貴公のような確かな知性が加われば、殿下の『計算式』はより完璧なものになる」
「歓迎するぜ、ヴォロンツォフ」
チェルニショフも焚き火の前に座り直し、獰猛ながらも嬉しそうに白い歯を見せた。
「お前はヴィンツィンゲローデみたいな、「へま」はしなさそうだしな」
ヴォロンツォフとベルナドットの接点が本当に謎で、イギリスで育ったヴォロンツォフがロシアにあわなくて北方軍に来たのかなと思っています。




