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アレクサンドル

 一八一二年八月末、フィンランド・オーボ。


 ロシアとの外交交渉を終え、種々の条約をまとめた後も、ベルナドットは二日間にわたりアレクサンドル一世と行動を共にした。誰も信用せぬアレクサンドルの心を少しずつ溶かしていくためだ。


 夜の静寂しじまに包まれた部屋で、ロシア皇帝アレクサンドル一世は、目の前の男に神の啓示を見ていた。


「殿下……貴公は、私を救うために天から遣わされたのか」


 三十四歳のアレクサンドルは、四十九歳のベルナドットの手を固く握りしめていた。ベルナドットはアレクサンドルの目をまっすぐに見つめ、父親のような温かい眼差しを向ける。


 ナポレオンという怪物の影に怯え、精神の均衡を失いかけていた若き皇帝にとって、ベルナドットの放つ揺るぎない自信と隙のない合理的な知性は、闇を照らす唯一の光であった。



 北の果てで最高の「解」を得たアレクサンドルは、奇妙な高揚感を胸にペテルブルクへと帰還した。それからわずか十日後、王宮に最初の伝令が飛び込んできた。


「陛下! クトゥーゾフ元帥より報告です。ボロジノにてナポレオンを撃退。我が軍の勝利にございます!」


「おお!」

 アレクサンドルは歓喜に震えた。同時に軍部からは、退却するフランス軍を包囲するための作戦計画が提出される。アレクサンドルは喜んでその書面に署名した。


 だが、勝利のうたげの準備が進められている最中、不吉な足音とともに最悪の続報がもたらされる。


「……陛下。クトゥーゾフの軍は壊滅を避けるため後退。ナポレオンはモスクワへの入城を開始いたしました。モスクワは……陥落いたしました」


 アレクサンドルはひざから崩れ落ちた。


「神よ、なんということだ……。ロシアは滅びる運命なのか。クトゥーゾフの奴を信用した我が愚かだったのか」


 アレクサンドルは神に祈る。だが、神は何も答えない。



 激しい震えのなかで、彼はすがるように書斎の引き出しを開け、大切に保管されていた一通の書簡を取り出した。それはオーボでの会談の直後、北の王太子から届けられたものであった。


 そこには、現在のこの惨状をすべて予見していたかのような言葉が並んでいた。


『モスクワが落ちても落胆しないでください。都は石の塊に過ぎませんが、ナポレオンの軍は生き物だ。そして生き物には「食事」が必要なのです』


『フランス軍の兵站は、すでに限界を超えて伸び切っている。陛下が放たれたチェルニショフやテッテンボルンといった勇敢な将校たちが、今この瞬間も、皇帝の唯一の生命線である補給路を理にかなった手際で断ち切っております。モスクワまで攻め入った彼は、巨大な「空腹」という名の牢獄に入ったのです』


『我が国とトルコを味方にできず、バルト海と黒海からの輸送を諦めた時点で、ナポレオンは敗れているのです。彼は自滅する。冬が、それを確実なものにするでしょう。陛下、必要なのは忍耐です。時が満ち、彼が飢えに耐えかねて退却を始めるのは時間の問題です』


『ナポレオンは最初の戦い、あるいは第二戦、第三戦まで勝つかもしれない。しかし第四戦は引き分けになり、陛下が辛抱強く戦い続ければ、第五戦目は間違いなくロシア帝国の勝利、陛下の栄光となるでしょう』


 アレクサンドルは、ベルナドットの淀みない言葉を何度も読み返した。


 それは世界を俯瞰ふかんする当たり前の計算でありながら、絶望の淵にある若き君主にとっては、かつて羊飼いの娘が気弱な王太子に授けた「天の託宣」そのものであった。


 血統も、身分も、国家の枠すらも超越した一通の書簡。読むうちに、冷え切っていたアレクサンドルの魂に、畏怖にも似た熱い狂信が宿り、激しく燃え上がるのを確かに感じていた。


「……信じよう。貴公の導き出すその答えを、私は信じる」

 アレクサンドルは親衛隊に父親が殺されていて権力がほとんどない皇帝です。ロシア宮廷の魔窟で神経をすり減らし、ロシア遠征で神経をすり減らしています。

 クトゥーゾフは宮廷貴族に影響力があり、勝ったら自分の手柄で負けたらアレクサンドルのせいにする名人です。

 こんな状況なので神だけが頼りなわけで、亡くなったあとに、修道士になってロシアを放浪したという伝説のある人物です。

 庶民出のベルナドットがロシア皇帝の前で語り合える高い身分おうたいしになっていて、アレクサンドルを導いた事は確かに奇跡です。

 ベルナドットが神の使徒みたいにみえたのも無理ありません。

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