モスクワ
一八一二年九月七日、ボロジノ。
空は硝煙で低く垂れ込め、最前線の土塁周辺は、もはやこの世の光景とは思えぬ鉄と肉の修羅場と化していた。
三十歳のヴォロンツォフは、領地で教育し、鍛え上げてきた自慢の師団が文字通り削り取られていくのを、血走った瞳で見つめていた。部隊は壊滅寸前まで追い込まれながらも、辛うじて全滅の淵で踏みとどまっている。だが、それも時間の問題であった。
「……信じがたい。これが、総司令官の導き出した『答え』か?」
ヴォロンツォフは泥にまみれた軍帽を叩きつけた。総司令官クトゥーゾフの放つ、「聖なるロシアの土を気合で守れ」という野蛮な怒声。ロンドンで高度な教養を修め、理性と論理を尊ぶヴォロンツォフにとって、この無策な消耗戦は耐えがたい「知性の欠如」に思えた。
「ロンドンの合理性が恋しい……。あそこの士官なら、地形と兵站を計算し、もっとスマートな勝利を掴んだはずだ。誰かいないのか! この泥沼に秩序をもたらす、まともな頭脳を持った指揮官は!」
ヴォロンツォフの叫びは、フランス軍の放つ巨砲の轟音にかき消された。
その頃、ロシア軍の後方では──。
グナイゼナウの若き友であるクラウゼヴィッツは、ハノーヴァー出身のロシアの老将ベニグセンと共に、泥濘に埋まる馬車を押し出しながら、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。
「ベニグセン閣下。戦争の本質とは、客観的な数式では測れぬ『不確実性』の霧に包まれています。ゆえに、この泥の『摩擦』を相殺するのは物理的な計算ではない。不測の事態を突破する『戦争の天才』たる精神的熱量、すなわち、物質の質量を超越した絶対的熱量の行使のみが、理論上、この馬車を一瞬で──」
クラウゼヴィッツは自らの理論に陶酔した目で熱弁を振るい、胸を張った。
「その『理論』で馬車が軽くなるなら、いくらでも喋るがいい」
あまりの馬車の重さに、老将ベニグセンは汗を拭いながら、胸の内にあった思いを、つい口にしていた。
「……ベニグセン閣下。ロシアの泥濘を前に、言語の無力さを説くことこそ非理論的です。よろしい、ならば亡命の荷物に紛れ込ませた我が魂の理論をお聴きください」
「おい、何を取り出す気だ」
不審に思ったベニグセンが止める間もなく、プロイセンから持参した私物のバイオリンをクラウゼヴィッツは顎に挟んだ。
「これより、気合による絶対的熱量の行使を実演します!!」
(ギィィーーーコォォォ!!!)
広大なロシアの泥道に、耳を突き刺すような超高音のノイズが響き渡る。
クラウゼヴィッツは目を血走らせ、バイオリンを力任せに激しく掻き鳴らしながら、泥まみれの二本脚で狂ったように馬車を肩で押し始めた。
「うわあああ! 鳴らすな! 耳が腐る! 押せ! 早くこのプロイセンの狂人から離れるために馬車を押すんだ!!」
あまりの精神的恐怖に耐えかねたロシア兵たちが大絶叫しながら爆発的な力を発揮し、埋まっていた馬車が猛スピードで泥から飛び出した。
「ハァ……ハァ……見ましたベニグセン閣下……。これが精神の勝利、すなわち絶対的戦争への第一歩です……」
(バタッ)
「私の足元でロシアの泥水に突っ伏すなクラウゼヴィッツ!! 誰だこんな奴をプロイセンから連れてきたのは!!」
一八一二年九月、モスクワ。
ナポレオンはクレムリンの玉座に深く腰掛け、勝利の余韻に浸っていた。
「見たか。ベルナドットの策略など、この都を手に入れた瞬間に消え去った。私は、ロシアの心臓を止めたのだ」
しかし、その高慢な言葉が虚空に消える前に、窓の外が真っ赤に染まった。
火の手は一箇所ではない。都のあちこちから、まるで計算されたかのように同時に火の手が上がったのだ。ナポレオンが「勝利の宿」と決めたモスクワは、一瞬にして巨大な炎の牢獄へと姿を変えた。
「陛下! 倉庫が燃えています! 食糧が……すべて灰に!」
「馬の飼料もありません! コサック共が、わが軍の補給部隊を根こそぎ刈り取っております!」
報告が届くたびに、ナポレオンの顔から血の気が引いていく。
都は手に入れた。だが、そこにはパン一つ、毛布一枚残されていなかった。黒海とバルト海の物流を封じられ、陸路の細い糸も、ベルナドットの息がかかったテッテンボルンやチェルニショフの手によって、容赦なく断ち切られていた。
「……ベルナドットめ。あいつの言った通りだ」
ナポレオンは焦げ付いた窓枠を拳で叩いた。
「デジレの言う通り、ノルウェーをくれてやればよかったのだ。そうすれば、バルト海はわが支配下にあり、背後を脅かされることもなかった。私は一時の自尊心のために、この大軍を飢餓という名の沼に沈めてしまった……」
皇帝が初めて自らの「計算違い」を認め、撤退という名の地獄への扉を開いた時。ナポレオン軍の先遣隊が、一人の捕虜を引きずってきた。
「陛下、反乱分子の首謀者を捕らえました」
現れたのは、ボロボロの軍服に身を包んだヴィンツィンゲローデであった。彼は同盟国であるプロイセン側のドイツ人でありながら、ロシア軍の将軍となってナポレオンと戦っていた。
この執拗な裏切り者を一瞥したナポレオンの顔が、焦燥と怒りで歪む。彼は捕虜の襟元を掴まんばかりに身を乗り出した。
「ヴィンツィンゲローデ! ドイツ人でありながらロシアの犬となり、こそ泥のようにわが背後を脅かすか! 貴公のような裏切り者は、今すぐこの場で銃殺刑にしてくれる!」
「……お好きになさるがいい、陛下。私一人の命を奪ったところで、この荒野に仕掛けられた罠の行方は変わりません。陛下は、もはや負けておられるのです」
ヴィンツィンゲローデはどこか淡々と、しかし確信を込めて言い放った。だが、その一切の死を恐れぬように見えた眼差しを、ナポレオンが激しい焦燥とともに睨み返すと、男の表情がにわかに強張った。
「……ま、待ってください陛下! 私は裏切り者ではっ……!」
「ええい、見苦しい! 連れて行け! パリへ送れ! ……貴公らの小癪な企みごと、いま我が身に降りかかるこの雪とともに、すべて白銀の下へ埋もれさせてくれるわ!」
ナポレオンの怒声が、荒野の寒風に虚しく響き渡る。
チェルニショフはパリでベルナドットと会っていますし、ロシアがスウェーデンと交渉する時にも会っています。その時からわりと意気投合して作戦とかを練っていた所があります。
テッテンボルンは史実では接点がないので、無理やりにハノーヴァ時代に会った事にしています。放浪していた彼は、実際にベルナドットとの接触があってもおかしくはない位置にいました。




